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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
ちんどん太鼓担当

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カギはどこに?


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専従募集




にじ屋「十連休をぶっ飛ばせ」にはいろいろな人が来てくれて、ありがたかったです。
まあ、どうなんですかね。
こういう連続イベントは、自らを追い込む企画でもあって、そこにちょいちょい来てくれるというのは、とてもありがたく、うれしいことなんです。


ツノちゃんは、時々ブツブツ言い出します。
「絶対許さないんだからな!」みたいな。
時に大声。
まわりが驚く、みたいなこともあります。

ま、聞いてみると、昔のことを思いだしている、いじめられた時のこととか、という話に決着したりするんだけど、ただ、なんとなく「なんで言っちゃったのかわからない」というコトの方が彼の中では大きいのではないか?という思いがずっとありました。
「いじめられた時のことを思い出して」というのは、確かに「説明が付きやすい」けれども、それが本当に彼の内面を表しているかどうかはちょっとわからないな、とは思っていました。

確かに、知的障害者の集まりとかがあると、ブツブツ言ってる人はいます。
でも、繰り言とかじゃなく、ツノちゃんのブツブツは、どっか攻撃的。
口調もそうなる。
顔も険しくなる。
普段はとても優しく、気も小さい彼が、攻撃的にしゃべるから、余計に気になる。

今回のイベントでTokinさんとのトークがあって、しゃべってて思ったんだけど、Tokinさんは解離性障害、つまり多重人格、みたいなことですけど、もしかしたらツノとかもそうじゃないか?

そう考えると合点がいくこともある。
けれども、まあその内面をウマく彼は表現してくれないので、果たしてそうなのかどうかはわからない。
表現してくれない、というか、おそらく彼の語彙が足らないのだと思う。
Tokinさんのように、「自分の内面はこういう感じだ」ということを医者に話せればわかるのかもしれないけど、ツノにしたら「得体の知れないモノが自分の中にある」ということなのかもしれない。

そして、それが小さい頃からのことだとすれば、彼にとってはそれは普通のことで、それをあえて「他の人と自分は違うのではないか」というところまで発想が到達しない可能性もある。
物事や感情を観念的にとらえるのが難しいところもあるので、それは余計に説明が付かずに彼の中に沈み込んでいるのかもしれない。


Tokinさんのトークの時、ツノがなんかブツブツまた言ってるのかな、と思ったら、知らん人だった。
どうも、まあだからツノの仲間じゃん、と思ったんだけど。

来た時はほぼ死んだような感じだったけど、彼は飲み会の間、スズやツノに囲まれていろいろ話をしていて、なんか面白かったらしく、違う人のような顔になって「楽しかった!」といって帰って行った。

こういうのはなんか面白い。
というか、そういう人は多いんだけど。


一定数、解離性障害という人がいるとしたら、知的障害者の中にもそういう人はいるんだろう。
けれども、それってやっぱりなかなか露見しない可能性が高いのではないか。
だって、それを「表現する手立て」つまり、語彙だったりが少なければ、外にそのことが伝わらないから。

それをどうやって引き出すか?
いや、引き出さないでいいのか?
つまり、社会生活能力が上がればいいんじゃないか、そのままでも、という意見にもうなずける。

生活能力というのは重要で、おそらく字とか数字とか、そういう意味ではウチではコウヘイは高い能力を持っているけど、ほぼ字が読めない市丸の方が生活能力が高い。
そうなると、遊びに行くとしても、市丸には「一人で行ってこいよ」となっても、コウヘイにはそう言えなくなる場合もないわけじゃない。

それは生活圏を狭めることになってしまう。
でもまあ、それを広げるためにチャレンジはどんどんさせるわけだけれど、その中でしか生活能力は上がらないから。
机上の勉強で生活能力は上がらない。


まあ、原因を究明することより、我々の仕事はどっちかというと「原因なんかもうわからなくていいから、生活能力を上げる」ってことにチカラを裂く仕事ですから、原因はまあいいっちゃあいいんだけど。
でも、もし、それでなにか生活能力を上げるカギが見つかるんだとしたら、原因だって大事なわけで。

まあ、うん。

それでも毎日は進んでいくので、なかなかその辺は深まっていかないんでもどかしい毎日であります、という話で今日は終わり。











bakagann.jpg

(BGM:Bayaka「Rare Crazy」from「groove tracks volume 3」)」
→どうしても俺なんかは「どうライブで演奏するか?」ってのを考えちゃうので、こういうのってのは、演奏を考えると、すごいよな。
ちょっと調べてみたらDJの人とプログラミングの人二人、ってことですけど、まあそうか、プログラミングってことか。
ラストのなんかリズム変わるところとかすげえかっこいいけど、そういうのもプログラミングなのか、なるほど…。
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同じ糸


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コウヘイは、大日の橋本和樹選手がとても好きなわけです。
それはまあ、橋本選手がよくしてくれる、というのもあります。
聞けば弟さんと同い年で、同じような境遇にあったのだとか。
リング上のファイトからは想像もできないほど、とても優しい方なワケですが。

で、時折、橋本選手が帰りとかにコウヘイを抱きしめてくれる、みたいなコトがあったりします。
もちろん、ふざけている、という体でやってくれるわけで、とてもコウヘイは嬉しい。
帰り道にも、それを何度も言ってきたりして。
「見てたがな」と言うんだけど、コウヘイは黙っておれずにいっちゃう。


けども、どうもその瞬間はコウヘイは笑えないのね。
照れちゃうっていうか、なんでしょう、あまりのことに固まっちゃうというか。

なんかなあ、ここでもっと笑ってくれればいいのに…、って思うんだけど、なかなかこれが難しい。


イチマルは、話しているときに、外を見たり、目線が外れることが多い。
話を聞く、いい話をしている、のにもかかわらず、どうしても外れてしまう。

だから、話す方は「もうやめるわ」って気になってしまう。


先日お花見があって、佐藤先生が井上に頼んで、井上が呼びかける、みたいな流れで。
「行く人はここに名前を書いて」という紙が貼ってあったんだけど、オグラはそれに書いていなかった。
昨年のこととか考えると、オグラも行きたいに決まってるわけです。
だけど、「行かないの?名前書いてないけど」というと、固まる。
「あ、まだ書いてなかった」で済むのに、固まる。
で、「別に、強制じゃないからね。来なくてイイよ」と言われてしまう。


まあ、カイは言葉が出ないから、言いたいことがこっちに伝わらない、ってのはわかります。
でも、オグラやイチマルやコウヘイはそうではない。
だから、それがストレートに出てこないのがとても見てて辛いし、そしてなにより「めんどくさい」。


まあ、この状態ってのは、環境が作ってきたモノなのかもしれないし、彼らの障害の「特性」なのかもしれないし、その辺はよくわかりません。
人によっても違うと思うし。
ま、わからないんだけど、一般的には、この辺の「固まる」みたいなことを見て、「同じ人間だけど、特性が違う」みたいに思われたりもします。

「障害者も同じ人間だ」というのは、まあ大前提で語られる「真実」としてもう認定してもイイかと言うくらい浸透はしてると思うんですが(一方で相模原の事件みたいなのも出てきてるので揺り戻しもありますが)、そこの点で、どうしても「一歩引いてしまう」という現象がよく見られます。
はじめてイチマルとかに触れた人は、まあそういう感じを抱くんじゃなかろうか。


知的障害というと、どうしても「幼稚」という感じで思うかもしれないが、どっちかというと、成長が凸凹で、浮かんでるところと沈んでるところの差異が激しい感じ、という風に思うことの方が多い。
同時に、その人が生きてきた環境、親との関係だったり、学校だったり、地域だったり、という、複雑な状況がからんでくる。
特に、家庭が複雑だった場合は、かなりこっちに引っ張られてる感じがする。


でも、まあ改めてそう考えてみると、別に知的障害ということじゃなくても、生きてきた環境、例えば親子関係が機能してなかった人なんかは、やっぱ「固まる」ことはないかもしれないが、なにか「違う態度」をしたりすることもある。
なんかしらのカタチでの拒否とか。
学校でいじめられてきた、という人は、やっぱそういう「傷」みたいなものがあったりして、人間関係がうまく築けない、みたいな話もよく聞く。

で、つまりなにが言いたいかというと、そこは一緒なのよ。


いろいろみんなと付き合ってみて、お父さんに会う機会があると、たいがいの場合に思うのは、彼らは「お父さんに似てるな」ということです。

例えばあまり使いたい言葉ではないが、自閉症だとしても、その父親の方に似てるよな、というか。
つまり、自閉症という特性より、お父さんの「雰囲気」「性格」が強いんじゃないか?みたいなことですね。

もちろん、だからといって、障害の特性が、彼らの中で小さい位置を占めているのだ、とは思わないんだけど、でも、お父さんの影響ってすごいな、と。


よく、障害があるとかじゃなくても、なかなか踏み出せないでいる人とかってのはいます。
聞けば、家庭に問題があった、みたいなことが多いと経験上思います。
それが近しい人だったりすると、彼らの心の糸をほぐすにはどうしたらいいんだろうか?と考えたりもします。
いや、もちろん、人を変えることはできないから、俺はどう変わればいいんだろうか?みたいなことですけど。


だからなにが言いたいかというと、イチマルたちにも、その絡まった糸があるんですよ。
知的障害、というだけじゃなくて、生きてきた環境の中で絡まってきた糸。
もちろん、知的障害者として生きてきた、ということだから、絡まる糸も数段に多い。
そして、なかなかその糸は、彼らのチカラではほどけないことが多い。


知的障害者である彼らを同じ人間として認める、というのは、どこかその「糸」を無視した論議になりがちで、彼らを「聖人」扱いしてしまう場合が多い。
でも、そうじゃなくて、その上に彼らは絡まる糸に締められている、ということを理解し、そこをどうするか?をまず考えないといけないな、と思うんです。

知的障害であることを認める、というのは、その糸を認めることであって、その糸は多かれ少なかれ、俺にも巻かれていて、みなさんにも巻かれているのと同じ糸なんです、というか。


ちょっとまとまりませんが、そんなことを思ったりする今日この頃。





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(BGM:イマダケンイチ「シトロンガール 日本の幸福 II」from「Catch 35 DISC01」)
→このコンピは、全てのロックファンに聞いて欲しいのだが、このトラックもその中で気に入ってる一つである。
元はサディスティックミカバンドですね。
それをまあ、基本ギター一本でやっていきますが、途中、テープの逆回転的なビートルズ手法も取り入れつつ、なんだろう、曲のカバーというだけでなく、質感をカバーしてるんだよね。
こういうの、好きだなあ。

「不安」


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先日の写真展は高円寺でやったわけですが、どうですか、何度も書いているとおり、高円寺の街は何を食べてもおいしかった。
こういう時、まあ、せっかくなので、浦和にはないような店に入りたい、と思いますね。
せっかくの高円寺、浦和にもあるマックに入ったのでは行った意味も薄れてしまう。
つまりまあ、浦和にはない、高円寺のモノを堪能しよう、と。


写真展では、「店番」と称して、ウチの連中が交代で在廊しました。
基本3人にしたんです。
一人だとまあ、たどり着けるかわからない、というのもあります。
が、2人だとなんかが決裂した場合にどうにもならない。
けど、3人いたら社会ができる。

…という、加納さんのお母さんの教えに従ったというか。
加納さんは長女なんだけど、二人の妹がいて、三人の子どもを作った理由を「三人いれば社会ができる」と言ったとかなんとかいう話を聞きまして。
イイ言葉だな、と思ったんですが。
で、まあ、三人にしよう、と。

でもそれは最低ライン。
休みとかで来るヤツもいたりして、けっこう人数はそれ以上いたりして。
ワイワイやってたわけですが。

で、昼飯や夕飯を食おう、となりますね。
21時までやってたし。
その時に、交代交代行くわけですね。

「何食べた?」なんて言って、「あそこのうどんを」とか、「あそこの中華屋で…」とか。
おいしかった?どう?なにがうまかったわけ?とかなんとか、みんなで開拓してる感じもあったりして楽しかったんですが。
けっこうまあ、みんないろいろ行くよな、とか思って、頼もしくも思ったり。
これもまあ、複数人で行くからかなあ、とか思ったりもします。


しかし、ある日、ヨウコとツノで昼を食べに行く、という段取りになった日がありまして。
どこに行ったの?と聞いたら、「サイゼリア」と。
ツノが先導していったらしい。
駅から会場までの間に、確かにサイゼリアはあった。

けど、まあ、基本的にコンビニも一軒しかないし、逆にサイゼリアとかの巨大資本を探すのが難しい感じの商店街で、それはとても俺としては居心地がいい、ステキな商店街だと思うんですが。

しかしまあ、サイゼリアといえば事務所の前にもあるし、なんならヨウコの家の前じゃん、みたいな感じなんですが、でも、それが安心するんだよね、彼らは。
どっか東京の街、例えばなんかの理由で下北沢に行ったとしても、彼らはけっこうすき家とかに行くんだよね。

まあ、つまり、「わかるから」なんですね。

俺らは「高円寺らしいところに行きたい」と思うけど、彼らは不安なんだよね。
知らない店、高円寺にしかない店、というのは、そもそも行ったことがない。

なにがあるかわからない。
そもそもメニューが読めない。
店員さんは優しいだろうか?
お金は持ってる分で足りるだろうか?

だから、勝手知ったるすき家に入る。
サイゼリアに入る。
そうすれば、いつもと同じメニューを頼めば、ちゃんとご飯にありつける。

ああ、貧しいなあ、と思うんです。
社会が広がらない。
でもまあ、克服しろ、と簡単に言っちゃえるほど彼らの不安は浅くない。
少し少し、一緒に行けるときにいろいろな店に連れて行くしかないよな、と思うワケなんですけど。


あとよくあるのが、とにかく財布が小銭でパンパンになるんですね。
つまり、「◯◯円です」といわれたら、とにかく千円札を出す。
そうすれば大体は事足りるからですね。
「千◯◯円」と言われれば千円札を二枚出せばいい。
ま、それでいいんです。
なにも問題はない。
けど、まあ小銭がどんどん貯まっていく。
1380円が、千円札と百円玉4枚でおさまる、というのを瞬時に理解するのはなかなか難しいことだから、百円玉4枚があったとしても、その4枚とお釣りの620円が財布に貯まる。
まあ、しょうがない。

でも、それで事足りるし、問題はない。
けどまあ、時に見てやらないと財布の方がたいへんなことになる。


わかる範囲でなんとかする。
すき家で腹を満たす。
小銭を結果貯め込んでしまう。
それは処世術としては正しいが、なかなかこう、なんていうか、そういう彼らを見ていると、なんかかわいそうというか、不憫というか、けなげというか、そんな気持ちになってくる。


で、先日タイに行って、その彼らの気持ちになった、というか。
海外に行くたびに思うんだけど。

これまで、タイに行く度に、大体の時間、向こうで暮らしている息子と一緒に行動してました。
だから、「あの店に行きたい」と思えば、息子に言えばまあ叶えてくれるんです。
息子はまあまあタイ語がしゃべれますから。
まだ読むのは難しい、とは言ってましたけど。

でも、今回は彼と一緒に行動しない日もありまして。
そうなると、もうどこでご飯を食べていいのかわからないんですね。

そもそも「ココは果たしてご飯を食べさせてくれる店なのだろうか?」ということがよくわからない。
入ったとして、まず勝手に座っていいのかどうかもわからない。
店員さんをどう呼んだらいいかもわからない。
メニューを見ても何が何だかわからない。
どのくらいの大きさの皿で来るのか、このビールは大瓶なのか、ハンディサイズなのか、もわからない。

もちろん、値段もよくわからない。
わかっても、さっとどのコインが10バーツで、どれが5バーツなのかもわからない。
だから、どうしても大きな札で払う。
小銭が貯まる。

不安である。
不安だが、まあ複数人いるから、なんとかなるかな、とかとも思う。

となりにセブンイレブンはある。
だから、セブンイレブンなら、中身はちょっと違うけどそこそこシステムがわかる。
必要なモノを持ってレジに行けばいい。

とはいえ、全体的に不安である。


これね、逆に考えたら、彼らは日本で毎日こういう感じなんだな、って。

レジの人に何を言われているかわからない、字が読めない、そんな不安な中で彼らはそれでも自分ができる範囲で必死に闘ってるんだな、って。


実際に海外で自分が心細くなって、そんな彼らの「不安」がちょっとだけわかったような気がしました。








(BGM:Procol Harum「A WHITER SHADE OF PALE」from「BEST SELECTION 20 NUMBERS」)
→まあ、なんでもない、500円くらいで売ってる寄せ集めのCDなんだけど。
この曲はとにかく好きで、これを実際に当時習っていた「ビクトロン」、すなわちエレクトーンのビクター版なんだけれども、それで耳コピして弾いたときの感動ったらなかったね。
元々オルガンの曲ってのもあるけれど、いや、単純で、そして美しい。
いい。

囚われた人


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近所に、いわゆる昔でいう養護学校の高等部だけ、という感じの学校があります。
俺の仲間がこの学校の先生だったりしたので、まあ、いろいろ聞いてましたけど、障害児だとかそういう枠じゃなくて、一般の学校でなかなか学習が進まない子も対象にしている、と。
全ての子に教育の機会を、と言う意味では、まあいいことなのかもしれません。

つまりまあ、障害児、そうじゃない子、というのを縦割りと考えると、横割り、みたいな。
そういう感じの考え方なんだな。
それはまあ、新しい分け方であって、それはそれで分けてるとは言えるんでどうかとは思いますが、現実を考えての一つの社会の試行錯誤ととらえていいのかとは思います。

で、一方、別のルートで、ココに通ってた障害をもった子の関係でいろいろ様子を聞いてみると、いわゆるココの子たちは「障害児のエリート」ということになるらしい。
いわゆる「東大のようなもんだ」と。
先生もそういう感じらしく、「一般就労が普通」という感じで指導が行われている。

つまり、障害児の教育現場においても、「一般就労」というのがエリート、作業所行き、施設行き、というのが「一般人」という「ヒエラルキー」がある、ということです。

その中で、この学校は、エリートを養成する学校である、と。
なんで、まあこの学校に入りたいというか、子を入らせたい、と言う親が引っ越してきたりもしているらしい。

つまりは、この学校が、障害児だけじゃない、みたいに多様化しているようで、内実、ココに通わせたいという親の欲求としては、かなりこの短絡的な「エリート論」に支配されている、と言えます。
そして、その親の短絡化した欲求に答えるべく、おそらく就業のための実習、授業、に重きが置かれているのも事実なようで。

一方で、「社会に即戦力になる」ということで、大学でも文学部の廃止などが叫ばれている昨今、こうした「即戦力になるための授業」は、行政的には歓迎はされるようですね。

つまりは、「誰にも教育の機会を」という崇高な考えとは裏腹に、ここはいわゆる障害児の中にまた新たな「能力主義」を持ち込んでいる結果となってしまっている、とはいえます。

まあ、これも一つの大きな流れの中でとらえれば、五里霧中というか、そういう感じではあるんですが。
教育とは何か、障害児にとって学校教育は何をなすべきか、というのは、まだまだわからないことだらけなワケですから。

とまあ、それはそれで教育の分野の研究者に譲るとして。


俺が気になるのは、ココの子たちの服装なんだわ。

といっても、高校だから、通ってくるのは制服みたいだし、どこかにつれだって遠足?みたいなのかどうかわからないけど、そういう時はいわゆるな体操服だったりします。
まあ、制服自体がどうか、という論議もありますが、それは他の高校と同じで、ここだけどうこう、ではありません。

俺が言ってるのは、課外授業というか、その時の服装なんです。
ココの学校は、近所の施設のゴミを集めたりの活動や、農業活動をやっていまして。
時に、大八車を引いて数人で移動しているところや、近所の畑で作業をやっている生徒を見かけるんです。

おそらく学生時代の井上のような優等生(生徒会長の呪縛リンク)のみなさんが、きちんと整列して、無駄口もなく、粛々と行進、というか、そういう感じで作業をやっています。
確かに、企業だったら、こういう子を採りたいだろうな、という感じ。

高校生なら、もっと無駄口叩いたり、仲間とじゃれたりするもんかと思いますが、そういうのはない。
まあ、いい子たちなんですね、きっと。
先生の言うとおりにきちんと作業をこなす子たちなんだと思います。

そうすることが、ココの学校で「有用な人材」として残る道なんだろうな、と思うと、ウチの市丸たちのバカ騒ぎがホントに子どもに見えますが、でも俺は市丸たちのバカ騒ぎの方がいいなあ、と思いますけど。

それはそうとして、で、その時の服装が、いわゆる作業服で、グレーで、上下そろい、長袖、見るからに、いわゆる「刑務所の作業風景」を思い起こさせるんです。

それでも、高校生ともなれば、中には腕をまくったり、アクセサリーをつけたり、きっと個人個人でその「制服の枠」からはみ出そうと努力するんでしょうが、それは「不良のやること」なんだろうな。
ここの優等生はそういうことはしない。
どこかサイズ感もあってないような、多少大きなグレーの上下を、きちんとボタンも留めて、ズボンをズリ下げることもなく着こなしている。

ま、確かにいい子たちなんだと思うんです。

オグラが高等部で生徒会長までやってできる子だったのが、一般就労してやっぱ三年でおかしくなって辞めて、その後施設に行ったわけですけど。
で、十年。
歩けなくなって、廃人のようになってここに来たわけですが。

単一化した価値観の中では、生き残るのは大変です。
健体者社会に「有用である」とされるために、いい子を続けなければならないとしたら、それはおそらく長い目で見たら不幸なんだと思いますが、この学校では、そこまでのことはまだ考えられていない。

ノブは一般就労して、その会社の業績が傾き、真っ先に首を切られました。
その会社に通っていた間、彼は会社の中で誰とも話さなかったと言います。
あのおしゃべりのノブが。

あの服装は、俺にはその「単一化された価値観」の象徴にしか見えなくて、彼らが哀れになります。

オレたちのレパートリーに、その一般就労した時の話などを歌詞にした「カレー」というのがあります。
そのさびは、「俺は仲間が欲しい ふざけて笑える仲間が」という歌詞です。

一般就労するよりも、一緒に酒飲んでふざけて笑える仲間の方がずっと大事だ、という歌になるわけですけど、まあそんな感じですね。
その真逆をあの制服に感じます。

少なくとも、あの制服姿に「異様さ」を感じなくなったら、俺はやばいと思いますね。
あれはちょっと怖い。





(BGM:The Jacksons「Blame It On The Boogie」from「AUTOBACS 25th Anniversary」)
→ま、オートバックスが出したCDなんだ、これ。
選曲の感じはオレの世代には懐かしい洋楽集。
改めて聞くと、やっぱ名曲は名曲なんだよな、って感じ。
そしてジャクソンズは、やっぱカッコイイ。
無敵。

健体者が出ていかないと「終わらない」感じ


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というわけで、今日は写真展最終日となります。
17時までとなりますので、ご注意下さい。


てなことで。

にじ屋では、例えば井上たち知的障害の連中も健体者の連中も、ある意味フラットに仕事をやっている、という形を取っています。
もちろん、全ての中身においてフラットである、ということではないんだけど、それでも「各々が力を出し合ってにじ屋を運営する」という意味ではフラットです。
その力にはもちろん差はあります。
けど、だからといって、障害者はこれをやる、健体者はコレをやる、と決まってるわけじゃない。
その人その人の力量によっていろいろと、またその場の状況でいろいろ変わってきます。


にじ屋に品物を持ち込んでくれる方がいます。
電話をいただければ取りに行ったりもしていますが、まあ、その回収の時間が合わなかったとか。
まあ、持ち込んでもらえるのはとても助かります。

で、最近は、市丸たちが対応しても、「あ、にじ屋はこういうところなんだな」ということがわかってもらえているようで、特に問題とかもあまりないようです。


昔は、よく「健体者が出てこないと終わらない感じ」というのがありました。
ま、今もゼロというわけではありません。

「終わらない感じ」というのはちょっと難しい表現ですが、障害者に品物を託すのが心配、というわけではないんでしょうが、健体者が出てきて「ありがとうございました」と言わないと終わらない感じ、といったらいいか。

つまり、障害者がいくら「ありがとうございました」といっても、それは「本当のありがとう」にはならないというか、健体者が、つまり「お世話してる人」が出てこなきゃ終わらない、という感じ、という。

これ、まあ「感じ」なので、なんとも言えないのですが、まあ、施設とかを考えてもらえばなんとなく思い浮かぶかな、と。

つまり、障害者がやってることはどっか「おままごと」で、そこをしっかり「しめてる人」ってのがいる、という「前提」ですね。
で、その品物をもってきてくれる人は、その「しめてる人」との対等感があるんだろう、と思われます。
おままごとの人に温かい目線を送る、協力をする、という意味で、おそらくそこに「対等感」を持っているのではないか、と仮定することができます。

もちろん、そうじゃない、という人もたくさんいるでしょうし、こういう「雰囲気」になるのは、「常になる」ワケではありません。
けど、そういう人が「けっこういる」というのは、事実です。


障害者、こと知的障害者に何か伝えたとして、「それがちゃんと伝わるのだろうか」と心配する気持ちはわかります。
我々の日常でもそれはあります。

けど、こと「決まったにじ屋の仕事」、しかも「自分でできると踏んで実行したこと」に関しては、彼らはまあ、やれるんです。
わけがわからないのに品物を取りに台車を持っていったりはしません。
むしろ、できないことは「やらない」。
「できると思ってるからやれる」、というか。

そして、「できると思ってる」というのは、何度も繰り返して、「うまくいってること」なんですね。
テストのように答え合わせがあるわけじゃないですから、そういう「経験」でしかない。
ソレを積み重ねているから、彼らは「できる」と思ってる。


そういう状況の中で、「結果的に健体者が出ていかないと終わらない」というのは、彼らの「俺だってできるのに」というメンツをつぶしてしまうことになります。

なので、こういう場合、「終わらない感じだな」という「度合い」が重たければもちろんこちらも手を入れることはします。
彼らのメンツをつぶすことなので本意ではありませんが。
とはいってもしょうがないので。

けど、できるだけ、そこに手を入れないようにします。
なので、多少の「彼らで大丈夫なのかな?」とか、そういう心配じゃなくても、「対等であるはずの健体者が出てこない」という「終わらない感じ」を、強制的に終了させることが多いかと思います。

彼らができることはそれはやったらいい。
そして、健体者は自分たちにできることをやったらいい。

じゃなかったら、やっぱりおままごとになってしまうんだよね。


でもまあ、そういうことを繰り返していくことで、多くの方にそういった「終わらない感じ」に対する違和感、井上たちのメンツをつぶしてしまうことがだんだん、結果的にわかっていってもらえるかな、という期待も抱いています。




グッズ値段入り

等身大

告知1

(BGM:黛ジュン&ヘンリー・ミッチェル「ラブ・トレイン」from「ディスコ歌謡 抱いて、火をつけて」)
→ま、これをディスコとするかどうかについては意見が分かれると思いますが、名曲であることに間違いはありません。
この土曜21時くらいからの刑事モノのようなイントロといい、なんでしょうね、この早いビートにストリングスが緩やかに乗ってくると、なにか70年代をしっかりと我々に伝えてくれます。
名曲。

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