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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
ちんどん太鼓担当

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でも、俺たちは「イチ抜けた」


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専従募集


障害者団体の集まり、というのがあって。
会議とか、イベントとか。

昔はそういうのにも積極的に参加したし、いろいろと導いてくれる人もいたし、おかげで今がある。
仲間も何人かできたと思うし、とてもそのときのことには感謝している。

当時、もう2~30年前の埼玉の障害者運動は二分していて、今はもうそういう政党感というのは消え失せているけれど、いわゆる他の社会運動と同じですね。
社会党系、共産系、という。
まあ、ご本人たちはそういう分け方をいやがるだろうけど、まあ外の方にわかりやすく説明するとしたらそういう二分、です。

ウチは、一方のイベントに行けば「虹の会はあっちでしょ」という感じの受け入れられ方をしていたと思う。
両方のイベントや会議に参加していたのは、当時、おそらくウチだけだ。

運動の分断というのは、理念に基づく分派のように思われがちだけれど、その実践は似通っていたし、つまり「理念」は実践に基づかず形成されていた、というのが内部にいた者の感想である。
そしてその理念が政党の思惑に左右されていた、と俺は思った。

もっというと、それは政党の問題ではなく、もっと大きな意図があったのではないか?とも思うワケで、つまり、運動は分断された方が得する連中がいるわけだから、推理小説のセオリー通りに考えれば、その連中の意図が働いていたのではないか?と。

そうしたモノに左右されたくなかったから、ウチは「両方に参加しよう」ということでやってきた。
が、それも今はあまり参加していない。

先にちょっとイベントに参加したんだけど、社会党が解党した今、それでもなお、今も分断されたままであることを痛感した。
為政者万々歳である。

もし、本気で障害者運動で世の中を変えようとするのなら、まずこの分断をこそ変えなければならないのではないか?と俺は思うのだが、どうだろう。
それが運動側のすべき努力なのではないか、と。

まあ、そのどちらにももうあまり参加せずに、外からこうやってモノを言うのはどうかとも思うけれど、でも、そういう「狭い視野」が俺はとてもイヤなのだ。
だから、参加したくなくなる。


ちょっと前に、昔の仲間に声をかけていただいて参加した映画会は、人も入っていなかったし、正直、盛り上がりに欠けるモノだった。
挨拶があって、映画、映画が終わったらなんとなく終わり。
しかもその挨拶が、何も心に響いてこない。
ただ原稿を読むだけだったら、もう配っちゃえばいい。
原稿に目を落として挨拶をして、市丸たちに伝わると思ったら大間違いだ。

映画の画面はアスペクト比が違うから縦長だし、字幕は切れてるし、正直、映画を大事に思ってない映画会だな、としか思えず、最初の5秒で見る気が失せた。
一緒に行った連中がいなかったら、5秒で席を立つところだ。

それでも、親なのか、職員なのか、一生懸命丁寧にチケット販売をやっていたり、入り口で「こんにちわ」とか言ってくれるんだけど、そこじゃなくて、映画そのものをなんとかして欲しかった。


この「素人が一生懸命やってます」というのは、悪くないし、それでいいとは思う。
けれど、映画会なら映画会の、講演会なら講演会の、それを「来た人にもっと楽しんでもらおう」という、技術的な側面だって、必ずあるはずだ。
それをエンターテイメント性、という風にくくるのは、正直おおざっぱが過ぎるけれど、まあ、表現上そうしておくけれど、そのエンターテイメント性に全くかけるのだ。

俺は、まず会議だろうが講演会だろうが、イベントである以上、そこに時間を割いて集まる人がいる以上、その来た人に満足してもらわなきゃいけない、って思わなきゃならないのではないか?と思うのだ。
じゃないと、それは「動員」なんだよ。

ウチのライブに親は来てくれるな、というのはうちの親御さんにはずっと言ってるんだけど、まあ、ロックに親がついてくる、なんてのはもう話にならないというのはあるけれど、同時に、それって確実に動員につながっちゃうから。
他の団体だと、「一家族5枚買ってください」なんて言われるらしいから、もうそんなのやらなきゃいいのに,としか俺は思えない。

来た人に満足してもらって、次もまた足を運んでもらう。
どうエンターテイメント性を確保するか、というのが、実はとても重要だったりする。
その広がりが、俺たちの思いを確実に広げてもらえると思ってるし、ひいては社会を変えていく力になるかもしれない可能性を秘めていくことになる。
と俺は信じている。

「一家族5枚」などという、「動員」では世の中変わらない。
それは、右翼団体が、右派のデモの人たちに日の丸の旗を配って振ってください、と言ってるようなもんで、そんなの正直、デモでも何でもない。
動員だろう、それは。
じゃなきゃ、旗など人数分用意出来ないよ普通考えれば。

それと同じことを、今でも障害者団体はやってる、ってことなんだよね。
それでよく右派を批判出来るもんだ、と俺は思うんだけど。


バンドで言えば、ウチも最初は来てくれる人は少なかった。
今やっと、ライブハウスとかにも失礼がないくらい見に来てくれる人が増えてきて、お客さんの数の心配はしなくてすむようになった。

それはいつも考えていたんだ。
「来た人にまた来てもらうためにどうしたらいいか?」ということを。
だからいつもそれに頭を悩ませ、ライブ前には眠れない日を過ごしてきた。


俺たちに必要なことは、市丸たちが安定して暮らせる社会だ。
それは今、そうなってないから、そこをめざしている、ということだ。
それは社会の変革であって、その変革をもたらすのは、動員による関係者の集団だけでは足らなくて、一般の人の「賛意」だ。

今、さいたま市には数千世帯のにじ屋への品物の提供者がいる。
たとえ話をすれば、もちろんそんなに簡単な理屈ではないが、もし、それが100万になれば、我々の思いは社会を動かす可能性を持つ。

逆に言えば、そこをめざさなきゃ行けない。
一般の、隣の方が、にじ屋に来てくれて、初めて世の中は動く可能性を得る。

それには、まったく関係者じゃない人に「また来たい」と思ってもらわなきゃならない。
いや、それが実際の話、とても難しいから、俺たちも必死に考えている。


先日行ったイベントが、自分にとって居心地が悪かったのは、おそらくその「必死」の方向性が俺の描いているモノと違うからだ。
そして、でも、俺がそう思うようになったのも、彼らと過ごした日々があったからであるので、それにはとても感謝している。





(BGM:青山ミチ「夢の超特急」fromYOUTUBE)
→ま、新幹線の歌なんだけど、新幹線とは目はあわんよな…、なんてそんな野暮なことを言うもんじゃない。
昼は銀座、夜はなんば、って日帰りできるようになったんだから。
「恋のダイヤは誰が組む~」
…お前で組め…。
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ごめんね


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専従募集


おそらく、自分は何も変わってないんだけど、昔いた人たちにしてみたらずいぶん変わって見えるんだろう。
そりゃそうだ。
枝葉は生まれかわる。
そう考えると、枝葉しか見せられなかったんだな、と後悔する。

三十年もこんなコトをやっていたら、行きすぎた人もたくさんいる。
悲しい別れになった人も多いし、その後も細々とつながってる人もいる。

時30年前というのは、バブルが弾けそうな時で、基本、今に比べりゃ、景気は隔世の感がある。
夜中まで人は元気だったし、ちょっとがんばればみんな正社員で就職もできた。

しかし、当時、とにかくこの仕事には金が来なかった。
だから、給料がなかった。
バザーの売上げで給料を払う、なんてことが現実だった。

世の中が好景気であっても、オレたちにその恩恵はなかった。

といっても、世の中が好景気であったから、ポンと200万の入った封筒をもらったこともあった。
そういう意味では、救ってくれる人もいた。

オレたちは、そんな中で、「自分たちは必死だ」「自分たちは苦労している」ということを、どうしても旗印にしがちだった。
そこに自分の存在意義を見いだしていた。

今になって考えれば、そんなのはクソだ。
健体者の苦労の上になんか、障害者が「あたりまえに」生活なんかできるはずがない。

でも、それは、心酔しやすかった。
だから、そういう思いを共有する人が集まって、とりあえずなんとか毎日は回っていった。

こちらは捨て身の野武士だから。
行政交渉も怖いモノなんかなかった。
策なんか労しないで、ただ、「要求が通らないなら帰らない」と開き直った。

その結果、今の浦和市がある。
というか、今はさいたま市。
そうやって、当時的には介助料が全国トップレベルにまで上がって、ある程度の金額の給料が払えるようになった。

けどね、その時から、おそらく、やっぱりその「がんばってることを存在意義」にしちゃいけなかったんだよね。
転換すべきだってことを、みんなで共有できなかった。

簡単に言うと、自分の犠牲の上に誰かが幸せになる、なんてことは、映画ならともかく、日常的にはありえないんだよ。
しかも、生きていて、一緒に活動していたらなおさら。

しかも、時代は不景気に一気に突入。
俺の給料は、一般の企業に非正規で出向してる人をぬいてもいた。
そんな状況で、「自分が犠牲なんだ!」なんて思いは、ちゃんちゃら現実的じゃなかった。
こうなると、その感情に心酔していた人はなんとか「自分を追い詰めよう」としてしまう。

それじゃダメだったんだよ。

俺はそのアタリで、いやその前から、それを回避する方に舵を取りたかった。
けどね、一度「雰囲気」としてできあがったモノを変えるのは、そりゃ時間もかかる。
そんな中で、ずっと一緒だった近しい人ともよくぶつかった。
彼らの存在意義を否定するつもりはない俺の言葉は、やっぱりでも否定でしかなかった。
そんな人たちは専従を辞めたりもした。

何が大切か、というと、「結局、しょうがねえんだ」「できることしかできないんだ」ということで。
一番最初、本当に専従が二人で給料5万円(月給です念為)だったりしたときは、確かにそういう感じではあったんだけど。
弱小すぎて。

しかし、人が増えると、そのぶん、できることは確実に増えてしまう。
葉っぱが一気に広がった、というか。
増えてしまう、ってのもおかしいけど、上を目指す、やれることを増やす、目指して目指して、って部分だけが新しく職員になった彼らに課されてしまったように思う。
大事なのは、「ダメだったら、笑って次!次!」って言うことだし、そこが一番大事だったのに。
その、前半部分だけしか、きっとその当時の若い子には伝わらなかったんだな。
いや、自分がそういう雰囲気をまとっていたのだと思う。

それを戻す作業を、この10年くらいやっていた気がする。
それは、自分がしでかしたことだから、自分がしなくちゃ、と思ってきた。

ま、先日、懐かしい人、複数人と会ったり、いろいろやりとりしたりして、「あ、俺は伝えられてなかったな」と改めて思ったんだよね。
この人は、まだあの時のママだ、というか…。
枝葉も生えかわっていない、というか…。
申し訳なかったな、というか、なんだろう。
複雑な思いだった。

同時にカズミがなんかちょっと書いてくれていたのが嬉しくて(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4457.html)、まあ、ちょっと思ったというか。

自分は幸せになってもいい。
幸せになるべきだ。
だから、俺は今、幸せだと思うコトは、表現しようと思ってる。
でも、彼らは、幸せを、自分がおそらく意識しないところで回避しちゃってるのかな、とか、ちょっと思ったり。
彼らからみたら、今の「幸せそうな俺」なんかは、どうにもうまくはまらないのかもしれない。

自分が悪いのはもう悪いんだけど、時代もあった。
今の全体が沈んでる不況の中では、「俺が不幸を背負って」なんて口が裂けても言えないもん。
いまだにそこから抜けきれない他の職員や関係者の人たちをみたりすると、ちょっと「時代を読み違えてるよ」って思ったりもする。
タイプが古い。
…振り返ってそう考えると、まあ、当時はいろいろな団体、そういう人が多かったような気もする。

…って怒られるな。
俺なんかと同じにしてごめんなさい。
先に謝る。







(BGM:「ヘドラマーチ」fromYOUTUBE)
→ゴジラの挿入歌なのかな。
ものすごく明るい曲調と明るい声で、「みなごろし~」「海も魚も全滅だ~全滅だ~」って言われちゃうと、もう敬服するしかないですな。
これはイイ。

安全なテレビ番組への違和感


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俺はけっこう「普通の家庭」で育っただと思ってるんだけど、そもそも、生活に困った感じ、を子どもながらに思ったことはない。
給食費や集金に来る新聞屋さんとかに、「待ってて」というようなことはなかったし、学校の集金が遅れることもなかったし、だから、「そういうことはないモノだ」と思っていた。

ま、ウチは団地暮らしで確かに家は狭かったが、食べたいモノはそこそこ食べられたし、なんだろう、反社会的な感じもなかったし、いわゆるヤンキー感もなく。

幸せなことですね。

で、世の中にはそういう幸せな家庭ばかりじゃない、というのがわかったのは、けっこう大人になってから。


今の日本は平等だとか言うけれど、階級で明確に仕切られていて、同じくらいの給料をもらってる人が、おなじ建て売りを買ったりして。
同じマンション、つまり例えば10万なら10万の家賃が払える人、が、そのマンションには住むわけで。

つまりまあ、同じ区画に同じような人たちが住んでいる、みたいな。
会社でも、まあ非正規だ、なんだってことにはなるけれど、同じような待遇の場合、まあ勤続年数とかで同じような階級の人が集まってることになる。


つまりまあ、階級ってのは厳然とあるのよね。
子どもの頃は、そういうのに当然、気づかない。
そして、まあ大人になっても気づかない人はたくさんいて。

というか、気づいても、気づかないふりをして、というか、階級を超えようとかとは全く思わない人たち、というか。

マイルドヤンキーなんて言葉がありますけど、いわゆる、地方都市とかでそれなりの社会集団を形成して生きてる人たち。
「先輩」という頼りになる存在がいて、その先輩に頼めば仕事もなんとかなって、まあみんなでそういう感じで共同体を作ってる感じ、というか。

で、まあ、これは偏見半分だけど、おそらくエグザイルを聞いている、みたいな。
たぶん、この感じの人たちが今の日本にはものすごく多いんだろうな、と。

昔はきっとYAZAWAってことになるんでしょうけど、まあビックになるぜ!とはいうものの、やっぱその「先輩」以上にはなれないんだよな。
先輩、が上がりなんだろうけど、でもまあ、それは広い視点でいえばやっぱり「ビック」とはほど遠く…。

社会や階級そのものに疑問を抱いて、それをなんとかしよう、みたいな部分は彼らにはないから、枠の中から出ることはない。
本人たちの意識とは全く関係なく、結局は階級を追認しているだけ。

でもまあ、「本人たちが幸せならいいじゃない」という話も、まあわかるんです。
その共同体が情を基本に成り立っているとするなら、それはきっと「住みやすい共同体」なんだとも思います。
ただまあ、それは決定的に先輩を含んだ自分たちを、中央の、いや社会の構造から言ったら階級の一番上の人たちのための「奴隷装置の維持」でしかない。


で、話を戻しまして、つまり自分は子どもの頃は、そういう階級みたいなことに気づきませんでした。
誰もが、たいがいの生活をしていて、子どもがりんごを食べたいと言えば、まあその日は「ガマンしなさい」でも、次の日は買ってきてくれる家庭に暮らしてる、と思っていた。
集金が来ても、ちゃんと普通に払える、のが、普通だ、と思ってました。


そうじゃないんだ、と思えたのは、大学を出て、この仕事をするようになってからです。
バザーの品物を回収するとかで多くの家にたずねるようになったり、その他でも相談だとかで、「いろいろな階級の」家に上がり込んだり、接触するようになってから。

それまでは、あまり自分と違う階級の人とは接触しないまま生きてきましたから。
これ、たいへんなことで、今のこういう仕事だから、「いろいろな家庭がある」って理解になるけど、そうじゃなかったら、同じ職場でも同じ階級の人ばかりだったりして、今でもそういうのがわからなかったのかもしれない、と思ってゾッとするんですよ。


ちょっと急に視点変えますけど、昨年ウチが取り上げられたバリバラという番組に対する違和感というのは、ここなんですよね。

出てくるのは障害者。
障害者バラエティとかって銘打ってるから当然なんだけど。

でも、その障害者のみなさんは、どこか「アッパー」なんですね。
発言等々を聞いてると、いい階級のみなさん、という感じがする。
つまりね、もしかしたら、世の中の問題は、「障害者か障害者じゃないか?」ではなく、「階級の問題なのかもしれない」と、改めて思った、と。


やっぱ、どこにも助けを求められなくて、助けを求める、ということ自体がわからないのか、方法がわからないのか、それはわからないけど、そういう人ってたくさんいて、自分の家の駐車場に親子揃ってぼっと立ってたりする。
近所の名物な人、になって、夏でもジャンパー着てたりする。

本当に助けが必要な人たちというのは、おそらくそういう人たちで、でもそういう人たちはバリバラには出てこない。
いや、ひっかからないのだ、バリバラには。

なぜなら、アレも、「障害者の階級」を基礎にした、「安全なテレビ番組」だからだ。
階級さえ踏み外さなければ、問題は起きない。
ちょっと進歩的な人たちが喜んで見てくれる。


本当に自分がすべきことはなんなんだろう。
ちょっと前に、成宮アイコっちのトークイベントに雨宮処凛さんと出させてもらったとき、雨宮さんの覚悟というか、そういうのがすごく伝わってきて、なんか「俺なんかぬるいな」と思ったんだけど、いや、それってこういう感じのことで。


一歩、どこかに踏み出さなきゃいけない。






(BGM:西条ロック「三つで五百円」fromYOUTUBE)
→「子どもの頃に捨てられた~ 捨てられた~」
「母を訪ねて幾万里~ 幾万里~」
この「自分で繰り返す」ってのがいいよな、これ。
本来、ここはコーラスとかでかぶせたいが、それではこの曲の主旨にはあわないんだよな。
3曲500円、じゃないところがいいよな。

「ギフテッド」ではないけれど


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こういうツイートが流れてきて。

「知人の息子さんが手に負えない暴れん坊で、園側から一度検査にと進められて行ったら、結果はIQが高過ぎて実年齢の扱いを受けるとストレスが溜まるとの事だったらしい。そこで園側はその子に対してだけ別対応したらウソみたいに治ったと」

これ、ピンときたのは、カイのことで。
カイはホントに時々なんだけど、人を噛んだりしちゃうんだけど。
それにはその時々に、例えば陽子に責められたから、とか井上に意地悪されたから、ってこともあるんだけど、一方で、「何もないとき」というのもあって。

それって、普段のいろいろなことが積み重なってるのかな、とか思ったんです。
例えば、噛んだりするのは彼の能力以上のことを求めているからなのか?みたいな。
そういう普段のストレスが?みたいな。


でも、このメールを見て、そうじゃなくて、能力以下のことをさせているからだろうか?と。
ちょっとそういう疑問が湧きまして。

で、まあ調べてみたんだけど、確かに「ギフテッド」と言われる子たちはいて。
いわゆるIQが130以上が目安の子。
確かにこうした子たちは、能力に見合ったことを要求されない、というか、毎日能力以下のことをやらされてしまっている、と考えても不思議ではなくて。

そのストレスをどう表現したらいいかわからなくて、まあ粗暴になったり、みたいな。


でもまあ、カイ云々で調べはじめた俺としては、IQ130という、その時点でどうもカイとは違うな、と瞬時に理解はしたんだけど。

ただ、そのギフテッドの子どもたちの特徴が面白くて。
以下にコピーしますと、


課業に集中できなかったり、話題と外れてしまうことがある。興味のあること以外のことをやりたがらない。
飽きっぽい。
クラスを乱す行動をとる。
繰り返しや暗誦することに、非常な抵抗感を示す。
課題をさっさとこなすが、やり方が雑である。
やり過ぎて、自分を消耗させてしまう。
批判をうまく受け止められない。
グループ協同作業がうまくできない。
権威のある人に批判的な態度をとる。
自己、他者に対して批判的である。また完璧主義である。
議論の中で、自分の主張を通そうとする。
クラスの道化師になったり、ジョークに対して大げさに反応する。
クラスの中で何でも知っている物知り屋として見られる。
周りに対してボス的な態度をとる。


あれ?と。
これ、まったくもって市丸じゃん、とか思って。

とはいえ、市丸はIQが130ないわけだから、違うんだけど、なんか「一周回って一緒か?」という気がしたんです。


よくよく考えたら、にじ屋によく来てたツノの養護学校時代の同窓生のAちゃんはカレンダーが前後200年くらい頭に入ってるサヴァン症候群とかいう感じのアレなんだけど、といって、まあ実生活にはあまり役に立ちませんが。

Aちゃんは、とにかく「おまえ子どもかよ」みたいなことに敏感なんですね。
なんでもかんでも「お母さんに聞く」という彼女に、ウチの連中はみんな「赤ちゃんかよ」とか言うんだけど、それに彼女は激昂するの。
これは一般就労してるNという、これもまたにじ屋に時々来るやつも同じなんだけど。

そういえば、子どもって子ども扱いされることに妙に反発するよな、とか思ったりして。


まあ、ちょっと話が散漫になりましたが、いや、けれど、この「能力以下のことをさせられてるから暴れる、おかしくなる」というのは、例えばオグラが施設に入れられて話せなくなったことや、カブキがここにきた当時「カブいちゃっていた」ことなどと、何か共通するモノがあるようにも思います。

つまり、「こっちが彼に見合った取り組みをしないから、彼は伸びないのである」という。


ま、あたりまえといえばあたりまえなんだけど、これ、けっこう重要というか、毎日の中で、もちろん俺も例えばカブキに何をやらせたらいいか、というのはよくわからないんで、まあ、一緒にみんなと悩みたいんですが、この「彼に見合ったこととは何か」というのを、やっぱ各々考えてやらなきゃな、と。

もちろん、集団としての取り組みを重視した上で、こうした何か個別に考える事をなまけちゃいけないな、というか。





(BGM:エミー・ジャクソン「涙のゴーゴー」fromYOUTUBE)
→GSを英語で歌ってます的な曲ですね。
ってか、ただの洋楽なのか、これは。

「障害者がかわいそう」だけでは、本当にかわいそう


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ちょっと前かな。こんな記事がありました。
簡略にまとめると、こんなの。

とあるグループホームで、ある一人の女性に「わたしはうそつきだ」って名札を下げさせていた。
加えて、時間内に食事を食べなかったら、食べさせなくてイイ、とスタッフに指示していた。
そして、なんか職員配置も偽っていたようで、そういうこともあって、この施設は処分された。

みたいな内容でした。


これ、記事だけでは何ともその施設をどうこうってのは言えないんだけど、わかるにはわかるんです。
あ、職員配置を偽る、ってのはわからないけど、その前の二つ。

ただ、札を下げさせていたのは「まわりが迷惑するから」ということを施設は言ってるらしいけど、寝る時もつけさせていたとか、そういうこともあったようで、これはもう理由それじゃないよね?というのは現場的に思います。
これはまあ、もうそういうことじゃなく、見せしめというか、本人への怒りを札にぶつけてるわね。

この気持ちはわからなくもないんです。
毎日一緒にいると、確かにそういう感情は沸いてくる。


ツイートで、とある老人施設の職員が、「私はプロだから、入所者には怒らないが、身内だったら怒ってると思う」という、つまりは、身内が介護する、ということに関しての問題点を指摘していたんだけど、それもすげえなあ、と思ったんだけど。
プロだって、やっぱ腹が立つ時もあります。
要は、それを「どう出さないか」ってことであって。
怒りを感じなければ、まあ楽だろうなあ、と思います。


で、ここで書きたいのはそういうことじゃなく、この食事に関するルールなんですけど。
というか、彼らに(同時に我々に)課すルール、罰、についてです。

俺も、時に何度も同じことを繰り返してしまうコバに、「もうお前とは話せないな…」という風に、いわゆる「罰」を与えることがあります。
現実問題、俺と話せないというのは、俺が出かける時に一緒には行けないし、二三日でコバは本気で泣いてきます。

他にも、市丸がエロビデオ貸し出し(ネットにあるエロビデオは一日一本借りてイイという約束になっている。一日で返さなかったりするのはダメ)についても、DVDを割ってしまったことを言い出さず、適当なことを言っていたので、貸し出しを中止したこととかもありました。

でね、これら、例えば「話さない」という罰を与えるのは、「話せる状況、話をどう再開するか」、ということが、まずしっかりとアタマにないとできないんです。
すごくだから難しいんです。

ずっとその罰が継続する、ってのはあり得ない。
あったとして、話す、ということで言えば、一週間が限度。
こちらも限度だし、そこでなんかしらの「結論」を出さなきゃならない。
しかも、話せないので、他の専従の手を借りないと無理。
そこで、その「話さない」に入ったとたんに、我々はどう収束させるかをメールでやりとりして、みんなに協力してもらって収束させます。
それはまあ、演劇のような、ドラマを作っていくのに似ています。


ご飯を食べさせない、というのは、「ご飯を食べさせるためにどうするか」がセットになって、しかも、それが「完全に遂行される」ということでなければ、ダメなんだと思うんです。
そういう、こっちサイドも張り詰めた雰囲気の中でやれなければ、やっぱダメなんじゃないか?と。

正直、すげえめんどくさいんです。
「話さない」なんてことを一度決めちゃうのは、本気でメンドウ。
だから、「そうならないように」ってのが、まずある。
でも、そうなってしまった場合、それを取り返す方法を必死に考えなければならない。
そして、それが前提にないと「もう話せないな…」は言い出せない。


ルールってのは、決めるのは簡単かもしれない。
けど、いやいや、市丸たち相手だったら、決めるのタイヘンなんだよ、という話で。
できればやりたくない。

でも、「ちょっと目に余るから、考えなきゃならないか」みたいなことで、「次回同じことがあったら、やらざるを得ないかもしれません」みたいなことは内部で了承した上で、やっぱやるんだよね、こういうの。

じゃないと、意味がない。
ただ食べさせない、んじゃ、意味がない。

そのルールを決めた上で食べさせるために、どうしたらいいか?
という解決策がそもそもなければならない。
それがあってじゃなきゃ、それはイジメじゃん、って話で。


ま、この辺は、記事からだけではわかりません。
単純に「こうしたルールを作るのがいけない」ということでなく、そのバックにある壮大な「ドラマづくり」を通して、本当にソレが出来るようになる道があったのかどうか?ということを、論議すべきだよな、と思った、という話でした。


だって、世の中にはルールがあるんだから。
それを教えなければならない。
道で裸になっちゃいけない。
それをどう伝えるか?

単純にルールを作るのがいけない、障害者がかわいそうだ、という論議じゃなく、その先を考えなきゃ。
こういう部分を「障害者がかわいそうじゃないか」って怒ってるわりに、道で障害者が裸になっていたら怒る、即刻逮捕だ、という一部の世論ってのは、やっぱ納得いきませんし。


逆に言えば、些末なことでアレ、ルールを決めるというのは、いや、ものすごくメンドクサイ、そして大変なことである、ってことです。
少なくとも一週間後に、必ずそのルールを守らせられる、という確信をどうもてるか?という意味で。










(BGM:月島きらりstarring 久住小春「こんにちぱ」fromYOUTUBE)
→どうでもいいんだけどね。
なんの感情も沸いてきません。
というか、そんな音楽って逆にすげえよな、というか。

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