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スーパーちんどん・さとう

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言葉って、人に伝えて初めて意味があるんだよな、と思っております。
収容施設から出てここに来たばかりのオグラは、とにかく話も通じなかったのだけれど、そのうち話が通じるようになって、でも声があまりに小さく聞こえない。
なんで、よく言ってたんですよ、歴史好きのオグラ向きに。
「言葉は人に伝わって初めて言葉と成す」みたいな。
成す、て…。
まあ、そんなこともありました。

よくレジやなんかの行列でも、一生懸命何かを言ってるのだが伝わってこない、ということがありまして。
ちょっと意味はわかりませんが、「言霊がこもっていない」というか。
口で言ってるんだけど、それが耳に届かない。
小さい声、というだけじゃない。
なにかこう、「伝えようとする意思がない」という。

ま、「実はそんなに伝えたくない」ってこともあろうし、「自信がない」ってこともあろう。
そう言われてみると、ミズエやスズも新人の時は声が小さかったな、と。
いや、小さいのではなく、伝わってこないのである。
恐らくは自信がなかったんだろうな。
今や昔、って感じだけれど。

ま、普段の井上たちとの会議とかでは、やっぱ声がデカいに越したことはない。
というか、デカいだけでもダメだなあ、うん。
実際に声をデカくする、というのではなく、彼らに伝わるように話す、というか。
科学的かどうかはよくわからないが、「言葉に魂を込める」というか。
そのためにはやっぱ自信が必要である。
彼らに「伝えなければならない」と、自分の言葉に自信を持つ必要。

彼らに意見を求めるときに、きっちりと論点をハッキリスッキリさせてやる必要がある。
いろいろ尾ひれをつけてしまうと彼らは何を聞かれてるのかわからなくなってしまう。
そうなると、彼らは何を言っていいのかわからなくなる。
だから、とにかく「スッキリハッキリ」伝える必要があるのだ。
問1、をしっかり伝える必要がある、というか。

というようなことで。

先日健康診断がありました。
胃カメラというのもやるんだけれど、これがまあ大変ですよね。
ま、皆さんもそうかと思います。
あなたは鼻から?口から?。
まあ、俺はまったくもって鼻ですね。
口はやっぱ苦しい。
しかし鼻は狭い。
胃カメラのコード?は、口でも鼻でも同じだから、まあ鼻の方がうまく入らない、ということは想像に易い。
が、まあ楽なんである。

でもまあ、力が入ったりしたらダメだよね、やっぱ。
胃カメラの時って、背中をさすってくれる役の人がいて、まあそのくらいリラックスが必要なわけだ。
だから、余計なことに気を取られたりしたくない。
できるだけ自然に、力を入れずに胃カメラに臨みたい。

がですね、今回のお医者さん、どうにも「言葉が届いてこない人」で。
一応、言ってはいる。
「ゲップしないでくださいね」とか。
「よだれは口からそのまま出してください」とか。
毎回まあ言われることなんでわかってはいるけれど、どうにも何も伝わってこない。

と思ったら、どうも新人さんだったんですかね。
後ろに一人担当教官みたいな先生がついてるのよ。
で、「う~ん、もうちょっと上からね」とかその先生に指示してる。

ま、そんな感じだったんで、もう鼻からでも痛いわけ。
例年の数倍痛くて。
もうやってられないというか。

健診の胃カメラってのは、確かに絶好の胃カメラの練習にはなると思うんですよ。
本気で悪い人にやるよりもまあ気は楽だよね、きっと。
だからまあしょうがないんだけどね。
今後の医療の発展のためには多少の犠牲はやむを得ない。
というか、健康だから言えるのかもしれないけど、まあ健診ですから。
こういう機会を使わなきゃね、やっぱ。

採血でも痛いときとそうじゃない時がありますよ。
なんかかかり付け医はちょっと近所の人が看護士さんだったりするので、全然痛くなかったときにちょっと聞いてみましたよ。
「採血、痛いときと痛くない時ってありますよね」と。
そしたら、なんか皮膚の痛点もあるんだとか。
痛点にたまたまいっちゃうと痛いし、そこをうまく避けられると痛くない、とか。
へえ~と思ったんですけど。

ま、どっちにしろ、例え胃カメラが下手でもまず患者に届く声を出したらいいのに、とも思うけど、でもそれはきっと自信と比例関係にあるから、きっと上手くなればなるほどその先生の声も患者さんに届くようになっていくんだろうな、という話でした。








(BGM:NUTS!「残酷な天使のテーゼ(Quiqman Mix)」from「HAPPY SPEED The BEST of Dancemania SPEED G」)
→トランスにしてスピード上げました、という。
ま、うん、それだけですね。

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相談する、というソフトな言葉の裏


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「相談」という言葉はとても便利で、どっちかというと「いい方」に捉えられガチだけれど、相談というのは時に明確に人と人を遮断する可能性もある。

よくある話で、例えばヘルパーさんが、当事者が「お腹いっぱいだと言っている」と。
その場合、食べさせないか、食べさせるか、という。
例えばカイが「食べない」と頑なになる時があるのだが、そういう場合ね。
ま、その判断には背景が重要になってくるので、これだけの状況ではなんとも言えないが、基本ラインとして、俺は「食べさせない」「食べるのは終わりにする」ということにするかな、と思う。
その上で、今後どうするかの問題はまた別であるけれど。

まあ、どっちにしろ判断はしなきゃならないんだよね。
その場でどうするか、というのは判断だから。

これ例えば胃ろうとかだったらどうしましょうか。
胃ろうもなんなら食事だから、もういい、となればまあもういいんだろう、と思いますね。
看護師さんなんかはまあそういう判断をするんだと思います。
無理に決まった量を常に身体に入れられるわけではないのは当然で。
だからまあ、そういう日もあるよね、という判断をするのは普通のことかな、と思います。

しかし、この時に、「相談する」って人ってまあ一定いるんです。
それは誰に?となりますが、いわゆる家族に、とか。
ここはつまり、「問題になっては困る」という風にモノを考えるか、その当事者の側にたってモノを考えるかによって変わってくるんだと思います。

問題になった場合には「家族がそう言っていた」ということで話は収まるから。
というか、家族に知らせないというのは、後々家族が騒ぐ可能性があるじゃないか、という。
常に、「本人の責任は全て家族に判断させる」というのがこの考えの底にあります。

ヘルパー講習では、「家族に相談する」というのが決め事のように出てくるという話を聞きました。
そこには「障害者は自分の問題に対して責任が取れない」という考えがベースにあります。
もっと言うと、「障害者が何を言っても世の中は相手にしないだろうが、家族が言ったら問題になる」という社会の差別的なありようすら肯定してしまっているように見えます。

こういう人が身近なヘルパーとして生活に入り込んでくるという状況は果たして幸せなのだろうか?と思うことがあります。

もちろん、最初に書いたように、背景が大事。
だから、全てにおいて本人の言うことを聞いてりゃいい、と言うことでもないと思います。
特にカイとかの場合、彼が何を言おうと、こちらが判断する部分も大きい。
「ここで服を脱ぎたい」と言っても、それは止めますね、そういうことです。

しかし、そのベースには「家族に満足してもらう前に本人にとっていい介助をしなければならない」ということがあると思います。
「家族に相談」というのは、その部分をすっ飛ばしていて、家族に対して満足させることを考えてしまっている。
相談する、というのは悪いことじゃないと思いますが、家族に相談、と言った時点で、カイはきっと「自分の言いたいことより家族の言いたいことを優先させる人」と思ってしまうのではなかろうか、というのが経験則です。

彼らはそもそも何かコトを起こせば「お母さんはどこ?」と聞かれてきたんですよね。
常に「自分では責任が取れない人」として扱われてきた。
こうなるとね、もう彼らは自暴自棄にだってなるんだと思います。
「自分の言ったこと」「自分がやったこと」には責任が伴わないとなれば、そりゃ気に入らなきゃ噛む、なんてことを簡単にしてしまうのではなかろうか。

確かに、今の世の中は親の声の方が大きかったりする。
それ自体がもう「本人には本人のことを訴えるチカラがない」ということを肯定してしまっているからバカバカしいともオレは思っているんだけど。

で、そこに阿って、ヘルパーと言った身近にいる人すら「親に相談する」ということを彼らの前でしてしまったら、そりゃね、彼らのメンツはどうなる?って思う。
堂々と、講習で「相談が基本でしょ」なんていうのは、そもそも彼らのメンツを何も考えてないんだよね。
それでいいのだろうか。
その前に、彼らにどうやって寄り添うか、先に死ぬ親のことじゃなくて、彼自身とどうつきあうのか、ということにもっと時間と経験をつぎ込むべきではなかろうか。
そもそも、親亡き後、なんてことはずっと前から言われているではないか。

ウチではまったく親を運営に入れることはない。
にじ屋に来ることもない。
そのくらいわかりやすく、「俺たちは君と付き合っているわけで、親と付き合ってるわけじゃない」ということを突きつけてやらなければ、やっぱダメだと思っている。
「なんかあったら親に相談なんて当たり前」というのとは真逆である。
というか、相談せねばならなくなったという事態はあってはならない。
前に事件が起きたときには、やっぱりそれは親にまず電話をせねばならない事態になった。
あれはもう最後手段でしかないし、あってはならない。

何を言いたいかというと、「相談する」、一見いい言葉だけれど、それによってツブされるメンツもある。
そのことが重要だと思えなかったら、こういう仕事はしない方がいい。
むいてない。









(BGM:周渝民「媽媽說」from「記得我愛你」)
→ゴキゲンなディスコ調ポップ。
なかなかこういう中国産ポップを聞く機会がないだけに、音源があったら必ず聞きますね。
ベートーベンの第九合唱がちりばめられてたり、なかなかどうして面白い。

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前提を疑え


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今年も相模原の事件の日が巡ってきて。
これを書いているのは事件の日を過ぎた7月の下旬。
毎年気が滅入る。

虐待防止とかいろいろ言われるけど、施設に閉じ込めて外からカギを掛ける、というようなことは身体拘束とかにあたらないのだろうか?って思う。
もちろん、人によってはベットに一度乗せられてしまえば自分で降りられない、ということもあるだろうから、カギなんかどっちでもいいじゃん、という話しもなくはない。
どのみち、傷つけようとして侵入されたら状況は同じで、だとしたらカギを閉めた方がいい、というのはその通りという気がする。

ただ、大量収容型の施設は、基本的には自由な外出はできないコトが多いから、中の人に取ってみればそもそもカギはともかく閉じ込めていることには変わりはない。

悲しいのは人というのは「慣れてしまう」もので、そういう状況下に置かれるとそれが当たり前になって、月に一回家族が外に連れ出してくれるのを待つばかり、特に普段の外出できない、には不満を抱かなくなってしまう。
小さい頃から施設暮らし、となるとそれは余計で、その構造自体になかなか疑問が向かなくなる。
自分がガマンすればいい、という。

どっちにしろ、家族が来てくれなければ施設の外で自由に動くことはできない。
だからその日を待つしかないのだ。
家族にわがままは言えない。
本来は、自分が行きたい野球場に、コンサートに、プロレスに行ければいいのだろうけど、家族も「行けないわ」と、もちろん悪気などあろうはずもない、一生懸命月に一回やってきてくれているのだ。
そこで「行きたい」とは言えない。
でも一生懸命家族も考えるだろうし、一度行けるかもしれない。
恐らくは一生に一度、みたいな特別なことになる。

今はネットとかでも情報があふれているから、いろいろ興味は広がっていく。
何処かに行きたい、誰かに会いたい、そんなことはいくらでもあると思うんだけど、でもそのほとんどは実現できない。
先に書いたように、実現したとして、一生に一度の大イベントになる可能性も高い。

差別がない社会というのは、同年代の非障害者と同じような行動ができるコトである。
だから、そこに行きたい、見たい、会いたい、それが実現できなきゃならない。
もちろん、ライブに行く金がないから行けない、という人もいよう。
でも、それは金の問題で、「現実問題として閉じ込められているから」という理由ではない。
だから、同じ「行けない」にしても同じとは言えない。

先に書いたような「一生に一度の大イベント」が、感動ポルノとして消費されることもあるかと思う。
でも、それってやっぱどっかおかしい。
なぜ、閉じ込められなければならないのか。

いや、「閉じ込めてはいない」という意見があるのも十分わかる。
「誰かが来てさえくれれば外出は自由だ」と。
でも、誰か、が今の時代、家族に限られたり、という話も聞く。
そもそも外に友だちができる、というのは難しい話である。
そこを誰かが保障してくれているのだろうか、というと疑問だ。
というか、されていない。

そもそも、その「隔離された状態」が、全ての元凶となっている。
が、現実に社会の中で介助や応援を得て生活をする、というには社会資源があまりに不足している。
だから、隔離せざるをえない。
それが現実だ、というのもわかる。

だから、施設をなるべく開かれたモノにするのだ、ということが言われたりもする。
地域の人との交流とか、まあそういうことがあれば、地域の人の善意でなんとか外に出られる可能性も生まれるかもしれない。
が、一方で相模原の事件もあったりするから、施設はなかなか管理を緩めたくもないのだと思う。
そりゃそうだ。
あんな事件はまっぴらだ。

いや、だから、スタートラインが、そもそもの部分がおかしいのに、そこに何かを積み上げようとしても、やっぱり全てが歪んでいくのだと思う。
合成の誤謬である。

今の状況が、その前提が、障害者は施設か親元に、であって、施設の多くは大量収容・合理化が前提になっている。
施設の職員がいくらがんばろうと、数十人を二人で介助しなければならない、というような状況は彼らのやる気も萎える。

障害者に生まれたら、あとはガマンするしかない。
同じ年に生まれた非障害者とは違う人生、ガマンする人生を送らざるを得ない。
悲しいかな、それが今のスタンダートだ。

いや、一歩立ち止まって考えたい。
それでいいのだろうか?
根本的になにかが歪んではいないだろうか。
一生に一度の大イベントを感動ポルノにしてしまってはいけない。
いや、ただ出かけるだけのことを一生に一度の大イベントにしてはいけないのだ。






(BGM:主義者「歯ぐきになりたい」from「LET'S GO TOKYO PUNK」)
→もうね、「どういうこと?」なんですよね。
この人たちのことは知らないけど、言葉のチョイスが面白いのはいいと思う。

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俺は会社勤めをしたことがないのでわからないけれど


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ま、会社ってのは、上からの指示は絶対なのかどうなのか。
会社勤めをしたことがないのでわかりません。
偉そうにしている感なんでしょうか。
ちょっと苦み走った顔をしている上司がいたら、部下は忖度して先回りする、みたいなことがあるのかどうなのか。
ってか、いろいろ話を聞くとありそうな。

ま、これを書いているのは4月上旬なんですが、時ロケットの打ち上げなんかに失敗したとかのニュースに関連して、日本の技術はもうかなり世界から後れを取っていると。
というのも、日本人は個々人はとても優秀なのに、会社や社会の仕組みがそれを阻んでいると。
なんか、事実はわからんし、肌感覚でも会社にいたことがないのでわからないが、なんか間接的な感覚としてはわからなくはない。

郷に入っては郷に従う、と言う言葉があって、それはそれでいい言葉だとは思うんだけど。
でも、郷に入りては、郷を作り直せ、という部分もなきゃうまくいかんと思ったりするんだよね。

自分の働く場所なんだから、自分に都合の悪い仕組みは変えた方がいい。
都合が悪いというか、自分の力を発揮できないような仕組みは変えた方がいい。
変えられなきゃいけないと思うんだよね。

そこで働く人が例えば十人いたとして、まあ定年とかいろいろで退社する人がいて、新しく入る人がいて、という場合。
新しいメンバーを加えた十人が、前の十人と同じじゃないワケですから。
集団としては新しくなってるわけですから。
そりゃ新しい仕組みを考えた方がいいじゃないですか。
全員野球なんて言葉がありますが、メンバーが替わればやっぱ戦術だって変わらないと全員野球にならないじゃん。
そして、やっぱ全員が全力を出した方がいいに決まってるじゃないですか。

なんでしょうね、社風とか、そういうのもあるんだと思います。
雰囲気とか。
それにしがみつきたい人もいるんだろうと思うし、その気持ちもわからなくはない。
けれどもまあ、老害って言われますねそれは。
カッコ悪いので、それは避けた方がいいですね。

「譲れないモノがある」ってのもあるかと思うけど、まあ譲っちゃったらいいじゃない。
というか、そんなに譲れないモノだったら、それ以外は譲ろうよ、という気がしなくもない。

今テレビを見ると、とにかくCMは転職転職なんですよね。
「自分の力をもっと発揮できる職場に」みたいな。
いやいや、そもそもそんなに自分のチカラなんかないよ、とオレは思うし、そんな「ハイクラス転職」みたいなことに全く興味が起きないし、むしろイヤな感じしか受けないのだが。
まあなんでしょう、どっか「今の会社でなんとか力を発揮できる方法はないの?」みたいなことも思うのよね。

ま、そもそも、あのリクルートスーツが隷属感あふれるわけで、ま、隷属したいんだろうな、としか思えないのでアレですが、だとしたら、「私の力がもっと発揮できる会社に」とか思わなきゃいいのにね。

先日見た「妖怪の孫」という映画(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-6238.html)には官僚の人が声も顔も隠してインタビューに答えていて。
「専守防衛で敵基地攻撃は許されない、というテストを受けて官僚になったのに、上から真逆のことをいわれて、その法案を作らなきゃいけない」というようなことを言っていました。
文書の改ざんをしろと言われたら、自分を騙して、文字の間違いを訂正するだけだと思い込ませてやるしかない、みたいなことを言ってた。
声を上げたのが故赤木さんだけだったというのにも絶望したと言っていた。

ま、そんな風に「入る前と入った後が変わってしまった」ということは確かにあろうかとは思うが、しかしなあ。
そもそも改ざんなんていう歴史を歪めることをさせられるって、やっぱそりゃもうダメだよな…。
辞めよう、うん。
って、そう簡単にもいかないか…。

というわけでね、でもウチは官僚じゃないし、誰かが儲けるために設立したモンでもない。
そもそも会社ではないしな。
だからってこともあるけれど、やっぱ自分で自分が望む仕組み、自分が全力を出せる仕組みを作れるような感じでいきたいと思っていますね。
「こういわれたから」というのはやめたいのよね。

だから、若手に「こういう場合はどうしたらいいですか?」と聞かれたら、「どうしたらやりやすいですか?」と俺は聞きたいと思っていて。
例えばそれが「休みを取りたい」ということだったりもするでしょう。
「誰に言ったらいいんですか?」みたいな。
ま、ウチは会社じゃないので、専従に関してはその辺は曖昧なところはありますが、井上たちと一緒にやる会議で言ってもらうしかないというか、そういう感じでやってきていますが、その辺も慣習。
だから「どうなってたら言いやすい?」と。
それを論議して変えていけばいいんじゃないかな、と思って毎日やってるところです。







(BGM:あんべ光俊「ロングラン」from「JALANの風」)
→大学時代、徹マン中にずっと聞かされていたあんべさん。
これはその後最近の作品ですね。
当時聞かされていた曲のカバーを聴きたくてアルバムを買ったけど、けっこう他もいいという。

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甘え上手になろう


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人にモノを頼むのが下手な人と上手な人がいます。
上手というのはどっか甘え上手、ということなのかもしれません。

イノウエなんかを見ていると、上手く専従に甘えているな、と思うことがあります。
やれ、髪の毛を切ってくれ、やれ、一緒に相撲を見てくれ、云々。
けっこうその要求は通っているように見えます。
普段は格好つけがちなイノウエだけれど、モノを頼むときは格好つけない。
そこはとても好感が持てるし、みんな彼の思いに乗ってしまう。
ように見える。

開き直る、というと悪いイメージですが、彼はけっこう自分のだめさを肯定しちゃって、どっかそれを笑って済まそうとしているフシがある。
これは見ようによっては悪いこと、ということになるのかもしれないが、でもオレはいいんじゃないかな、と思っている。
どのみち、自分にはだめなところがあって、それもわかっていて、それを開示もして「でもお願い~」というのは、人に頼るときに効果的である。

なんにしても、人は誰かに頼らなければ生きてはいけない。
上手く人に頼る、もっと言うと、人を動かすことができる、というのは能力だと思う。

仕事的なコトを考えてみましょう。
自分一人でやっていたのでは徹夜しても終わらない作業も、二人でやれば徹夜しなくて済むかもしれない。
その方がラクである。
し、身体を壊さなくて済む。

集団で何かをしている場合、がんばるのは悪いことじゃないと思うが、一人でがんばって身体を壊してしまうと、結局長い目で考えるとそっちの方が周りに迷惑がかかる。
だから、オレは一人でがんばるのではなく、できる限り人に頼る。
なんなら自分は何もせずに人に頼む、ということを心がけてきました。
それがいいのか悪いのかはわからないけど、長い目で見て、それはよかったと思っています。
そうやって自分からこぼれ落ちたモノを誰かにやらせていって、そしてまあ今の後輩がいる状況があるワケですから。

ま、手を離してしまえば、あとはその人のやり方でやってもらうしかないから、あまり口出ししても仕方ない。
ああだこうだ言うくらいなら、一人でやった方がいい。
でも、それでは身体を壊す。
ま、身体ならまだしも、心を壊してしまったらとにかく辛い状況になる。
それは避けた方がいい。

どのみち、自分一人でやれることなんかはたかが知れてるんです。
「オレこんなにやったんだぜ」というのは、オレにとってはあまり自慢すべきコトじゃないんじゃないかとも思っていて。
みんなのフォローに回るとか、そういうのもなんか格好つけてるだけで、かっこついてないじゃん、と思う。
おこがましいし。
誰かに頼んだら、もう自分は関係ないでしょ、そもそも。
その人が自分でフォローすればいい。

ただ、どうしても仕事が溜まっていたり、やるべきことがたくさんあったりすると、人はがんばってしまう。
ランナーズハイよろしく、仕事ハイになってしまうんだよね。
そういうのはわからなくはない。

そして、人に頼む方がめんどくさい、というのもわかる。
説明って面倒だし、そもそもその事柄だけじゃなくて、そのバックにあるいろいろな思いとかを伝えなきゃならない。
その時間を使うくらいなら、まあ、やっちゃえ、という。
でも、オレは同じ時間を使うなら、人に頼む方を取るようにしてる。

もう一つ思うのは、そうやって具体的には何もしない、でも頼む、という形でいると、全体像が掴めるようになるんですよ。
頼んでいるのだから、今必要なことはわかっている。
つまり、今何が足らなくて、今何が必要で、そのためにどうしなきゃいけないか、というのが見えてくる。
だから、細かいところに自分が熱中するのではなく、そこはなるべく手を離していかなきゃいけない。
そうしないと、各々がバラバラになにかをやってるだけで、一本筋が通った某が生まれない。

というわけで冒頭に戻るんだけど、そういう仕事上のことも同じで、やっぱ人に頼むのが上手い、下手、という人がいて。

オレはだから、イノウエを見本にしたらいいと思うんですよね。
相手の都合を考えない。
相手が忙しいかどうかは知らん。
けど、自分が頼みたいことを、ストレートに、「オレはできないんだよ」「どうしても頼みたいんだよ」という形で、自分がだめなこと、自分の限界であることを開示して、自分の要求をはっきりと頼む。
それでダメならダメだし、上手くいけばもうけもの。

甘え上手になった方がいいですね。
その方が、ずっと人生ラクになります。
というか、こうなると甘え上手じゃない人にいろいろ溜まってしまうので、オレはみんなが甘え上手になったらいいな、と思っている今日この頃です。







(BGM:捕虜収容所「人間なんて」from「great cock hits volume2」)
→人間なんてララララ。
ホントそうだわ。
あ、こちら例の曲のカバーではありません。

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