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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
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「定型」を疑いたい


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「定型」というのがあります。
今だと「デフォルト」、とか言いますか。
初期設定とかそういう意味ですかね。

ま、障害者が施設を出て一人でアパートを借りて暮らす、みたいなことって、一般には「自立生活」とか言うのがデフォルトですか。
「障害者自立生活運動」みたいなことを言いますのがデフォルトですか。
ま、もうデフォルト使うのやめます。

ウチもそういうことをやっている、ということですけど、まあ、「自立生活」という言葉は普段はあまり使わないですが(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-3356.html)。

時折なんですか、テレビなんかでやってますね。
「自立生活への道」、みたいな。
「○○ちゃんの自立生活」みたいな。
ま、どうですかね、見たりすることはありますけど、基本見ませんけど。

研究会じゃないけど、全国大会とかそう言うのとかでもたいがいこの「自立生活」ってのは話題になります。
というか、どこの全国大会でも、たいがい分科会のテーマになっていたりします。

いろいろな団体が全国大会をやってますけど、どっかに行く、と決めてるわけでもないんですが、日にちとかあったり、お金があったりすると数人で行ったりします。
昔で言う社会党系、共産系、みたいなことも関係なく、どっちにも行きます。
たいがい井上たちのアレとしては、交流とかそういうんでしょうけど、俺なんかも付いていったりしますが、俺はあまりそうですね、どっか遊軍で、ちょっと気楽に参加してるんですが。
ま、終わった後のその土地の飲み屋とかも楽しみですし、そもそも旅行は嫌いじゃない。

と言うのもずいぶん前の話で、俺が行くことはもうほぼないんですけど、なんかレポートとか見てると、そういう「自立生活」というのには、定型があるんですよね。
これは昔で言う社会党系も共産系もたいがい同じでしたね。
ま、自立生活運動はそもそも社会党系が強かったわけですが。

例えば、親と介助者(ヘルパーとか支援者とか、いろいろ言い方はあるけれど)が話をする場があったり。
介助者が付ける日記があります、とか。
なんだかんだ親がその家に入り込んでいたり。

まあ、そういう感じ。

つまりは、親が親代わりを親の指導の下、新たに作っている、という感じですね。
介助者という親を作ろう、という。
いや、全否定するつもりはない。
わからなくはない。
親としてはボランティアとか介助者とかいろいろやな目にあって今日まで来たんだろうし、口を出すのもわからなくはない。

ただ、一つ言えるのは、手放しで子どもを「独立させる」つもりはないわけだ。
親の「自分色」の自立生活を、子どもに「やらせる」という形態である、ということだよね。
わかる。
わかるよ。
知的に障害があったりしたら、そりゃそうなるのもわかる。
わかるよ。

介助者の日記、というのも、まあ申し送りもあるだろうけど、たいがいはラブホにおいてあるノートと同じだ。
それ、まあ初代会長のあき江さんがやってた。
介助者がボランティアで、学生だった頃ね。
つまり、あき江さんとしては、「学生サークル」のノリを出したかっただけで、そこにあまり意味はなかった。
結局は、介助者主導というか、介助者自身が主体であると、彼らに「勘違い」させるための装置であって、深い意味はない。

ま、確かに、本人がボケてきたとか、そういう場合はそうした「申し送り」は必要になってくる場合はある。
それは必要に駆られてやることである。
もしくは、あき江さんのように「そういう目論見で」始めることもあろう。
どっちにせよ、それは本人が、もしくは本人が認識できなくなった場合の必要性というのがスタートになる。

つまり、そうした必要性がないまま、「自立生活とは介助者同士のノートがあるものである」というコトで始まってしまうことが多い、ということを指摘したいのだ。
定型がノートありきだから、ノートはあるべきだ、となってしまう、という逆説。
親が別に家に入り込まなくていいと思うんだけど、というか、それって別宅に住まわせてるだけジャン、とも思うんだけど、それが「定型」だから、そうなる、というような。

冷静に考えれば、自立生活なんて言うものは、各々違う生活の色があっていいわけで、もっというと「ダメになる」という選択肢もないわけじゃない。
けれども、介助者の方も、例えばヘルパー研修なんかで「障害者はネガティブになりがちです」「ポジティブになれるように声かけしましょう」なんてことを教わってくるモンだから、それが「定型」だと思い込んでやってしまう。
そして、まあそれは親が望むことでもあるから、そこで合致してしまい、定型は定型としてより強化される。

何時に寝るか、今日は夜更かしするか、今日は何を食べるか、もしくは今日は食べないか。
そんなことは自由であるはずで、それが「親から独立する」≒「自立生活」の意味なんだろうと思うけど、ポジティブ教と定型によってその自由度が狭められたりしてしまう。

ま、例えばグループホームなんかを自立生活と言えるのかどうか、ちょっとその言葉を使わない俺にはわからないけど、その場合、まあ決めちゃった方が楽なんですよね(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-5220.html)。
世話する方の人が。

だからまあ、それが定型になり、それを見た人がまた「これが定型か」と思ってしまう。
つまりは本人不在なんだけど、まあそれでも「自立生活ビジネス」と言うようなモノはそこで「定型」の上に成り立ってしまう。

自立生活にプログラムがあるのだったら、それはもう自立生活ではないし、定型があると「考えるのなら」それは、もう自立生活じゃなくて「支配生活」だとオレは思うんだけど。
もちろん、先に書いたようにいろいろな要因があって、その中でもまれて「仕方なく」産まれてきたモノが「定型」だとは思うんだけどね。
だからそれをまっこうから否定する気はないのよ。
どっちかというと、その「要因」を俺は潰したい。

ま、ちょっとすっ飛ばしてるんであれだけど、まあ大枠そんな風に思ったりしています。







(BGM:郷ひろみ「逢いたくてしかたない」from「THE GREATEST HITS OF HIROMI GO Vol. II [Disc 1]」)
→歌い上げる系のいいバラードだよな。
作曲の方、都志見隆さんという人なんだけど、ちょっと見てみたらいろいろ書いてる人なのね。
このサビはもう知らない人はいないという感じで、なかなかどうしてこういうのすごいな、と思う。
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否定することを恐れないで


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ま、色々思うことはあるんですけど。

子育ては怒るより褒めろ、なんてことを言いまして。
わかります。
その方が、毎日はイライラせずに進みますし、親サイドとしてはそっちの方が気持ちがいい。
いや、これはなにもそれを否定したいわけじゃなくて、だって親が冷静で楽しく朗らかでいた方が、とにかく子はいい影響を受ける。
何かあったときの、というか、必ず何かあるわけですよ。
万引きしたとか。
で、そういう時に「余裕を持って接することができる」という。

日々イライラしていたら、もう緊張の糸が張ってる状態になってますから、そこで何か突発的なことが起こったときに親が冷静に対処できなくなる。
で、子どもに当たったりする。
悪循環になってしまいますから。

まあ、大事なのは子の環境というのもあるけれど、どっか「親の環境の方が大事だよ」という気がします。
つまり、明日食べるものに困らないだけの余裕、とか。
夜勤務だろうが、昼勤務だろうが、きちんと休める仕事をしている、とか。
そういうことがあって、始めてまあ子育てというのは進んでいくわけで、それは大事だな、って話が前提なんですけど。

で、しかしですね、これ「褒めろ」なんですが、それはいいんですが、じゃあ「人の道を外れたことをしたときにどうするか?」って問題が残るわけです。
そこで褒めるわけにはいかないでしょう。
「万引きしてよくやったね!」とは言わない。

ウチで癇癪を起こして家のモノを破壊したとします。
それで褒める、ってことはないわけで、その行為は「否定」しなければならない。

簡単に言えば、「叱る」ってことなんでしょうか。
ま、これも普段褒めているからこそ引き立つわけで、褒めるを否定したいわけじゃないんですよ。

ただね、よく「怒らないで叱れ」とか言いますけど、その違いがよくわからない。
まあ、「言って聞かせる」みたいなことなんでしょうかね。
「なんでダメかをしっかりと教える」みたいな。
ま、なんとなくそれはわかる。
怒りにまかせて上手く行くことなどないですから。

とはいえ、じゃあ「言葉を解さなかったとしたらどうするか?」って問題がここで発生するわけです。
例えばウチで言えばカイとか。
言って聞かせるいっても、言うも聞くもそもそも成り立たなかったら、もうお手上げになってしまう。

ま、だからそこはもう「怒ってるよ!」を伝えるしか方法はなくなるわけです。
これは表情だったりで伝えることができます。
「そんなことやったらダメなんだよ!」と怒ってることを表現してわからせる、というか。

結局、周りの人、助けてくれる大人、まあ子育て言ったら親になるわけだけど、その人が怒ってるとなれば、それは地球が割れるような大問題ですから。
そこのヘンをくすぐる、みたいなことになるんですかね。

これね、なんでこんなことを書いているかというと、例えばさっき書いた「万引き」とか、「モノを壊す」といったことについて、子ども時代に「きちんと否定」をしてやらないと、大人になって、結局「気に入らなかったら壊す」「欲しいから万引きする」になっちゃうよ、って話なんです。
そして、「なんでそれがダメなのか」を、大人になってからでは教えられないんです。

ま、これは言葉を解さない人だけじゃなくて、誰しもそうだと思うんだけど、特に言葉のコミュニケーションが難しい場合、余計にそうなっちゃう。
そこから更正させようとして、とうとうと何かを説明しても当然、言葉を解さなければ入っていかない。

だって、テレビ壊したって、怒られなかったし。
翌日にはお父さんが次のテレビ買ってくれたし。
…みたいな経験が重なってると、もう破滅的なんですよ。
そういう「クセ」がついていると、それが修正できないんです。
だって、自分が落ち着くために壊したんだから、何が悪いの?ってことになってしまう。

そうなったらもう、どうしようもできないんだよ。
大人になって、どっかに預けられたとして、どうしようもないから、恐らくどっかで捕まって施設に放り込まれて薬でボオ~っとさせられて一生を終わる、ということになるしかない。
ま、それで家族も「やっと解放された」となるのかもしれないが、いや、それ、小さい頃にしっかりと「怒って」いれば、彼はもっとシャバで生きられたかもしれないのに、と思うと、ちょっとやるせない。

このことはわかっておいて欲しいんですよね。
そうなりますよ、というのはわかっておいて欲しいんです。
特に言葉をしっかりと解していない人の場合、ですけど。
そうなりますよ、っていうか、そうなる可能性は高いです、という。
小さいときに怒られてなかった、というのは、後からでは取り返せないということを。

確かに、子育ては怒って成り立たない、というのは冒頭に書いたようにわかります。
わかりますが、「その行為」を「否定しなければならない場面」というのはあります。
それは、その子を否定する、のではなくって、その「行為について否定する」というね。

たぶん、それは「そんなことしちゃダメだ!」って思い切って怒った顔するのが一番わかりやすいと思います。
「怒っちゃダメなんてきれい事!」って割り切って、しっかりとやっぱ反社会的行為については否定してやってほしい。

じゃないと、その子の人生がとにかくクソになる。

いや、もっと言うと、褒めるも大事、怒るも大事、なんです。
怒るをネガティブに捉えてしまうのもわからなくはないですが、ポジティブだけで人生は回らない。
大事なことは、ポジティブとネガティブが交錯するグレーの部分を許容して、「その行為」を「しっかりと」否定すること。

じゃないと、その子の人生がとにかくクソになる。←二度目。









(BGM:ナト☆キャン「スペクトル」from「スペクトル」)
→なんでしょうかね。
女の子の集団アイドル案件みたいですけど、一人称は「ボク」なんですね。
この辺、浜崎あゆみさんからの流れというか。
なんか、うん、違和感。

怒られるかもしれない


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彼ら、井上達を見ていると、けっこう言葉に詰まってしまうこととかってのがある。
「何を答えたらいいかわからない」とか、「質問の意味がわかってない」とかじゃなくて、「怒られないようにしよう」と考えているフシがある。

特にまあ、コバなんかはずいぶん家でお父さんに怒られたりしてたらしく、「何を答えたら正解か?」というか、「何を答えたら怒られないか」を考えてる感じがする。

まあ、小学生くらいだとこういうのがありますね。

例えば、「なんでこれをここに置いたの?」みたいなことだとしましょうか。
単純に「ここに置いた理由」を聞いているんだけど、それがいつまでも明らかにならないという。

怒ったところで、「怒られないように、次は○○しよう」とはならなくて、「怒られないように黙っていよう」「怒られないように○○と言おう」という感じ。

だから、怒ることにあまり意味は見いだせないってことなんだけど。
これはまあ、俺らでも同じだけど。
上司にずっと怒られてたら、やっぱ黙るようになるでしょ?

つまりはまあ、怒ったところでなにもならない、という。
悪循環にもなる。
だって、やっぱり「怒られないように」が強化されるだけで、何の解決にもならない。
どんどん悪くなる一方である。

なので、まあ何があっても怒らない方が正解なんだろうと思う。


で、一方で「褒める子育て」とか言いますね。
子育てだけじゃなくて、まあ教育の世界でもよく言ったりしますけど。

褒めて伸ばそう、みたいな。
それが「いい子育て」みたいなことになってます。

けどなあ…。
思うんだけど、これはこれで「褒められなかったとき=怒られてるとき」でもあって、あまりいいとも思えないんだよな。
それに、「褒められたい」、ってのは、「怒られないように」より、むしろなんかすげえ手強い気もする←予感。

まあ「怒る」の対極の「褒める」ということなんでしょう、褒めるかどうかはともかく、「怒るのは逆効果」というのは、よくわかる気がする、ということであります。


結局、一番大切なのは「できなかったこと」「(彼らにとって)怒られると思うこと」を、どうやって出させるか?と言うことでありまして。
それがスッと出てくれば、いいわけですよ。

それを考えると、「別にそれは怒るために聞いてるんじゃない」とかいうことが伝わればいいわけなんだよな。
とはいえ、まあ、長い人生、これまで家で怒られ続けてきたりしてたのに、今になって「それは言ってもいいんだよ」といったところで、そううまくいくわけじゃない。

これまでの20年とかをひっくり返すのはそんなに簡単なことではありません。


で、まあいろいろ考えていかなきゃいけないな、と思うわけですが。
少なくとも、「怒られるのではないか」とビクビク生きているのはいいとは思えない。
まあ、彼らの人生がこれまでどうだったかは別として、それでは人生全く面白くない。
…ような気がする。

で、まあまずコバをどうこうしようは諦めて、というか、後回しにして、俺たちがまず変わらなきゃいけないんだろうな、と。
つまり、こっちサイド、外口さんとか、専従とかのね。

つまりはまあ、まず俺たちが、「できなかったこと」を言い合えて、できなかったことを他の人が「こうやったら?」とかアドバイスとか説明してやったりとかをできる関係性を作っていかなきゃいけないんだろうなあ、と。
その中で、先輩とか後輩とかあるけれど、そういうことと中身は関係ないから、互いに指摘しても「全然平気」「むしろ健全」な関係が必要なんだろうなあ。

そういう関係性を「見せなきゃいけない」、というか。
彼らは単純に俺たちを見習っている?、まねしてる?ところがあるし。


結局、井上たちをどうこうしたいとか、こうなってほしいとか、そういうのって、彼らに直接何かできるわけじゃないというか。
まあ、できないわけじゃないかもしれないけど、どんなにうまくいった作業所のレポートとか、いわゆる「実践報告」とか読んでも、どっかまあ、ちょっと引っかかるんですよね。

彼らを対象にしちゃって、ああだこうだ、学校の先生のようにいろいろ教育方針を決めるのは「考え得る」手段だとは思う。
そして、それが本当に何かを成せるのなら、それでいいんだけど。
でも、まあ俺たちが変わらなかったら、なんか彼らだけが変わるとはちょっと思えないんだよな。
というか、そういう「付き合い」を俺たちは普段からしてないし。

なんで、うまくいくとは思えないというか。
いや、そういう実践報告とか、参考にはしますけど。


なんか、やっぱこっちが変わることが、一見回り道のように思えるけど、なんか一番近道のような気がしております。









(BGM:ネーネーズ「待ちくたびれて」from「贈りもの」)
→ネーネーズらしからぬ、泣きの歌謡ロック風ギターイントロから始まりますが、歌が始まったらネーネーズワールド。
サウンドはまったくもって、歌謡ロックなんだけど、歌がもう全部沖縄に持って行っちゃう。
すげえな、唯一無二とはこういうことなんだな。

結局は俺も「推理」をしているだけなんだよな


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例えばなんですが、親御さんから「うちの子はこういう問題がありまして…」という話をされることがあるんだけど。
問題といっても「食べない」とか、「寝ない」とか、「着替えない」とか、「もらす」みたいなことで。

こういう場合、まあ、「じゃあちょっと遮光カーテンにしてみたらどうでしょうか」とか言うわけだけど、困ってしまうのは、「こっちではその兆候が見られない」という時ですね。
こっちでは、本人ものすごく食うし(なんなら家で食ってないからかとも思われる)、漏らすとか、洋服を汚すようなことも年に一回あるかどうか、くらいのことで、まあ「ない」というカテゴリーだし、汗をかいたから着替えよう、といえば着替えるし。

こうなると、その様子が想像できないんですよねそもそも。
想像できない、というか、まあ「こんな感じなんだろうな」というのはわかるけれど、どうしても本人のこっちでの日常からは考えつかない。
つながらない、というか。

まあ整理しますと、その問題が起きるときは必ず「親が見ている」という状況であって(だから問題として認識するわけで)、例えば路上で何かをやらかして「通報された」というようなことがあると、これは客観的な「証拠」になるんだけど、そういうことでもない。
「路上でこうだった」というのも、まあ親御さんはそれを見ているわけです。

もちろん、親御さんが見ていたのだから、それは起きている。
問題としては存在してるんだけど、う~む、どうですかね。
つまり、客観的にこれらのことを総合すると、「親が見ているとそれらの問題を起こす」ということも逆に言えるような気がするわけです。

ただ、これはかなり親御さんにとっては理解するのは難しいようでね。
だって、その子のために必死に生きてきたわけだからさ。
それを否定されるようなことじゃないですか、これって。
「私がこの子のことを一番知っている」「私がこの子を守らなきゃ行けない」って思い込んでるわけだから、たいがいの場合。

ま、これも社会がそう親に「要請」してるんであって、例えばコンビニで問題を起こせば、それが40歳だったとしても、知的に障害があるとわかれば(たいがい話すとわかったりする)、すぐに「親はどこにいるの?」となりますね。
いろいろふらふらして路上で変なことを言っていたとして、「親御さんはどうしてほっておくんだろう」とか思っちゃうでしょ、たいがい。
その感じが、まあ親御さんを追い詰めているわけで、親御さんだけの問題じゃないですよ、この辺は。
そこはしっかり確認しておきたいわけですが。

で、ですね。
その上で、この「親御さんが見てるときに問題がある」という事実が飲み込めない親御さんは、その事実を認めずに、これらのことが「こっちに問題があるのではないか」と言って来ることが多いんですね。

まあ、「この子を守る」という感じなんでしょうか。

ま、にしても、例えば「着替えない」という事実が起きなければ、こっちも対処のしようがないわけです。
「着替えるように」例えば「指導する」ということがまず成り立たない。
成り立たない、というか、もう着替えちゃってるから。

だから、手の出しようがない。

少なくとも、ここは「家庭」とは違う、その周りにある社会集団、の一つなワケだから、いわゆる端的に言えば「職場」ということになるけど、そういうことだから、ここには親御さんは噛んでない。
というか、いない。
いないから問題が起きない、ということなんだろうと推測すると、まあどうにもできないんですよね。

結局、冒頭の答えは「親子関係の問題じゃないですか?」というのが客観的な答えになるんだけど、これで「そうか」と納得して変えようとしてくれる親御さんの場合は、そもそもあまりこういう問題は起きない。

でもまあ、本人が喋らない場合、言葉を獲得していない場合、自分の感情が整理できない場合、「親子関係の問題じゃないか」というのも、ある意味「推理」でしかないんです。
推理でしかないんだけど、状況を見て事実を重ねていくと、まずそこを改善してみることが一歩進めることになるのではないか、という結論にはなるわけです。
それでダメだったら、他の要因を探せばいい、というか。
そういうことですね。

客観的に見る、というのは簡単なようでやっぱり難しくて、どうしても俺たちだって、俺たちの見方、というバイアスがかかる。
親御さんとそれは一緒です。
かかるから、それをなるべく排して行く努力をして、客観的に見た場合、何が問題なのか、を複数で討議する。

カイはそこそこできる男で、わかっている男だと思うけれど、それは俺らの見方であって、やっぱり一歩外に出たら、喋らないしわけのわからないことをする男、という認識になるだろう、みたいな。
俺らは付き合いが長いから、「わけのわからないこと」がわかるだけで、喋らないけどパターンで読み取ってるだけで、というような。

複数で討議ができるというのは、まあいろいろな見方ができますから、いいですよね。
客観に近づける可能性があるというか。

だって、俺とカイの関係はそのまま誰かとカイの関係には置き換わらなくて、いろいろな「レベル」というか、そういうのもカイの中にはあるはずで。
好きな人、嫌いな人、そういうのもあると思いますよ。
いる時間が少ない人、多い人、みたいなのもあるし。
だから、いろいろな見方ができるし、「嫌われちゃいけない」というのはちょっと違って、その関係の中から何を読み解くか?が重要というか。
新人がきたら、そもそもカイは「こいつはどこまで俺を見ているか」を試したりするんだけど(というのも推理だけど、たいがいそういうことをする)、そういうのもとても大事なことだったりするわけで。

ま、何が言いたいかというと、やっぱり彼らを主観でどうこう判断しちゃダメなんじゃないかな、という話で。
親、だとか、俺らもそうだけど、いろいろな立場はあろうけど、それぞれに「彼は誰だろうか」「彼はナニ者だろうか」「何をしたいのだろうか」みたいなことを、起こる事柄から客観的に見ていくことが必要だよな、というごく当たり前の話でした。






(BGM:岡本真夜「置き去りの約束」from「Sun & Moon」)
→とにかくきれいなポップである。。
好きなのが繰り返しで転調するところ。
テーマは転調、といったところだろうか。

合理的な配慮


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ま、JR駅の無人化の話ですが。
我々が具体的に「総決起集会」と称した会を開いて動き始めたのが今年の2月アタマ。
実際は、昨年から市内各駅の状況マップとか作ったり、関係者に話を聞いたりはしていたけれど、ま、そんな感じで。

簡単に言えば、我々にとって「無人化は困る」という一点。

ま、ウチのそもそも論として車椅子の人の問題として押し出して始めたわけだけれど、これは車椅子の人だけの問題じゃなくて、目が不自由だったりとか、高齢であったりとか、知的に障害がある、という場合とかも含まれるかもしれないし、痴漢とかを考えると、無人化はダメだろ、というようなことも含んでくるわけですけど。

方々で新聞記事になったり、取材も多くなっていて、先ほども加納のところに何たら新聞の人が来てた。
どっかでは裁判に発展もしているらしい。

「オオゴトになって欲しい」と始めたことなので、この流れは望んだ形ではあります。
だって、取り組み始めた当初は、無人化はあまり注目されてなかったんですもの。


ま、これJRの経営的な側面としての合理化と正面からぶつかる話で、なかなか「ラチがあかない」という部分はあります。
難しい言葉で、資本主義に親和性を持った言葉で言えば、「障害への合理的な配慮と経営資源配分のバランスの問題」ということになるんでしょう。
ま、そしてこの言葉の方がおそらくニュースでは語られるんだと思います。

ま、この「合理的な配慮」という言葉ですね。
あらゆる場面で使われます。
国語的に捉えれば、合理的とは「目的に合っていて無駄のないさま。 道理や論理にかなっているさま。 むだなく能率的であるさま」ということになります。
道理にかなった配慮、と言われればいい言葉のように思えます。

つまりは、「配慮をしなさい」ってことではあって、悪いことではないはずなんですよ。
配慮するんだから、とにかく。
ところが問題は、「合理的な配慮」という言葉が、時に「障害者を排除する言葉」として使われることがある、ということなんですね。

ま、「合理的な配慮」という言葉は、障害者云々界隈の言葉ということではなく、労働の現場とかいろいろで使われる言葉で、つまりは例えば労使間の様々についても「合理的に配慮しなさい」という言葉でまとめられる。
雇用側は労働者に対して、例えば解雇だったりを「合理的な配慮の元」行う、みたいなことですね。

つまり、合理的な配慮、といった場合の「配慮」は、する側とされる側があるということになります。
それは、そもそも不都合を背負う側、例えば車椅子を使ってない人に対する車椅子の人、雇用者に対しての労働者、といったところで配慮を求めている。

簡単にぶっちゃけて言えば、上の人は下の人に「合理的な配慮をしなさい」ということです。
そしてこれは先に書いたように、配慮しなさい、と言っている以上、何ら問題がないようにも思えます。

が、これが逆に上の人にとっての「盾」になってしまう場合がある、というのが問題で。

それが恐らくですが、合理的、という言葉の意味の「目的に合っていて無駄のないさま」という部分なのかな、と思うんですね。
「無駄がない」というとこ。

そもそも、合理化、なんて言葉は、それによって人員削減、といった場合に使われる言葉で、下の人にとっては「いい印象を持った言葉ではない」というところがあるかと思います。
上が運営を合理化しようという場合、下が「無駄がないように」整理されてしまう、という図式ですね。

つまり、JRが「無駄のないように障害者に配慮する」といった場合、その無駄は「どこに対してかかっている言葉か」というのがポイントになってきます。
「JRにとって無駄のないように」ということになれば、それは「人員削減しますがインターホンで対応します」「車椅子の人が乗る場合は前日までに連絡して下さい」というようなことになりかねない。
でもそれは「配慮になってない」、むしろそれは「車椅子の人だけ取り出して他の人と対応を差別している」ということになってしまう。
というか、インターホンがあったところで、耳の聞こえない人が来たらどうすんの?という問題については全くのゼロ回答と同じである。


でですね、俯瞰して考えると、こっちサイドとしては、「公共交通機関としての責任」というのを「果たさせよう」という目論見が大前提にあったりするんですよね。
つまり、「無駄がない」という「経営的な視点」とのぶつかり合いの問題をすっ飛ばしているんですよ、これ。
「合理的な配慮」という言葉によって生じる様々なぶつかり合いを調整していくのではなく、「俺も同じ人間だ」「だから普通にのせろ」という、もうそれを調整するために生まれた「合理的配慮」という言葉を無視しているとも言える。

ここがまあ、話がかみ合わない点ではあります。
JRは「合理的な配慮」の点について協議したい。
しかし、乱暴に言えば、こっちは「んなこと知ったことか」ということになります。


ま、我々が直面する様々な問題というのは、たいがいこの図式なんですね。
介助料が少ない、介助者の給料が安い、とか、そういうことも、政府にとってみれば「合理的に様々な予算を勘案して云々」という回答になるわけです。
もうこれは決まってる。
けど、実際はそれじゃ困るわけだよね。
介助者が来なかったらトイレに行けない、という問題だから。

恐らくは、こうした「行きたいときにトイレに行ける」とか、「行きたい場所で生きる」とか、「乗りたいときに普通に乗れる」という「状況になったら」、合理的配慮という言葉がやっと「普通に論議の俎上に上がる」ことになるんだろう、と思うんです。

基本的な移動、基本的な生き方が全うに障害者にとって保障されて「いない」状況下において、それが保障されている体の上であるべき「合理的な配慮」という言葉が使われている、という感じか。

つまりは、まったくそこまでいってないんですよ。
そのことはまず理解してもらわないと話が始まらない。






chugei.jpg

(BGM:Diana Ross「All Of My Life」from「All The Great Love Songs」)
→きれいな曲ですね。
そしてまあ歌がうまいよな、とにかく。
英語わかんないけど、なんか表現力があるような感じがする。

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