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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
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反省なき更正・その1

スーパー猛毒ちんどん単独公演殴りあい13
前回公演。なかなかかっこいいです自分でいうのもなんだけど。

お願いやお知らせを、以下にまとめました。みて下さい、お願いします。
お知らせ・募集はココをクリック!




犯罪を犯してしまう人の中に、なかなか反省ができない人がいる、という。
よく広汎性発達障害、アスペルガー症候群などという言葉と結びつけられがちであり、誤解を生むけれど、結局は育てられ方の問題が大きいのではないかと思う。

これは経験の話になってしまうけど、こだわりやフラッシュバックが強く、人の感情に入っていけない、他人の感情が理解できない、という人はいるが、きちんとした家庭の中で、普通に育てられていれば、別になにか困ったことを起こすわけではない。
もちろん、本人は生きにくさを大きく抱えていると思うが、それが社会において問題になることは少ないように思う。
そういう風にこだわりが強いとか、じゃなくても、人の痛みが理解できない人はいる。
つまり、その深度によらず、結局は「育ち」が大いに関係するとオレは思う。


結局、子どもの頃の育てられ方というのは大きい。
虐待されていたりすると、どっかがゆがむ。
愛されるという経験のないままに育ってしまうと、ちょっと考えでも、自分を大切にできないだろうな、と思う。
そうなれば、当然、人も信じられないだろうし。

逆に、何でも買い与えて貰っていたりすれば、世の中は何でも自分の思い通りになると誤解することにもなるだろう。
そんなわけないのに。
個性だ個性だと、なにかそれを「本人の望むとおり」、だと勘違いしている大人が多いという気がします。

本人の自主性に任せる、といえば聞こえは良いけど、実際には「親が言うことを聞かせられない」という事実がそこにあることもよく聞く話である。
こうなってしまうと、子どもの時点で社会の規範、ルールというものを教える人がいないので、その後、社会のルールに適応するのが難しくなったりします。
自主性、ということと社会のルール、というのは論理的に対立するものですから、折り合いが重要だということになるんですが、自主性こそが大切だとする今の風潮は俺はあまり賛成できません。


まあ、そんな前置きで、冒頭に書いた「反省できない」ということを具体的に考えてみます。

例えば、何かの感想を聞いたときに、「良かったと思います」とか、「楽しかった」という風にしか答えられない人は、確かにいます。
このタイプの人達と付き合っていると、経験的にわかるのは、そのこと自体が楽しかったかどうかということではなくて、「こういう場合にどう答えるか」というひな形をしゃべっているのだな、ということなんです。
つまり、何かイベントがあれば「楽しい」と「思うものである」というこの「思うものである」という部分でしゃべっているのだろう、ということなんです。

実際に自分が楽しかったかどうかということはここではあまり関係がなくて、「こういう答え方をするものである」ということがまず大きく彼らの中にあるということなんです。
楽しくなかったら楽しくない、と答えればいいと思いますが、もしかすると、「楽しい」とか、「苦しい」とか、自分の感覚がよくわからないのかもしれない。
というか、「苦しい」というようなマイナスのことはわかっても、「楽しい」「嬉しい」という感情がわかりにくいのかなあ、と経験から思います。
だから、感想を求められたときに「楽しかった」と答える場面であればそう答える、ということなんじゃないかと思うんです。

これは学習ですね。
小学校やいろんな場面で「楽しかった」と答えればそれで周りが喜んだり、済んでしまうことが多かったんだと思います。
「つまらなかった」といえば「どこが?」「なにが?」とまわりは聞きたくなります。
けど、その答えは難しいし、煩わしい。
だから、「楽しかった」と肯定的な答えをしておけばいい、という学習をしてきているのではないかと思うんです。


このタイプの人の場合、確かに「反省」は成り立たないと思います。
「申し訳ないと思います」という言葉はすぐ出てきても、実際になにがどのように申し訳がないのか、それを聞くと詰まってしまったりする。
相手の立場に立って、本当に申し訳ないと思っていると、周りが思うに足りる言葉は出てこないことが多いんです。
それは、感情がないとかそういうこととはまた違って、うまく表現につながっていないというか、心と言葉があわなかったり、そういうこともあるように思います。


こういう場合に、なにか問題を起こして、それを解決しなければならないときに、「まず反省ありき」という日本人的心情というようなものは通用しないのではないか、ということが言えちゃいます。
犯罪者の更生といった場合、社会に復帰するために更生するわけですが、そのスタート地点が「反省」であることは否めません。
「何で殺してしまったのだろう」という反省が先にあって、「もう殺しません」ということにつながると考えられるからですね、これは単純な話です。


けど、前述のような場合、反省が成り立たないとしたらどうでしょうか。
というか、反省が一応は言葉で出るけど、実際が伴っていないとしたら?。

そこで「反省なき更生」という考え方がでてくるわけです。
つまり、反省よりも再犯の防止を主眼に置いた考え方ということであります。

続きます。




(BGM:豊川誕「ぼくの消息」from「寺山修司 作詞+作詩集」)
→まあ、ジャニーズのアイドルが歌う歌詞ではない。
けど、養護施設出身とかを売りにされていた薄幸アイドルと言うことで、まあありえない内容ではないのかな。
その後の彼自身の消息も気になるところですが、やっぱ、なんか怖いよね、芸能界って。

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