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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
ちんどん太鼓担当

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社会的弱者であることを固定化しない★明日の集会、来てね!


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kaijosha.jpg



例えばライブをやってて思うのは、本質的なところで、我々が下に出ちゃダメだと思ってるんですね。
「ありがとう」はまあ普通の言葉としては言うけど、「こんな障害をもった人たちのライブを聴いてくれてありがとうございます」みたいな意味合いでは絶対に言っちゃいけないし、そう聞こえてしまうことについてはものすごく気をつけなきゃいけないと思ってる。

弱者が弱者であることをウチのバンドが描いてしまったら、やっぱりそれは失敗だと思うんだよね。

おそらく、今回の越谷のライブでも、「自分たちは障害者である」みたいなこととか、いや、そもそも「障害者」ってワードは誰も言ってないと思う。
それは自然にそうなっただけで、意図があってそうしてるわけではないんだけど、そうなっていた、というか。

ま、障害者だと言うことが「弱者である」ことを表現してることにはならないので、時と場合にはよると思う。
注意して使わないとならないな、とは思っている。


なぜ24TVが醜悪だと思うか、というのは、つまりはあれは「弱者ががんばっている」ということを描き出しているからだ。
「弱者」を、弱者のママエンタメとして、TVとして表現してしまうのは、それはつまりは、チャリティを強要することであって、それは為政者としては都合がいい。

そもそも人は、弱者ががんばる物語は好きなのだ。
それを見て涙したい。
けれども、それはあくまで自分の人生の外の物語であって、内なる問題ではない。
それだからこそ、チャリティの対象となり得るのである。

弱者は弱者でいるからこそ、階層が成り立つ。
階層が成り立たなければ、富裕層は存在できない。
だから、弱者を弱者として固定する物語は、俺は生理的に受け付けない。

けれども、その弱者が力を持つ物語、簡単に言うと、反撃の何かを感じさせてくれる表現だと、俺は一気に好きになる。

世の中が、為政者が一番困るのは、一番イヤなのは、「弱者が力を持つ」という図式だろう。
そういうことは彼らは避けたい。
だから逆に言えば、24TVなどは安心してみていられるのだろう。
そういう人が危機感を持つような、眉をひそめるようなことを「しでかさないと」意味がないんじゃないか、と俺は思っている。


簡単に、例えばバンドで言えば、「とにかく一般の人、24TVを安心して感動できる人」、つまりは多くの、8割方のみなさんが、どっかに眉をひそめてもらいたい、と思っている。
それは音楽のデキとかではなく、衣装や小芝居含め、表現全体の話だ。
眉をひそめるというと大げさだけど、「こんなの見たことない」みたいなことは思ってもらえるようなことをしなきゃならないと思っている。

それがうまくいかなければ、やっぱり我々も24TVと同じモノになってしまう。
それは弱者の固定化になってしまうのだから、我々の望むところではない。


つまり、市丸たちが力を持つ、というのが、もっとも大事なコトなのである。
というか、「集団になる」というか。
一人一人にはチカラはなくてもいいんだけど、それがまとまる、みたいな感じか。
それをどう表現するか、ってコトだと思う。
そこを例えばお客さんを巻き込んで、みたいなことができれば、素晴らしい、というか。

そこには難しいことが必要なわけじゃなくて、とにかくなんでもいい。
デモでもストでも、暴動でも、為政者がイヤがることの発端は、なにも難しい話から始まるわけじゃない。
社会問題、障害者問題、貧困の問題、そんなことがわかっていようがいなかろうが、暴動は起きる。

なにも暴動を起こすのが目的ではないが、弱者が為政者の脅威になる、という意味で、例えば、ということであるということを念頭に置いて書いている。

市丸や井上達、そしてそれを取り巻く俺たちが、この弱者を固定化する社会を脅かさなければ意味がない。
バンドにしても、なんかのイベントにしても、そもそものにじ屋だって、「すいません」「おありがとうございます」と言っていたのではやっぱりそれは弱者としての自身の固定化にしかならない。


道を車いすでも堂々と歩く。
歩くだけのことで、すいません、とアタマを下げなきゃいけないという必要はどこにもない。
少なくとも、車いすを使っていない俺は歩くだけで「すいません」とは言わない。

今回の、JRに関するイベントについても、「車いすだから前日に電話するくらいいいじゃないか」という意見もあろう。
つまりそれは「弱者の固定化」の流れの中にある思想なのだけれど、それを許してしまえば、世の中は何もかわらない。

社会的弱者、という自身を、その存在に貶めたままにしておかない。
それは、「みんなで協力すればいい」みたいなチャリティ、という「優しい仮面」をかぶってくる世の中を拒否することでもあって、なかなかに難しいことではある。
善意を否定するのは難しい。

けれども、それをしなければ、いつまで経っても自由に外を歩くこと、移動することは難しいままである。

それでは何も解決はしないのである。




駅無人化小

駅無人化大

バレンタインSNS用画像

(BGM:青ジャージ「われちゃったもの」from「夜間徘徊助長演奏会 Vol.2」)
→このオルガンは好き。
キーボードってなかなか難しいというか、アレンジの問題というか、すごいセンスが出ちゃうと思うんだけど、これはカッコイイ。
ジャージというより、ジャジーか。
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進歩


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kaijosha.jpg



佐藤先生が本を出して。
ま、ウチの機関紙に書いていた連載を再編集したというか、そういうものなわけですが。
現代書館から発売されていますので、みなさん買って読んでください(http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-3566-3.htm)。

井上達の訓練、というか勉強も見てもらってることもあって、彼らのコトもたくさん書かれています。

佐藤先生、まあ俺のオヤジになりますが、けっこうなんだかんだこの業界?では高名な方と言うことになります。
江戸川養護学校で最初の頃から教師。
ずっと江戸川にいて、教頭になって異動、その後校長になって異動しましたか。

小さい頃から家にはいない父親で、例えば休みの日、日曜日とかでもあちこちに訓練に行ったり、家庭訪問してみたり、そういうことをしていたようです。
いわゆる熱血教師、という感じか。

休みの日には、よく江戸川養護にも行きました。
なにせ、どこかに遊びに行く、などということはまったくありませんでしたから、ウチは。
行くとしたら江戸川養護か、その近くの施設とかに一緒に行ったりしてました。
仙台の施設内学校の教師だったこともあって、その施設にいたけれど、その後東京に出てきた人たちが集まっての飲み会とかにもよく連れて行かれました。
ウチにもみなさんよく来ていたけれど、まあそういう感じで。

レジャーだとか、家族旅行とか、そういうのには一切無関係のママ子ども時代を過ごしました。

ま、そのこと自体をどうこう思ったコトもなかったし、自分はけっこう一人でいるのも楽しかったし、まあそういうところに行くと、例えば若い先生なんかが相手してくれたりするんですよね。
そういうのもあったんで、別に「どっか行けない」とかで不満を持ったことはなかった。
というか、それが普通だったし。

夏休みはずっとオヤジとオフクロが宮城なんで、そこに行ってたり、従姉妹のところとかにずっといましたね。
今考えると、まあ小学生入ってすぐくらいで、東京駅まで親に送ってもらって新幹線に乗せてもらって、大阪で従姉妹のおばちゃんが待ってる、というようなこともありました。
あの頃はよかったですね。
指定席だから、その隣のオジサン、ってのがいるわけだけれど、その人に「1人で行くんですよろしくお願いします」ってオフクロが言ってたのを覚えています。

ま、オフクロも保育園に勤めてましたし。
夏休みとかはたいへんだったんじゃないですかね。
でもまあ、近所の保育園だったので、昼とかは行ってましたね。

なんかそんな感じで。
いい時代というか、そういうコトでもあったと思います。
近所の人たちもよく知ってたし、よく上がり込んでお菓子とかもらってたし。


ま、それはいいんですけど。

で、その本。
オヤジとしては、自分に関わりのある方にずいぶん贈ったらしいんです。
校長仲間、一緒にいろいろ研究会をやっていた仲間、昔行って他施設の職員の方、卒業しても訓練を続けていた子の親、などなどに、ずいぶんと贈ったらしく。

で、それを読んだ方から、提供品をあげたい、とずいぶん言われるようになりました。
先日は栃木まで行ってきたりもしました。
自力で持ってきてもらえる方の中には、持ってきて下さった方もいました。


オヤジの世代からすると、ウチの「ハチャメチャさ」というのは、どっか憧れというのがあるようで。
つまりは、まあそれは教師から見た観点だったり、当時の施設の運営とか、そういうコトの観点なワケですが。

そもそも、俺たちが相手をしているのは大人の井上であって、子どもではないわけです。
だから、酒を飲もうか、という時もあります。
彼らに道徳を強いるよりは、「もっと不道徳でいい」という雰囲気もあります。
金髪にしたいと言われれば、ブリーチもしてやります。

ノブがオグラに技をかけていて、それを見ていたコウヘイが参戦する。
おいおい、とまわりが笑ったりする。
彼らには彼らなりに関係があって、仲間同士、という思いが非常に強かったりもする。
だから、俺たちが入れない(入らない)場面も多い。

どっかに行きたい、といわれれば、まあ付き合ったりもします。
そして、インターネットで調べて、あそこにも行きたい、どこにも行きたい、とその要求は広がっている。
時に、映画なんかは、もう何度も一緒に行ってきたからというのもあるけど、彼らだけで行ったりしてる。

その中で、また「アイツとはいかない」とか、「あいつは誘わないからな!」とか、紛争の火種ができる。
それは俺はすごいいいことだと思ってて、「みんなと仲良くしなさい」などと言うコトは言わない。
だって、嫌いなもの、好きになれって言ったってムダです。
嫌いだからこそ、好きになる可能性はある、と俺は思うから。

オグラがここに来たばかりの頃、前にいた施設の同室の人の名前が一つも出てこなかったんだけど、そういうのは一番どうしようもない。
問題は起きないし、紛争の火種もないが、そんなのは人じゃない。
人の生きる環境だとは思えない。

人はグレーである。
だから、面白いし、イヤなこともあるけど、だから楽しいこともある。

それがもし、平坦だったら、そりゃ問題は起きない分、こっちは助かるけれど、でも、それでいいんだろうか?って俺は思う。

ケンカ、いいじゃない。
裏でこそこそいじめるよりずっといい。
最後はまあ、入ってジャッヂしてやんなきゃならんけど、それでも、いいじゃない。
なんか青春みたいで。


俺は、時代と共に、市丸たちに対する福祉のなんたらも変わらなきゃいけないと思っている。
進歩しなきゃいけない。
保護だったモノ、彼らが保護の対象だった時代から、主体へと成長していかなきゃいけない。
おそらくオヤジの世代は、この障害者福祉だったり障害児教育だったりの創世記の人たちだ。
それと同じことをまだやってるとしたら、やっぱそれは違う。

だから、先人達に「こういうのやりたかったんだよ」と言われるのは、とても嬉しいし、そうじゃなきゃいけない。
俺たちの時代に生きるモノの責任だと思う。

俺が、あのオヤジの若かった頃と同じコトをしていたんでは、やっぱダメなんだ。
急速に変わる世の中の中で、俺たちも進歩しなきゃいけない。
あの頃、先人のみなさんができなかったことをやれなかったとしたら、それこそ彼らに失礼だ。







momijilitt.jpg

にじ屋初売り2020白黒ミニ

01_20191209110145666.jpg

jr.jpg

(BGM:THEATRE BROOK「何 ?」from「外道TRIBUTE [ゲゲゲの外道讃歌]」)
→これはスパイダースへの皮肉の曲なんだろうかね。
どう聞いても「とぼけた顔して~」ですね。
こういう曲好きだなあ。
そしてそれをトリビュートでやってくれるシアターブルックさん好き。

バランスなんかホントはどうでもいいんだけど


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バランスってのは大事ですね。
人同士の関係とかのバランス。
とはいえ、バランスにばかり気を取られて自分の意思を表明できない、みたいなことになってしまうのは本末転倒的な気もしますね。
いわゆる「空気を読む」ってのも、バランスの一つなんでしょうが、あまり空気を読むというのはそもそも好きじゃないです。

とはいえ、空気を読まずに、バランスを崩してでも自分の言いたいことを言う、ってのはものすごく勇気がいるし、難しいことですね。
なかなか出来る事じゃない。


例えば、今の生活が端から見たらとても不安定で、DVを受けているとかだったとしても、そこにはそれなりのバランスがあって。
「私が我慢すれば」みたいな。
それをまあ「我慢しなくていいんだよ」というのは、そのバランス自体は崩れるからなかなか受け入れてもらえなかったりします。

そんな生活続けていたら身体壊すよ、とか。
いつか辛くなっちゃうよ、とか。
まあ、いろいろありますけど、端から見てたら。

でもまあ、それはそれでバランス取れてたりもして。
そうなると、なかなか忠告とかは受け入れてもらえない。

ま、つまりは「犠牲」ってことなんでしょうね。
犠牲がどっかにあって、それによってバランスが取れている、みたいな。
で、まあ「そんな犠牲になることないよ」みたいなことを、回りとしては言いたくなる。
でも、犠牲になってることでバランスは取れちゃってるから、なかなか踏み出すことが難しい。


知的障害の子がいたとして、まあ毎日作業所に通っているし、その作業所で何があるわけでもないし、毎日は同じで、毎日16時には家に帰ってくる、と。
その子にとって、そういう生活が十年も、二十年もこの先続く、というのは、おそらく希望もへったくれも持てないとは思いますが、本人はそれでもおとなしく行ってくれるし、その間に家族は買い物にも行けるし、帰ってきたら子どもの頃から好きだった魔女の宅急便のビデオを見せておけばおとなしい。
知的障害者の人はそういう生活をしていたりということをよく聞きます。
そして、そうやって子どもの面倒をみるということがあって、いい感じで夫婦の距離感も保てる。
それに、子どもの作業所の親の集まりやなんやで、それなりにやりがいも持てている。

こうなると、まあ例えばその子のために何が必要なんだろうか、とか、なんだとか表面上は考えるけれど、今のバランスを崩す気持ちにはなれなかったりする。

ま、よくある光景のような気がします。


とあるお母さんは、「子どもが自立なんかしちゃったら、私ウチで一人になっちゃうじゃないですか」とか言われたことがあります。
一人暮らしを勧めたときに、言われた言葉です。
家ではどうにも大声を出して云々、みたいなことがあったので、市丸達のようにこっちで親と離れて暮らしてみますか?と言ったときにこう言われたんです。
あ、もちろん、お父さんもご健在でした。
息子がいなくなっても一人じゃないと思うんですけどね。
そういうことじゃないんでしょう。

ま、つまりバランスなんでしょうね。
お母さんと旦那さんとその子の三人暮らしの中で、彼がいてくれた方が上手くバランスがとれるのでしょう。
その子のためになるかどうか、その子の将来は?ということは、そのバランスのために何も考えてもらえない、という感じでしたね。


それでもまあ、今の障害者を取り巻く現状はあくまで親が主体ですから。
親がそういえば、まあそうなっちゃうんですよね。
福祉事務所だって、親の言い分を受け入れるしかない、と言います。
「どう考えても、親の判断が間違っている」と思っても、それをひっくり返せないのだ、と。

大きく考えれば、それも社会のバランスなんでしょう。
そうしないと、障害者本人を社会が受け止めなきゃならなくなりますから。
それは嫌なんだよね、社会のみなさんは。
いいことをいい、優しくもするけれど、責任は取りたくない。
いい感じで24時間テレビとかで感動をもらえればそのくらいでちょうどイイ、みたいな。
遠くから観ていたい、みたいな。

そのくらいの距離感でいることが、社会が障害者に優しくしてくれる条件、みたいな感じというか。
親が責任持ってくれますよね、ということが前提で、という。
そういうバランスがとれている、というか。


別の角度から言いますと、そりゃ市丸なんかとネイクドで付き合ったら、そりゃ嫌な思い、すごくしますよ。
イライラもする。
長年一緒にいる我々ですらイライラしますから。
もちろん、すべての知的障害者がそうだとは言わないですが、そういう人もいるって話ね。
だから、じゃあまあ嫌えばいいんだけど、それでも「障害者だから」「優しくしなきゃいけないから」という呪縛があるからね。
それ、なかなか難しい。
そういうバランスで世の中は進んでいる。
我々はまあ、嫌い、と言えますけど、他から来た人がそういうのは難しいと思います。

だからまあ、世の中がいう「バランス」じゃなくて、「いいところ」でバランス取りましょう、というか。
大元の部分がそういうバランスで出来ているのだから、まあ個々にもそうなっちゃいがちですから。
そんな風に思ったりする、という話です。


そんなわけで、今晩は四谷アウトブレイクでライブです。
来て、市丸にイライラしてください。
お待ちしております。







佐藤店長生誕祭小

(BGM:1910 Fruitgum Company「Bubblegum World」fromYOUTUBE)
→ま、このイントロ、日本人なら全員知ってるアレなんだけど。
ぜひYOUTUBEで検索して聞いてみて下さい。

シンプルに


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先日ツイートを見てたら、介護現場の離職が多い理由について、けっこう「職場のやり方とあわない」「職場のやり方が許せない」というのが現場的には多い、というのが流れてきた。
同時に、「一般的には給料の安さ、それに対する責任の重さを指摘されるが、現場では上記のような話を聞くことが多い。この乖離はなんだろうか」という感じのことも書かれていた。

そのツイート自体は流れて行ってしまったので文面までは覚えてないし、誰が書いたのかもわからないが、ある意味、これはわからなくはないな、とは思ったと同時に、何か違和感もあって、その内容が印象に残っていた。


ま、このツイートそのものはおいておいて、この感じはなんかよくあるような気がした。

今の福祉制度は崩壊していて、高齢化社会になるというのに、介護職の人たちをつなぎ止めるために有効な手を打てないでいる。
介護の予算が増えるわけでもなく、給料は安く、現場は疲弊している。
のにもかかわらず、時に起こる事故の責任問題は重くのしかかる。
これでは介護職の人が増えるわけもない。

こうした政権のやり方に対して、ストレートに怒れればいいんだけど、世の中はなかなかそうもいかない。
今、まさに現場で格闘してる人たちの足並みが揃わないのである。

簡単に言えば、「上司のやり方が気に入らない」「職場の人間関係」というのは、どこの職場にもある。
別に介護の職場だけに限ったモノではない。
が、もちろん、老人介護の現場に於けるヘルパーへのセクハラとかも多発しているようなので、職場が一致団結して取り組まなければならない状態でもアリ、他の業種に比べ、そのへんは深刻である、とは言えると思う。
けれども、個々の職場には個々の問題や特殊な事情があり、それも一概に言えるモノではないと思う。

別に、この「職場の雰囲気」や「上司の考え方」といったものが、小さな問題だと言いたいのではないが、そもそもそれが月給100万だったとしたら、「辞める」という方に振れる針は小さくなるのではないだろうか、とは思うのだ。
もっと言えば、月給が100万だったら、もっといろいろな人材が入ってくるから、職場の雰囲気が大きく変わる可能性もある。
というか、変わらざるを得ない、というか。

人を集めるためには、給料を上げるのが一番早い。
それでも辞める人はいるだろうが、辞めない人も増えるはずだ。
人が集まることで、職場改革が進む可能性もある。


しかし、この感覚が福祉の現場ではメインにならなかったりする。
それは、福祉とは「志である」みたいな、福祉とは心である、みたいな、そういう精神が社会の中心にある、というのが一つの要因な気がする。

いや、そのこと自体は否定されなければいけない。
介護の問題を「気持ち」の問題にすり替えてしまうことは、今の政権もやっている。
そういう気持ちの問題にすり替えるから、賃金も上がらない、という結果になっている。

この波に反発するために、例えば介護職なんかの人たちは、自分たちのことを「専門的な仕事なのだ」とか言ったりもする。
それはある意味、一つの反論にはなるけれど、一方で、「介護とは何か」みたいなイデオローグの対立を産んだりもする。
つまり、専門的に考えれば考えるほど、それはその内部で考え方の違いによって足並みが揃わなかったりする。

専門的に考えるのが悪いと言ってるのではない。
しかし、AとBという対立が生まれてしまったが故に、AにもBにも覆い被さっている「介護予算が少ない。故に給料が安い」ということに共に立ち向かえなくなる。


福祉の現場で闘おうとしている人たちは、現実的に給料が低くてもやってるわけで、とてもマジメで一生懸命な人が多い。
そのことは、まったく悪いことじゃないし、むしろ歓迎するろころだけれど、そういう人に給料が安い、というのはマジメにやってる人にも失礼だ、って話なのですが。

けど、やっぱ真剣にモノを考えてしまうが故に、大元の問題だけではなく、いろいろな部分についてイデオロギー対立が生まれてしまったりもするような雰囲気がある。
「そこ、いま?」と思うようなことが、大問題かのように語られたりすると、ちょっと待ってよ、と言いたくなる。


今の政権に群がって甘い汁を吸おうとする人たちは、その目的が金、という至極簡単なモノでしかつながってないので(つまりはバカなんだろうけど)、互いに協力する力が強い。
鉄壁のようである。
けれども、それに対する、真剣に福祉を考える人たちは、マジメな分、どうしても細かい部分で対立しがちで、どうしても一枚岩になれないところがある。

過去には全障研、全障連対立のようなものもあったし、それはそのまま運動の世界でも同じで、埼玉でも二つの県交渉が今でも行われている。

俺は、もっともっと単純化していかなきゃいけないんじゃないかと思う。
介護の現場に於ける問題、というのは、確かに種々ある。
ある。
そして、それが大問題だというのもわかる。
わかるんだけど、問題はシンプルにしていかなきゃいけないと思う。

いや、そういうことで、その現場の問題を無視しよう、軽視しよう、ということを言いたいのではない。
それとこれとをきちんと分けた方がイイのではないだろうか?
逆に言えば、「ここまでは一緒にやる」けれども、「こっから先は一緒にやらない」という、「ハッキリした分断」をやってもいいのではないだろうか。
そのへんがごっちゃになって、大きな分断を産む必要があるとは思えないし、それはAの考えの人もBの考えの人にもうま味はないような気がする。


軽視しない、けれども、大元の問題については、そこはノーサイドで一緒に取り組もう、という理知的なアタマが求められているような気がする。

イデオロギーの対立は悪いことじゃない。
それによって、新しい何かが生まれる可能性があるから。
けれどもそれは、マジメな人たちにそれに相応する対価が支払われているという前提の話である。

だから、その前提を作る作業と、中身を語る作業を分けなければならないと思うのだ。






佐藤店長生誕祭小

(BGM:塩分手生えるんすか「もすかう [Digimind remix]」from「ウマウマできるトランスを作ってみた」)
→これはイイと思う。
トランスって、どこか胡散臭いというか、音楽愛を感じないことが多いんだけど、これはすごく好き。
もすかう、というタイトルがまずいいじゃない。

使わない言葉


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kaijosha.jpg



違和感、というのがあって。
「うまく言えないけど違和感」みたいな。
でもまあ、ガマンできないほどでもないし、う~ん、まあいいか、って流しちゃうくらいの。
とはいえ、家に帰ってから、「やっぱなんかもやもやする」みたいな感じ。

説明できればここでも書くんだろうけど、どうにもよくわからない、う~ん、という。
けっこうそういうことってあるんだよな。


最近もそういうことがあって、う~ん、なんだろう腹が立つけど、これなんだ?と。
で、考えた結果そういうことの話の時の「特徴」ってのがあるような気がしまして。

「言ってることは分からなくはない」
「いや、むしろ言いコト言ってるんだよな」
「…でも違和感」という。

これ、つまりその喋ってる人の「立ち位置」なんだな、きっと。
要求一致、みたいなことを言いますけど、確かに出てくる言葉は一緒なんだろうから、まあ一緒にやれるのかもしれないけど、言いようのない違和感がそこに漂う、みたいな。
そういう感じね。
「補助金上げろ」、は一緒なんだから、と。
まあ、そりゃそうなんですけど。


前に書いたかどうか、ウチみたいなところで、他にもあるわけだけれど、そういうところが「出張」とか言う言葉を使うことに対してすごい違和感があるんですね。
例えばこの前俺たちは山形に行ったけど、あれを職員サイドが「出張」という、みたいな。
あれは旅行でしょう。
「引率」ではない。
で、そういうところに限って、「個別指導」とかいう言葉を平気で使う。
「送迎」とか。
「遅番」とか。
「保護者」とか(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4830.html)。

まあ、共通言語を作らないと、職場はウマく回りません。
だから、省略する言語を使ってる、というのはわからなくはないんですよ。

でも、「引率」「遅番」「送迎」などの言葉でイメージされるのは、「支配される市丸と支配する健体者の職員」という図式です。
支配、という言葉がイヤなら「支援」と変えてもいいです。
どっちもイメージする画は一緒だと思います。
だからまあ、我々は「支援」という言葉も使いませんが。

いや、先に書いたように、共通言語は必要。
これは、組織が大きくなればなるほど必要になってきます。
でも、その時に、我々は「行政が使う言葉を使わない」「過去に収容施設で使われてきた言葉をつかわない」をできるだけしなきゃいけないな、とずっと思ってきました。

確かに、それはとても難しいことで、例えば市丸にだって「指導」はするんですよ。
でも、それを「指導」という言葉を使わないとしたら、けっこう難しくないですか?
難しいんです。
でも、それをやらなきゃいけないと思うんです。

「いや、指導は指導でしょ。日本語としていいんじゃないですか」という意見もごもっともで、その通りだと思うけど、それを市丸がきいた時の「あ、俺は指導される人なんだ」という「落胆」が、俺はイヤなんです。
というか、それに彼らは慣れすぎているんですよね。
特に他の作業所から来た連中は、自分からそういう言葉を使ったりもする。
知的障害のヤツが「私は座位を保てます」とか。
座位ってなんだよ、と。
んな言葉、世の中で使いますか?
んな言葉より、覚える言葉はいっぱいあるだろうに、と思うわけです。

逆もあって、例えばカブキなんかは帰りに「送迎」してもらわなきゃならないから、でも、「送迎」とは前にいた施設では言わなかったのでしょうか、「一緒に帰ろう」という言い方をしたりするんです。
でも、一緒に帰らないんですよ。
方向も違うし、お前の家に帰るわけじゃない。
確かに、「送迎」という言葉を使わない、ということではいいんでしょうが、「一緒に帰ろう」は、今度は日本語として間違っている。

この辺、まあなかなか難しい。
でも、それをしないと、彼らは一気に「お世話される人」に成り下がる。
そして、成り下がることに「慣れきっている」。
そのことが、俺はとても悔しいし、歯がゆいんです。

この、ジレンマこそが大事だとも思うんです。
なにが正解、というわけじゃないけど、「彼らのメンツを潰さない」「彼らが主役である」ことをやりとげるためには、やっぱここ悩むところだと思うんです大いに。


話をしてて、まあ当たり前に言いコト言っていても、これらの言葉が一つでも共通言語であるかのように出てきちゃうと、一気に俺は違和感になるんです。

「お前どっち側?」って。
「俺、お前の仲間じゃないけど」って。

俺はやっぱ市丸がそういう言葉を受け入れちゃう現実は悔しいし、彼らを「指導下に置く」ということをしたくないし、いや、そう市丸に「思われたくない」ので、やっぱ使えない。
それを使えちゃう人ってのは、やっぱなんか彼らを「指導しなければいけない人」と思っている、というか、いや、俺もそうは思ってるが、彼らに「そう思われてもいい人」という風に写る。
それは俺は避けたいんだ。
避けるためなら、言葉のチョイスは気をつけたい。

そして、それが出来ない人には、もやもやする。
まあ、有名な人であろうがなんだろうが、偉かろうが、なんか違う、って思う。






wannmannblog.jpg

(BGM:Silvertones「We Wish A Merry Christmas」from「Sisteren's Reggae Christmas」)
→ま、とりあえずクリスマスソングをレゲにしてみました、という。
シャレオツなお店とかで12月にかけるヤツか。

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