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スーパーちんどん・さとう

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五段変速理論


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子どもの頃って、親に買ってもらった5段変速ギアの自転車とか自慢げに乗り回したりする時期があって。
ゴチャゴチャついているのがとても「カッコイイ」と思う時期、というか。

でも、そのうちそれに乗るのが恥ずかしくなる時期ってのがあるんだよね。

それはどっか、高校に入って、中卒で働いている人たちのニッカポッカ姿に多少憧れを抱く感じに似ている気がする。
つまり、なんで5段変速からママチャリに移行するかというと、それは「親の庇護」ということに対する嫌悪なんじゃなかろうかと思うんです。

お母さんに買ってもらったらしい感じ丸出しのハイネックとかの「いい服」をあまり着たくなくなったり。
女性だったら、お母さんが一方的に買ってきた下着に「ちょっとやだな」と思う時期があるというか。

親の庇護、から、一人の人間として、という段階にちょうど思春期というのがあって、いや、それはそういうのを思春期というのか。
そこで「なんとなく」親の庇護から逃れようとしたりします。

たいがい、そういう流れをたどって自我というのは形成されていくワケなんだと思うのですが。
ここで、親の庇護の力がものすごく強かった場合、その庇護から「出たいのに出れない」という状況が起きます。
それでも一般的には「親の庇護から抜け出したい」の方が強いですから、そこで大げんかになったりします。

クソババア的なコトですね。
売り言葉に買い言葉的な感じというか。

だんだんまあ、親の言うことより仲間の言うことの方が大事になっていく。
小学生の時はおじいちゃんの家に家族と帰省したりしても、中学になると「オレ部活だから」とか言って、一回まあ「帰りたがらない」という日々があったりします。

これ、面白いことに、ウチでもあって。
あ、ウチってのは虹の会の職員、例えばオレとか外口さんとかは子どもがいるわけですが、小学校の時とかは、虹の会のみんなで旅行に行こう、なんて時に必ず一緒に来てたんですよ。
まあ、海とか行きますし、海ナシ県だから、やっぱ行きたい。
行けば外口さんちの子もいるから、まあそこそこ楽しい。
でも、これ、一回中学に入ると来なくなる。
その頃はお盆に旅行に行っていたので、部活もないのだが、まあイチマルたちとも一緒だが、なんだかんだ親とも一緒。
もちろんイチマルたちもいるし、俺らにしてみれば半仕事半遊びですから、子どもにべったりと言うこともないんだけど、でもまあ来なくなるんだよね。

でも、それが復活するのが中3で。
きっと受験から逃れたいんだね、なんてこっちは笑ってたんですけど。
今は、ウチの子なんかは飲み会とかに現れたりします。
井上たちもよく知ってるので、まあすんなり入ってきますね。
今はもう彼らも働いていて、なんなら自分の子もいるわけですから、オレとしては「子どもが来た」って話じゃないんですが、でもまあ、そういう「流れ」ですね。

一度、必ず離れる時期がある、という。

つまりはまあ、5段変速からママチャリに移行するのは、仲間に対して、「親よりも仲間の方が大事です」という宣言をするような意味合い、というか、そういうイニシエーションでもあるわけです。
「何だよ、お前、親の方が大事なのかよ!」ということを言われるのは避けたいワケです。
これは、「そういうことを言う方が悪い」とか「イジメだ」とか言う前に、それが成長の道筋なんですよね。
もちろん、度を超したそういう言葉によるイジメを容認する気はないですが、そういう気持ちになる、仲間の方が大事、となっていくことは自然の流れではある、ということは抑えておきたい。
なぜなら、人は、動物は、親から生まれ、親の庇護の元にあって、そこからいつか離れて自分が親になるという流れを必ず踏むんですから。

で、そう考えると、知的障害の子たちの場合、「親の庇護から抜け出す意味」がなかったりするんですね。
それは仲間です。
親から離れて、仲間との関係の方が大事になっていく、というのが流れなんだけど、それがうまくいかない。
仲間がいないから。
それがなかなか彼らの場合は難しい。

で、まあその上親としたら、社会は子どもの障害を親の責任に押しつけたいですから、その圧力の前に「知的障害の子を守らなきゃ」ということになって、親の庇護は強大化してしまう傾向もあります。
となると、まず「自分の意見」ということよりも「親の意見」が先行するから、自分で考えなくてよくなります。

そもそも、仲間との付き合いというのはめんどうなことも多いわけです。
親なら何を言っても許されるけど、仲間に関しては、ヘタを打てば仲間から弾かれる。
けど、親の意見を第一にしてれば、それも免除される。
でも、それは「社会的自立」みたいなことから言うと逆行することになってしまう。
動物としての成長に逆行する形でもあるんです。

彼らは恐らく、自分で考えるチカラがないというより、そもそもその必要がなかったのかもしれない、と思うことがあります。
つまり、五段変速に乗って、それが楽しいと言っていれば、仲間は仲間には入れません。
五段変速から降りることが仲間に入るイニシエーションなのですから。
そして、親の庇護の元で、自分の意見を持たなくて済む。
なんなら、自分のトモダチ関係について、親が全てにおいて間に挟まっている、というような。
よく普通学級のドキュメントとかにありがちですけど。
親がものすごく頑張ってるアレ。
ま、それを友達と言うかどうかはかなり微妙だな、といつもそういうのを見て思うわけですけど。

この「楽だな」という気持ち、わかるんですよ。
わかるんだけど、正直、未来はないんです。
だって、親の方が先に死ぬから。
動物はそういうことを前提に成長の道筋が作られているんです。
DNAというのはそういうことなんです。

毎日の中で思うのは、この「五段変速から抜け出させてやる」というのがうまくいかないと、何もうまくいかないことが多い。
本人の「卒業したい」と、親の「卒業させたくない」と、本人の「その方が楽」が渾然としてしまって、その糸がほどけない場合ですね。

抜け出せさせられなかったこと、そしてそれをとても悔いていることもたくさんあります。
それが別れにつながってしまうこともあります。
力不足を感じる毎日。





akuse.jpg

(BGM:U2「The Fly」from「Achtung Baby」)
→ま、歌詞の和訳を見てみると、これはラブソングなのだろうか。
愛した男が悩み、みたいな感じからどんどんシュールになっていく。
こういう、部分部分でどうとでも取れる歌詞の作り方というのにはなんか憧れるところはある。
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感情はたいがい勝ち越す


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現場的には、「わからせようとしてもできないのではなかろうか」と思うことがよくある。

例えばカイが人を噛んだとして、「そんなことをしたら痛いからやっちゃダメだよ」ということを言ったとして、「わかる?」と言っても、わかんないんじゃないかな、という。
「わかる?」と聞けば「あう!」とは言うかもしれないが、多分わかってない。
だから、しつこく「わかる?」と聞くのって、どっか滑稽にも見える。

言葉を理解していないワケではないと思う。
思うが、「他人が痛い」ということを理解するのは難しいと思う。

人って、「考えがあって行動がある」と思いがちで。
確かにそういう面はあるのだけれど、逆に行動によって自分の考えがハッキリする、みたいなことも多いように思う。
それに、「こう思っていたのに、その通り(行動)出来なかったな」ということってのも多いと思うんです。

信念や思い、というモノより、その場の感情が勝つ、というか。
けっこう流されがちというか。
後々、「ああ、あの時もうちょっとがんばっておけばよかったかな」みたいな。

結局は責任感だったり、そういうものですよね。
それが勝てば信念の通りに行動できるが、それが負ければそのようには行動できない。
まあ「あの時は○○だったからしょうがなかったんだ」みたいに自分で自分を納得させる。

つまりは信念や思いと、その場の感情のせめぎ合いだと思うんだよね。
信念や思いをしっかりどんなときでも貫き通せればいいんでしょうけど、人はそういう風にはできてない、とオレは思ってて。
だから、「私はなんて弱いんだろう」とか、「みんなについていけない」とか、「思いがまだまだ浅いんだ」とかって思って悩んだりする。
あまつさえ、自分を責め始めてしまう。
自分を否定し始めてしまう。

こうなると、どんどん自分に自信がなくなっていく。
これもそれも、オレは「思いが行動の前にある」と思ってるからなんじゃないかなあ、と思うんです。
でも、そうじゃなくて、人って感情を持ってる生き物だから、どんなに「人を噛まないようにしよう」と思っても、その瞬間にどうしてもガマンできなくなって噛んじゃったりする生き物だと思うんです。

あ、いや、噛むのはよくないですよ決して。
だから、やっちゃいけないけど。
人を傷つけないことだったとして、でもやっちゃう、みたいな。

ホラ、よくあるのが、中学くらいの時に「オナニーすると頭が悪くなる」という言説とかを信じちゃって、「もうオナニーはしない!」と思うのにやっちゃう、みたいな。
でも、なんか人に相談できない、みたいな。
例えが適切かどうかはわからないけど、そういうことってのはあるわけじゃないですか。
だから、いくら「噛んじゃいけない」って言ったところで、やっぱ噛むんだよね。
中学の時のオナニーと同じだと思えばわかりやすい。
あ、わかりにくい人もいるかもしれないが、わかりやすいという人もいよう、ということで話を進めますが。

なので、なんか「わからせる」ってことがそんなに重要なことだとはオレにはあまり思えないところがあります。
というか、経験上できないんじゃないかと思います。

感情と信念のぶつかり合いだとしたら、感情が勝つ時もあればそうじゃない時もある。
くらいのことですよね、たぶん信念って。

ま、これがオナニーならどうでもいいんですが、人を噛む、となると止めなければならない。
だとしたら、感情が勝たないようにすればいいわけです。
でも、感情が勝たないようにする、ってことそのものも実は難しい。
オナニーは必ず毎晩しちゃうんだから、と考えればわかりやすい。
あ、わかりにくい人もいるかもしれないが、以下同文。

これね、でもその感情の中でも「これをやらなければならない」というような「こだわり」と言われることですね、コレに関してはある程度は止められるような気がしています。
10戦10勝のところ、10戦6勝、よければ10戦3勝くらいにまでは持って行けるような。

というのは、結局「こだわり」だったとしたら、なぜそれにこだわるか?って話になって、それは「それを完遂しなくては世界が破滅する」と思ってるから、ということが仮定できます。
「そうじゃないと落ち着かない」というヤツですね。
だから、その行為自体をなんとか止めて、「やらなくても世界は破滅しない」ということを繰り返し見せてやることで、こだわりをやらなくてもいいんだ、に持っていくという方法ですね。
「ホラね、世界は破滅しなかったろ?」と。
お前が鮭のおにぎりを買わずに、おかかのおにぎりを買ったとて、世界は破滅しないんだよ、と。
むしろ、今日買わなかったことで、みんなが驚いて「そうかー!なんかお前変わったな!」と喜んでさえくれているじゃないか、と。
なんなら、世界は温暖化や絶え間なく続く民族間の紛争とかで破滅するんだ、と。

というわけで、感情に負けがちなオレとしては(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-5735.html)、彼らに「わからせる」ってのが、なんかとてもじゃないけどできないし、オレみたいなもんがすべきことじゃないとも思います。






(BGM:オルゴールメロディー「15の夜」from「SWEET HEART OF ORGEL 尾崎豊作品集」)
→どこに需要があるかがよくわかんないんですけどねオルゴールシリーズ。
でもよく考えると、歯医者でよくかかってる気がする。
「落ち着いて」ってことなんだろうか。
だとしても、盗んだバイクで走り出していいのだろうか問題があるよな…。

ホントは学問やりたい


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35年前に大学で勉強したことを若い子に話そうと思って、いろいろ試行錯誤して話すわけだけれど。
社会運動とか、運動史とかの捉え方だったり、そういう基本的なことですね。
まあ、障害者運動の一翼を担っているわけですから、そういう基本的なことを知って欲しいということもあります。
過去の出来事やこういうことがあった、みたいなことだったら、まあ資料でいいわけだけど、それを「どう捉えるか」ということを伝えたい。
つまり、事象の捉え方、考え方、そういうことが学問、ということかと思うんだけど、それですね。

とはいえ、ゼミでやったのも35年前なら、論文を読んだのも35年ぶり。
うまく話せるんだろうか、という不安はすごくありまして。

一方で、学生の頃やっていたことをそのまま持ってきても意味がなくて、今の状況の中でどう捉えるか、ってのは、やっぱ違うわけです。
学生と実践者では、立ってる位置が違う。
だから、今のオレの言葉でいいよな、とは思っていたんですが。
今もまあオレの中ではその時に勉強したコトってのは生きていて、大事にもしてるんで、そこそこ「改めて勉強しなきゃならない」ことでもないというか。
今のオレの中にあることを話そうか、とは思って。

で、みんなに話す前にちょっとやってみたんです。
一人で。
そうすると、やっぱ抜けてるところというのがよくわかる。

学問というのは、実践とは違って、一つのボタンの掛け違いで違う結論になったりする。
実践はけっこう「まあまあ」で済んじゃうところが、そういかないところがあるというか。
加えて、35年前に、20年くらい前の論文を基にして勉強していたから、都合50年。
今の時代にはなかなか表現しにくいところもある。
いわゆる、学生運動が始まる前の、というか、学生運動とはあまり関係はないんだけど、その時代の障害児教育運動を基にしているので、今の若者にはアレルギーが出そうな言葉も出てくるんですよね。
民衆とか、人民、とか。
まあ、いわゆる政治的なコトを忌諱する世代のみなさんにどう伝えるか的な。
もちろんまあ、それは言葉の定義の問題だから、本来学問的には何の問題もないんだけど、実践者に話す場合に、そもそも学問そのものをやる場ではないから、まずそこも考えないではない。

とかなんとか。
コレを書いているのはみんなに話す前なので、うまくいったかどうかは今の時点では欠けませんけど、きっとうまくいくんだと思います。
まあ、そのくらい若い子を信用はしています。

でもね、今回自分で振り返ってみて、というか、なんか知らないけど、故藤井がオレの大学のゼミのレジメとか論文を持ってまして、じゃなければ、自分ではもう保管してないと思うんだけど、藤井に貸したりしたのかな、覚えてないけど。
で、それが藤井の遺品の片付けで出てきていたから、まあ見直せた感じなんですが。

それを見返していたらね、いやあ、面白いな、と思って。

学問って、机上の論理なんですよ。
だから、実践者にとっては「うっせえわ」ってこともないわけじゃない。

例えば、「目的と目標」というのがあって、まあ目標を「今回のことで達成されるべき地点」とし、目的をその先にある「行き先」だとしましょう。
簡単に言うと、にじ屋のことなんかは、「イチマルたちが社会の中で生きていけるために」ってのが目的として常にあるワケですよ。
そして、「今回のイベントではたくさんの人、50人くらいの人には参加して欲しい」とかって目標を立てたとしましょう。

その場合ね、ベクトルとしてはどっち向きだ?という。
目的←目標、なのか、目的→目標なのか。
ま、実践的にはどっちでもいい、って話もあるけれど、現実には50人を集めるための方法を論議し、実行しなければならないから。
でも、学問だと、この「ベクトルはどっちだ?」ということを論議したりするわけです。
そして、なんかそれがもっと実践を豊かに、もしかすると、もっと楽に進められるヒントになるかもしれないんだよな。
だからまあ、それを考える。

それって、もしかしたら答えは出ない感じもありますが、でも、そういうことを考えるのって面白いな、と思いまして。
考えるというか、それについて論議するというか。
そして、仮説だったとしてそうやって頭の中で整理したモノがあって毎日の実践をやるか、そういうのがなくてやるか、というのは大きく違うような気がして。

自分がいる位置を、薄ぼんやりでも、仮説でも理解すること、自分がどこに向かうかということをなんとなく認識すること、ってのは、それが正しい正しくないかは別として、とても重要な気がする。
ま、正しいか正しくないかというのは、そもそもが数学をやってるわけじゃないのでわからない部分が大きい。
でも、そういうことを「考える」ことが、なんか自分を楽にしてくれるとオレは思ってるし、くじけないでいられる要素なのかな、と思っている。

だから、たぶん本当はとてもみんなで学問をやりたいんだよな、オレ。
なかなか時間が取れない、ってのがネックでできないけど。






kimonoichi.jpg

(BGM:制服向上委員会「革命なんて知らない」from「戦争と平和」)
→語りが全て。
これは面白いなあ。
前に共演していただいた時とは今はもうメンバーも替わっているわけだけれど、どこかでまたご一緒させてもらえたら、と思ってる。

制限をかけること


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ま、正月休みの話ですけど。
カイはどうも実家で大暴れだったようで。
別居している親御さん二人を巻き込んで大騒ぎというか。

そもそもその前にお母さんからは「ちょっと長い帰省は無理だな…」という話は聞いてました。
なんで、何なら帰さなくてもいいですよ、という話はしたんです。
けど、どっかお母さんとしては「帰ってくるな、ってのもかわいそうな気がして」というようなコトらしく。

ま、なんで大暴れがわかったかというと、そもそもが途中で外口に電話があったりもして、行きましょうか?みたいな話になったりもしてましたし、コロナのことがあって、感染予防の約束を書いた紙(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-5781.html)の余白に、お母さんのメモがあったからですね。

それをまあ読んでみますと、結局まあ大暴れしたカイの言うとおりにはなってるんですよね。
なってるんだけど、それでもカイは収まってないわけです。
次から次へと親に無理難題を押しつけていく感じ。
しかもそれが「本当に彼がやりたいことなのか?」というのがちょっとよくわからない。

つまり、カイは混乱しているんではないだろうか?という推測が成り立つんですね。

というのは、これね、まあ我々が行けば収まるのはわかっている。
オレでも外口でも迎えに行けば、たぶんすんなり戻る。
俺が行けば、なんなら玄関でチューまでするだろう。
コレまでの経験上、そうなる。

つまりですね、これ、「ダメなことはダメ」ってなってないから、カイとしては混乱してるのではないか?ということなんですよ。
大暴れしようと何をしようと、ダメなことはダメ。
それを通してやらないと、彼は「何をしていいのか」「何をしてはダメなのか」がわからない。
わからないから混乱する。
混乱して結局は大暴れの元を作る、その繰り返し、という推理ですね。

けっこう、こっちでは彼の行動は制限されるところがあります。
制限といっても、例えば「万引きはダメ」とか、「ご飯を食べ終わったらごちそうさまを必ず言う」とかそういうことですけど。
その当たり前のことを繰り返し「それはダメ」「それはしなきゃダメ」みたいなことをやっているので、彼としては、「それを守っていれば落ち着いて暮らすことが出来る」ということになる。
けれども、その軸がぶれちゃうと、彼は何をしていいのかがよくわからなくなってしまう。
そこをぶらさない、というのが大事で。
繰り返し繰り返し、ってのも大事なんだけど。

一度ではなかなか彼には入っていきませんから。

なんでまあ、こっちにいても、いまだにコンビニで万引きしたり、そういうことはしちゃうんです。
しちゃうんだけど、まあ、なんとか止める。
そういうことを繰り返して行く必要があると思っています。
もちろん、万引きは犯罪ですから、してはいけない。
だけれど、彼にはそういう認識がないわけで、もう「ダメ」を言い続けるしかない。

それでも、たった二三日の実家での大暴れのようなことは少なくともこっちではないわけで、彼の中の何かのスイッチが入ってしまうのかなんなのか。
そこは、彼はしゃべってくれないのでよくわからないけれど。

彼は確かに生きづらい人だと思う。
でも、どっか「真人間になりたい」という感じはあるような気がする。
「何をしてもいい」とかって思ってるわけじゃないんじゃないか、というか。
むしろ、「真人間にしてくれ」と言ってるような気さえする。

「実家に帰ってくるなというのはかわいそうな気がして」というのは、まあわかる。
わかるけれど、どっかそれは親自身の問題であって、彼の問題じゃないのかもしれない。
コレを書いているのは彼が実家から戻ってきた翌日なんだけど、昨日の朝帰ってきて、その夜の泊まりのTAROさんの報告によれば、「実家で好き放題してたというから、かなり警戒していたんですが、至って普通でした」とのことで。
彼としては、実家で大暴れするのが親への礼儀だと思っているのか、いや、そんな礼儀ないぞ、と思いますけど。

誰でも子どもにはのびのびしていて欲しい。
だけれど、軸をしっかり持っていないと、伸びてはいけない、ってこともあるんだよね。
「●●したい」ってことを単にやらせていることがのびのびなのか?というと、ちょっとそれは違うような気がして。
カイが親元を離れることになったのは、ある事件がきっかけなんだけど、その「●●したい」が無尽蔵に伸び過ぎちゃって、行き着くところまで行ってしまって、事件を起こした、という感じもしていて。

彼らの行動に制限をかけるのは、かわいそうだ、というのはとてもよくわかる。
余計な制限はしてはならないとも思う。
けれども、人として最低限の部分については、きっちりやらせなきゃいけないとは思う。
それを拡大していって、本当にしたいことをさせないのはどうかとは思うが、そういう最低限の約束事をシンプルにわかりやすく、簡単にして繰り返す、ってことは必要なんだろうな、と思っています。




kimonoichi.jpg

(BGM:奥井雅美「そうだ、ぜったい。」from「Ma-KING」)
→テレビアニメの曲とかを歌ってる人なんですね。
まったくもってその感じ。
この感じってのはどっからなんだろうな。
天才バカボンとかはこうじゃなかったじゃない。

付き添い?


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この前、井上たちと大人数で飲むのは難しい、みたいなことを書いたんだけど(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-5748.html)、少人数は少人数でまた違うひっかかりというか、難しい部分がありまして、今回はそれを書こうと思うのですが。

よく、市丸とプロレスを見に行くとかってことがあって。
飲みに行く、もありますね。
ミツがザキを誘って飲みに行く、とか。

ま、遊びです。
遊びです、ということなんだけど、冷静に考えてみると、なかなかこれが難しい。

というのは、ミツに誘われて飲みに行ったとします。
ちょっとミツだけだと話が変わってくる感じもあるので、例えばミツが「オグラと市丸を誘って飲みに行くんだけど、ザキも来ない?」と誘ってきたとします。
で、じゃあ行きましょう、となったとします。

ま、遊びですから、って前提で言うと、途中で気分悪くなって帰るとか、途中でケンカして帰るとか、そういうのが出来る前提、ってコトになると思うんですが。
でも、そのメンバーだとそれが難しくなる。

ここが徹底的に「遊び」と違う点なんだよな。

かといって、遊びではなく「付き添い」で行くのか?ということになると、これはまた違和感がある。
そもそもミツは「付き添ってください」と言ってるわけじゃない。
他の人を誘ったのではなく、ザキと一緒に飲みたいから誘ったワケだから。

こうなってくると、「遊び」ということはとても難しいということになります。

いや、そもそもその辺の線引きってのはないのかもしれない。
飲みに行くと行っても、自分の主催の飲み会、お付き合いで付き合う飲み会、自分も楽しもうとやる気満々の飲み会、まあいろいろあるわけで。
でも、だからこそ、「お付き合い」だから「ちょっと今日はコレがコレなもんで、早めにドロンさせてもらいます」みたいなことも出来なきゃならないってところもあって。

だから、この「付き添いなのか遊びなのか」というのは、ひじょうに難しい問題ではあるんです。
落とし所としては、気持ちは遊びで行きたい、でも、付き添いでもある、という感じになっていくんだけど。

そういうゴチャッとした感じというのはまあ、悪くはないと思うんですが。
でも、俺たちはやっぱそれで金をもらってるから、このことを「理解しておくこと」は大事だと思うんだよね。
単純に「知的障害者と飲んでるぜイエ~イ」では済まない(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-5742.html)というか。
結果としては、ゴチャッとしてるけど、「そういう問題もある」と認識しておくことが大事というか。

まあ、そもそもミツもこの場合で言えばザキを「頼りにしている」。
会計でもめるかもしれない。
わかんないことが出てくるかもしれない。
市丸とオグラがケンカを始めるかもしれない、で、自分の手に負えなくなるかもしれない。

つまり、もちろんザキと飲みに行きたいのだろうが、同時に「保険」の意味合いもある。

もちろん、彼らだけで、つまり我々の関係ないところで飲みに行ったりすることもある。
ミツと井上なんかはよく飲みにも行ってるらしい。
ま、それはそれだ。
別にそれこそ普通に飲みに行ったらいい。

けれども、彼らにとって初めての店だったり、メンバーがちょっといまいち「難しい」感じだった場合、やっぱミツとしては保険をかけたい。
で、この例で言うと、ザキがその保険であったということになる。

そういう意味ではやっぱ全面的に遊び、とは言いにくい部分がある。
ザキは「付き添い」としてミツに選ばれている、という面もあるのだから。

しかしよく考えてみると、ミツたちにしてみると、やっぱり「心配」はある。
初めての場所ならなおさらだし、メンバーによってはトラブルを回避しなければならないかもしれない。
そして、けっこう彼らは無茶はしない。
知的障害者だからワケもわからずにやりたいことに突っ走る、と思ってる人がいるならそれは一面ではあってるが、大部分では間違っている。
井上なんかを見てると、彼らはとても臆病で、「うまくいかないのではないか」という思いをいつも持っている。
そうすると、なかなか新しいことには手が出せないということになる。

逆に言えば、そういう「付き添い」のような人さえいれば、彼らの世界は抜群に広がっていく。
そして、それが何度か続けば、彼らはその場所に慣れていく。
経験上、そうしたら付き添いはいらなくなっていく可能性が高い。

だから、彼らの世界を広げること、いわゆる行政の言う「社会的自立の促進」という観点で言えば、この「付き添い」はとても大事であると言える。
実際に彼らの世界を広げる最前線であるとも言える。

それでいて、もちろんいわゆる「指導員」として行くわけでもない、一緒に飲んで騒いだりもしよう。
その中で、飲み会のルールや、飲み会でのエチケット的なことも伝えていける。
もちろん、冒頭に書いたように、酔っ払ったからといって先に帰ることはできないだろうが、その上で「一緒に飲みに行った仲間」という線もきっちりやってく。

なかなか難しいところだが、こうした毎日を繰り返すことが、彼らの世界を広げていくことになるんだな、と思っている。







biihnnma.jpg
daihoushutu_20211113163715d68.jpg

(BGM:Dionne Warwick「Whisper in the dark」from「the best of Dionne Warwick」)
→こういうの、なんか90年代くらいに流行ったようなきがする。
そもそも英語だと何歌ってるかわからないから、なんだか退屈に聞こえたなこの辺のあれは。
完成されすぎてるんだよな…。

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