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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
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kaijosha.jpg



これまで、台風だ、大雪だ、といっても、にじ屋とかを休みにしたことはありませんでした。
だから、井上達も休みになったことはありません。

まず、これ、大枠で見たら、あまりほめられた対応ではないと思います。
だって、台風だけどやる!仕事だ!みたいなことってのは、どっかやっぱブラック企業のようで、正しい方向性とは言えません。

けれども、世の中がまずもってブラック方向であった、というか、今もそうだけど、そういうのがあって、その流れの中で、「障害者だけは休んでいい」というのは、どうにも納得が出来なかった、というのがあります。

そもそも、井上達は、自分たちのことを「健体者よりも劣る人間だ」と思っています。
ま、それは計算が出来ない、漢字が読めない、わけですから、その部分では確かに劣ってはいるのでしょう。
ただ、人間としてどうか?ということについてはまた論が違うわけだし、例えば「にじ屋のやり方」についてだって、それを知らない人と彼らだったら、彼らの方がよくわかってるわけです。
毎日やってるわけだから。

でも、それでも、彼らはにじ屋のやり方の何も知らない健体者にすら従ってしまうところがある。
後になって、「それ、いつもやってるじゃない。なんでそのことをその時に言わなかったの?」と聞いても、そうだよねえ、という苦笑いが返ってくる、みたいな。

つまりはまあ、そういう「感じ」が普段からある。
これについては、とても俺は忸怩たる思いがある。
でもまあ、そうやって彼らは生きてきたし、それが処世術なんだろう、とも思う。
それが更に俺を悔しくさせる。

この中で、ブラック華やかなる世の中で、「君たち休みでいい」、つまりそれは彼らには「障害者だから休んでいい」と聞こえるわけですが、それは、ちょっとやっぱり言えなかったところがあります。
「世の中まあ頑張ってるんだから、俺たちも頑張って開店しよう」みたいな。
そういう風な方向にありました。

けどまあ、本来のことを考えれば、それは正しくはないわけですよ。
そんなことも百も承知ではあったんだけど。
でも、井上達の「大人としての誇り」というのを、まあそんな形で、ある意味歪んではいるんですけど、尊重しよう、と思った部分がありました。

我々のレパートリーで、「聞け万国の労働者」があります。
トラディッショナルな労働歌ですが、替え歌にしています。
その中に、「(俺たちも)派遣切りにあってみたい」という歌詞があります。
これは、派遣でも雇われない、いや、そもそも雇われない、という現実を皮肉ったつもりなんですけど、この感覚は、確かに間違ってはいるとは思うけれど、でも、肌感覚としては彼らの中にあるんです。

「俺だって大人なのに」「俺だって客なのに」「俺だって働けるのに」という思いは、あちこちで彼らの中に澱のようにたまっている。
子ども扱いされる、そもそも存在がないモノにされる、という現実。
それを何度も何度もされていけば、オグラがここに来た時のように廃人になって、自分から「子ども扱いされる」ように行動するようになっていきます。
存在を消すようになっていく。

けれども、井上達には、「そうじゃない」と言い続けてきました。
だから、井上やミツなんかはそういう世の中への反発がすごく大きくあります。
「俺だって大人なんだ」という彼らの思いを、どうやって潰さないか、ということだけを俺たちは考えてきた、それをどうやって尊重してやるか、ということだけを考えて来たと言っても過言ではない。
ここを外してしまうと、彼らは「廃人」になってしまう。
それは、多くの作業所や施設をみてきて思っていました。

だから、こっちは親から連絡があってわかっていても知らんぷりもしてきたし、「本来俺が知らないはずのこと」は、知らないふりを押し通してきました。
そういう演技をするのも、彼らのそれをツブしたくないからです。
そのことがまず第一義だから。
そうしないと、彼らは自分の人生に希望が持てなくなる。
自分の知らないところで、親と職員が連絡取り合って自分の予定が決まるような、幼稚園のママの人生がこれからもずっと続くと思ったら、そりゃ、人は腐ります。
この台風だとか大雪だとかにおいての「休み」の問題もこの流れの中にありました。

けど、今回、史上最大級の台風、ということもありましたが、「自宅待機」ということにしました。
「携帯はいつでも出れるように」ということにして。

とはいえ、実際にはみんな近くに住んでいたりするし、そうしなくてもよかったのかもしれないけど、なんか、「もうこの肩肘を張った感じをやらなくても、井上達は大丈夫だな」という思いもあったんです。

つまり、やっと正常に戻ったかな、という。
ま、そうなるに至る状況としては、「つらい時は休む」、「頑張るだけがのうじゃない」、というような雰囲気が生まれつつあることもあります。
今のにじ屋、ネットの目標は、「頑張ってラクをする」ですからね。
なかなかイイと思ってるんだけど。

そんなこともあって、今は先の「聞け万国の労働者」は歌わなくなりました。

無茶をすることが大人、自分を殺すのが大人。
確かにそういう風に生きていかねば食うにも困るのが今の日本の状況かと思います。

けれども、俺たちは一歩抜けよう、と。
そして、多くのみんなにも、「もっともっとラクしよう」と言いたいし、俺たちがその先頭で世の中変えちゃる、みたいな感じになりつつある。

こう変わってきたのにはいろいろ要因はあるけれど割愛するけど、でも、俺たちが目指すのは、市丸が生きやすい世の中、ってコトでしょ。
それって、俺たちだけがパラダイスじゃダメなんだよね。
世の中がそうなってくれないと。
そして、そういう風に世の中を変えるのが俺たちの仕事なんだよね。

その本質に、やっとたどり着けた、というか。
そんな気がしています。





wannmannblog.jpg

(BGM:れいわ新選組 山本太郎 with people「山本太郎、愛を叫ぶ」from「憂国烈士の宴 其の弐」)
→これは、山本太郎さんの演説というか、スピーチに音を重ねたトラック。
重ねたといっても、聞きにくくしてるのではなく、あくまで山本太郎さんの話を聞きやすくするための重ねている、です。
全編入っているので、13分弱あります。
これ聞くと、ホント「普通のことしか言ってない」のよね、彼。
WITH PEOPLE、というのもいいし、そもそもアルバムタイトルに沿ったトラックだと思う。
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いいわけを考えるムダ


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義理の弟は、なかなかの腕のあるなんとか療法士さんで、たくさんのお客さんもついていて、海外でもその腕を買われて講演会などを行うなど大活躍の日々を送っているんですけど。
で、まあ数年前だったか独立したんですね。
都内の中心地に大きなところを借りて開業、というか、やっています。

その彼と先だって会った時に、「よく独立しようと思ったね」という話をしてたんだけど。
俺だったらなんかできないなあ、というか。
そこまで自信もない、というか。
でもまあ、彼は腕に自信があったんだと思うし、すばらしい技術を持っているからこそそう決断したんだと思うんですけど。

その彼が、「独立してまずよかったのは、いいわけを考えなくてよくなったことですね」と言っていて。

つまりどういうことかというと、ボスがいるとしますと、例えば今月施術に来た人が少なかったとします。
講演会の依頼も少なかった、と。
そういう場合に、やっぱ「なんでそうなったか」の「いいわけ」を考えなきゃならない、って。
今は、自分が自分でやってるから、営業が足らないと思ったら営業やるし、そういう風にまあ自分で判断してやれるからラクだ、と。

なるほど、と思いました。

結局、まあ「なんで客足が減ったか」というのは、いくら考えても結果としては客側の問題だし、もちろん、こちらに問題があればそれは改善する。
例えば、先に書いたように営業が足らなかったかもしれない、とか。

でも、まあ反省ってのは、「次になにをやるか」と常にセットであるわけですよね。
反省→次の行動、ということですから。
そのための反省であって。

とはいえ、次の行動、つまり自分のやれること、ってのは限られているんですよね。
自分がやりたいコト、と言い換えてもイイ。
でも、「反省を山ほど出すのがイイこと」のような雰囲気ってのが世の中にはあって。
その反省を「ひねり出す」っていう行動ほどムダなことはないわけです。
だって、次に自分がやれることはそんなにひねり出すほどたくさんはないんだから。
それにだんだん反省は、その場しのぎのいいわけになっていく。

とりあえず、次は●●をやる、と決めれば、もうそれを一生懸命やるしかない。
で、それでダメなら、△△をやるしかない、という風になっていくのが、まあ自分が最も納得する進め方なのかな、と思います。

若い人の中には、よくいいわけを言ったりする人がいて。
ウチではあまりそれを推奨していない雰囲気を作ってることもあるからか、そんなにはないんだけど。
他のところを経験した人は、ベテランになんか言われると、みんなとりあえずその場しのぎのイイワケする、と。
もちろん、ベテランに歯向かうための一石ならどんどんやるべきだと思うんだけど、それはちょっと「いいわけ」という範疇とは違うかと思います。

ウチの若い子たちも、どんどん反論はして欲しいと思うんですよね。
だから、いいわけも、その場をしのぐためのことじゃなかったら、どんどんしてもらってもイイと思うんだけど。


まあこの話を聞いていろいろ反省したところがありました。

例えば若い子に「そのやり方は違う」と言う場合、「なんでそんなやり方をしたの?」という聞き方をすれば、やっぱ「だって云々」という風に答えが返ってきます。
確かに、コッチとしては「どういう考えでそういうことをしたのか?」というのを聞きたいところはあるんですよね。
そしたら、歩み寄れる部分があるかもしれないし、細かく「そこの考え方が違うんだ、そこをこう考えたらどうかな」という風になるかも知れない。

でも、まあこれなかなか難しいんだよね。
やっぱ、「なんでそんなやり方を云々」というのは、若い子にしてみれば、こっちが責めるための何かを探しているようにしか見えないんだろうな。

だからまあ、俺はあまり何も聞くことなく俺の考えを言うようにしてるんだけど。
「俺は●●した方がイイと思う。なぜなら云々」ということですね。
結局、その考えを聞いてもらって、どう本人がそれを取り込んで判断するか、行動するか、というのはもうその本人に任せるしかない、というか。
それが俺と違う考えだったとしても、まあしょうがないんだよね。
行動をあまりジャッヂしちゃいけないんだろうな、というか。

やっぱ、俺みたいに、何もなかったところからやってきた人と、今来た若い子が同じような考えに至るわけがないんですよね。
それはどっちが偉いというのではなく、ゼロを一にすることと、一を二にすることは、進歩の度合いは一緒だけど、決定的に中身が違うんだから。
中身が違う事を「同じ考えでやれ」というのはやっぱ無理がある。


ああ、ダメだなあ、と思うことは確かにたくさんある。
なんでこんなコトを考えないのだろう、行動しないだろう、という思いは確かに下の子に対してあります。
けど、「なんでやらないの?」は馬鹿馬鹿しいんだよね、きっと。
やらないことに意味なんかないだろうし、いや、あるならそれはそれでいいけど、備品を整理しておく、みたいなコトに関しては意味はないだろうし。
いいわけを考えさせるくらいなら、何も言わない方がイイ。

でも、何かがあった時に、効果的に伝わるだろうな、という時に、やっぱきちんと俺の考えを伝える場面は作った方がいいな、とも思っていて。

まあ難しいよね、って話。







wannmannblog.jpg

(BGM:モンド・ボンゴ・ジャパン「チャイニーズ・キング・ロブスター」from「ZKサンプラーズ」)
→どういう人たちなのか、いかしてるなこれは。
曲名もいい。

悔しい話 ② (ラスト)


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http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4896.htmlのつづきとして


たいがいの場合、中学で部活が始まったりすると夏休みも忙しくなって、「ばあちゃんちはいかないよ」ということになっていきます。

小学校までの家族の「慣例」というのは、確かに市丸たちと普通学級に通っていた子も同じだと思います。
それに縛られる感覚も同じだと思います。

ただ、そこに半強制的な「部活」というのが入ってくることによって、多くの学校の仲間の意識、というか雰囲気が、「親や家族との行動」よりも、「(学校の)仲間との行動」の方が重要だ、という風に動いていきます。
確かに、ブラック部活という言葉があるように、先生方の勤務とかのことに関しては問題だと思います。
が、ここではそれは置いておいて、具体的にこの「半強制的」なモノがはいってくることによって、「意識が変わりやすい状況になった」というのは、現実的にあると思います。


よく俺は市丸たちをして「彼らにはクソババア!というタイミングがなかなかない」という話をします。
これは、いわゆる「親離れのタイミング」ということなんですが。

よくまあ「親離れ」と言いますけど、単に「離れる」だけじゃなくて、親以外の友だちや仲間の方に「くっつく」ということなわけです。
単純に親から離れ、仲間とも幼稚園の時のママ、というわけじゃない。
つまり、彼らの「付き合いの範囲」「付き合いの比重」が変わる、ということなわけです。
それを「親離れ」という言葉で言ってるわけです。

で、この「クソババア!」を出すタイミングとして、部活が大きなトリガーになっているというのは俺は事実だな、と思います。

もちろん、動物は親から生まれ、親になっていく過程が人間の成長、いや、動物の成長なわけですが、DNAの指示といってもいいかな、その中で、子が親から離れて独立する、という時は必ず来ます。
来るには来るんだけど、その時って、簡単に言うと子どもの方でも勇気が要るわけです。

子どもが大人になる、というのは、「守られない」ということでもあって、そこに踏み出すのはとても勇気が要る。
これは市丸たちだけじゃなくて、誰しもそうだと思います。
だからこそ、この部活という「半強制的なモノ」は、ある程度の勇気の「後ろ盾」となり得るんじゃないかな、と。


蛇足①
あ、いや、なにも部活至上主義とか言うコトを言いたいんじゃないですよ。
現実的にそうだ、ということを言ってるだけで。
俺自身も高2以降部活やってませんし。
そんなに部活至上主義な人ではありません。
サッカーもマジメにやってたわけでもない。

蛇足②
先に、親離れとは、親よりも仲間の比重が高くなること、と書きましたが、つまり親子の関係は一生変わらないわけですよね。
親は子がどんなに大きくなっても心配だし、何かあれば世話を焼きます。
そういうことを否定するモノのように「親離れ」という言葉を理解する人がいますが、そうじゃなくて、比重が変わる、と捕らえたらいいんじゃないか、ということを言いたい。


話戻しまして。
先に書いたように、しかし、親から離れていく、すなわち仲間との比重が大きくなっていくのは、動物のDNAとしては、まあ仕組まれているプログラムではあるわけです。
けれども、それをするためには先に書いたように勇気が要る。

同時に、子が知的障害者だったりすると、親の方にも勇気が要る。

これまで、子どもが付き合ってる人のことはだいたいわかっていた。
いや、全てわかっていた、といっていいと思います、彼らの親御さんの場合。
しかも、その親まで知っていた、ということが多いでしょう。
けど、親の知らない人と付き合うようになる、という過程がここに入ってきます。
そちらの比重が高くなっていく、ということですね。

そのことに対する不安、みたいなモノもたくさんあるんだと思います。
平易な言葉で言うと「悪い人にだまされてるんじゃないか」とか。
ま、それだけじゃないですけど。
「ご迷惑かけてるんじゃないか」みたいな。

でもまあ、ご迷惑も含めて「仲間」なわけですね。
悪い人にだまされるという経験もあって悪いわけじゃない。
いや、ない方がイイし、取り返しがつかないこともあるのでその辺は難しいですが、しかし、そこを怖がっていたら、やっぱ親の範囲から子どもを出さないことが一番簡単な方法になってしまい、動物としての本能がくじけます。

そうなると、おそらく無気力にもなるでしょうし、希望も持てない。
そうなれば、学びたいという欲求もなくなるし、知ろうという気持ちも持てなくなる。

二次障害、なんて言葉がありますけど、色々な文献を読んでみると、「そもそもこの子自信が人生に希望を持ててないんじゃないか?」という例もたくさんあって、つまり、それを「障害」という機能的なモノに帰してしまうのはあまりにかわいそうじゃないか?という気持ちになることも多いんですね。

つまり先の論理で言えば、動物としての本能が削がれている状態、というか。


確かに、色々な状況で、親も子も「勇気が出ない」。
その状況が、また「この子は知的障害だからしょうがない」という風に言われてしまう一因だとしたら、それはなんかちょっと変えていくことができるんじゃないかな、と思うワケです。







baka.jpg

(BGM:加藤賢崇「宇宙フーテン旅行」from「若さ、ひとりじめ +10」)
→凄味がない人。
でもそれがウリなのよね、なんてったって「若さひとりじめ!」。
テクノなのかしら、この曲はなんか最も彼にフィットしてる感じがする。

悔しい話 ①


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市丸たちはそれぞれ違うわけで、なかなかに一つの理屈に押し込めることは難しい。
例えば、「自閉症だから●●」みたいなことはあまり役には立たない。
というか、それわかっても、対処法はないわけだからそもそも意味いもないけど。
こっちサイドがわかった気になるために分類したいだけなんじゃないか、と思えてならないところもある。

と、まあそれはそうなんだが、でも時に、そういう教科書に載ってることではなく、「共通すること」というのがあったりする。
これは経験値だし、正確なデーターを取ったわけではないので、あまり大声で言うのも憚られるのだが、まあ「ああ、そりゃ●●だからな」というのは我々の中にはいくつかあったりもする。

その中の一つについてちょっと書いていこうと思うんだけど。
それは「親の言うことは絶対」というもの。
例えば、こっちで暮らしていたとして、普段はまったく親とは接点がなかったとしても、親が「●●があるから帰ってこい」というと、なにがあっても返事はイエス、となる、という法則です。

別にこれは帰りたいとかそういうことではなく、井上なんかは認識が高いんだけど、彼なんかは「なんでかわからないがわかったって言っちゃう」となる。
まあ、普段はお盆とかでも「親のために実家に帰りなよ」という感じだから、そもそも帰りたいとかそういう話ではない。

とにかく親の命令には従ってしまう、という法則ね。


これ、いくつか考えられることがあります。
順を追って説明しますと、こんな感じです。

そもそも親とあまり一緒にいない。
そうなると、実家に帰ったりすると、実家にいたときのクセが思いっきり出たりするんです。
市丸だったら、爪がなくなるほど(ホントになくなる)爪を食う、とか。
こっちではちょっと治まっていたモノが、実家に帰ると、実家にいたときのモードになる、ということですね。
たぶん、親子関係は変わってないンだと思います。
いや、変わってはいるんだけど、実際離れて暮らしている、という風に変わってるわけですが、その状況に戻ることによって、「昔の感じが甦る」というのが正しいか。

それでもまあ、市丸なんかはずいぶん今実家に帰っても落ち着いているみたいだから、全てが全て戻っちゃうわけじゃないんだけど、我々からすると、まあ多少は戻るわな、みたいな。
これは親と一緒にいる時間が空いている分、そりゃ変わるけど、戻る部分もある、と理解して欲しいんだけど。

で、なにもなければ、親も「実家に帰ってきた息子」という風に付き合ってくれるだろうから、彼らも「実家に帰ってきた息子」として振る舞えるんだけど、それが例えば電話で「●●に行くから帰ってこい」みたいな話になると、それは子どもの頃の「親子関係」に戻っちゃうわけです。

そもそも彼らは、自分の予定について、自分より親が知ってる、という人生を歩んできたわけです。
学校で行事がある、といっても手紙で親が先に知ってる。
準備するモノも、親が知っている、ということですね。
これはまあ、学校時代は誰だってそうなんですけど、
障害云々じゃなくて。

でも、そのまま特に他の作業所にいた連中は、作業所で同じようなことをされてきてるから、まあ小学校のママなんですね。
どっかに行くとなって、そういう予定も親が知ってる。
逆に言えば、親が知らない行事はないし、親が知らない自分の予定はないんです。
付き合う人、一緒に行く人も、全員親が知っている。
そういう状況なワケです。

だから、親がいうことが全てなんですね。

最初、市丸が実家にいたとき、ストリップに行けなかった顛末は前に書いたかどうか、テレビでも話したかな?オンエアされたっけ?、まあ、親にはもちろんストリップ云々なんて言ってなかったから、彼は休みの日だったんだけど、家を出れなかったわけ。
でも、ホントは来たかった。
電話したら、混乱してる市丸がいました。
親は行けともなにも言ってない、でも、ストリップには行きたかったし、約束もしてた。
そういう状況で、彼は出れなかった。
でも大混乱はしてました。
「親が言わないから出れない」ということで、逆を言えば、「親が言うから行く」なんですけど。

ま、でもこれは想定内で、そういう「ストリップ」という彼の一番楽しみにしてることでその辺を経験させよう、と思った結果だったので、大成功。
次からは彼は来れるようになって、まあそこから市丸は変わってきたんだけど。

でもまあ、とはいえ、その感じはやっぱ変わらないんですよね。
「親が何でも知ってる」「親が言わないと出れない」というのは、なかなか手強い。


先日、いろいろあって、とある親から電話があって、家の用事で帰ってこい、となって、しかしその日はけっこう重要なことがあったんです。
でもまあ、彼は「はい」ってなっちゃうんだな。
その後、まあ「どうしようどうしよう」となったりもするけど、でもまあ従う。

本来だったら、自分の普段の生活の中で大事なことがあれば、それは天秤にかけるわけだけれど、それが出来ない。
一気に小学校の遠足に戻ってしまう。

まあ、それはそれでいいとしまして、というかしょうがないんで。


でも、俺が辛いのは、彼らが親に「どれだけ大事な用事があるか」を伝えられないことですね。
親もそこは先回りしては聞いてくれない。
というか、用事があるわけですから、そりゃそうともいえます。
つまり、まあそういう時は、親子関係自体が一気に「親が何でも知ってる」にお互いに戻っちゃってるのかもしれません。

その中で、その「大事な用」を彼らはすっぽかす結果になります。
その時、「まあ、知的障害者だから仕方ないよね」という風に、やっぱ見られちゃうんですよね。
どう考えても、普通の仕事してる人だったらそこは親の言ってること断るだろ?みたいなことでも、「知的障害者だからしょうがないよね」と。

俺は、それが悔しくてならないんです。


つづきます





baka.jpg

(BGM:きどりっこ「桃色金魚」from「キング・ソングス・オブ・キャプテンレコード」)
→こういうなんだろう、不思議系な感じの女性ボーカルって、戸川さんからなのかどうなのか。
当時けっこう流行ってた。
歌の上手さで勝負しない、となると、残るはセンスの問題になるわけだが、これは歌詞もなんだかひっかかるし、面白いと思う。
当時はまったく聞かなかったけど、こういう風にコンピレーションで出してくれるのはありがたい。

「タノシカッタ」ではなく、表情で


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表情が物語る、ということがあります。
いくら「楽しかったです」と言ったところで、表情が真っ暗だったら全然それは説得力を持たないわけで。

よく他の作業所から来たばかりの連中、他の作業所の連中が来たりしますが、最後に感想を聞くとかならず「楽しかったです」と言います。
ま、これは感想が出ない彼らに対して、親や教師なんかが教えた処世術だと思います。
つまり、「楽しかった」ということ自体がなにかわかってないのかもしれないけど、とりあえず「タノシカッタ」と発音する、という「決まり」ですね。

ま、感想というのはそもそも抽象的で内面的で主観的で、そんなものを言葉にするのはなおさら難しい。
だから、まあ「楽しかった」ということを言っておけばまあ間違いはあるまい、相手を不快にすることもなかろう、というのは間違ってないと思います。

ただ、まあウチの場合は基本「楽しかった」は禁句になっています。
感想を求められて、楽しかった、は禁句。
とはいえ、まあ「昨日のプロレス楽しかったですね!」みたいな彼らからの自発的な会話はもちろんあります。
それはおそらく彼らから出た言葉だと思うので、それはそれでいいんです。
ただ、なんかあるじゃないですか、イベントの最後とかに感想を言う、みたいな流れ。
そこでの「楽しかったです」は、「別の言葉で言ってごらん」という風に言っています。

まかりなりにもイベントに参加したという一日を、機械的な「楽しかったです」で誤魔化してしまうのではなく、できれば他の言葉を探してほしい、と思うからです。

といっても、もちろんそもそもモトミ先輩やカイなんかに何かをしゃべらせること自体が難しいわけですから、それはそれでイイと思うんですけど。
でも、彼らの場合、言葉はなくても「表情があるじゃないか」と思うのです。
いや、言葉のない彼らだけじゃなく、他の連中、認識が高いと言われている井上だったりも「表情が物語ることもあるじゃないか」と思います。

そういう表情を通して、我々は「あ、これはコイツは理解できてないな」とか、「別の言い方をしないとわかってもらえないかな」と思うワケです。


注意や、例えば社会のルールを教える時に、それは「言えばいい」ということではなく、実際にそれを守ってもらわないと困るわけですね。
例えば、出かけるのだったらお金を持っていかなきゃ行けないし、その金額だってちゃんと必要分を持たなければならない。
人と待ち合わせをしたら、遅れてはいけない。
遅れそうなら電話する、とか。
もっと言うと、「人を噛んじゃダメ」とか。

先の「タノシカッタデス」という発音と同じことを我々がしてしまっては話が進まない。
これは「言いましたからね」というアリバイではないわけです。
もっと言うと、こちらがそれを「言ったんですが、わかってもらえてないことを私がわかってませんでした」というのだって、俺はなり立たないと思います。
それはこれで金をもらってるプロの仕事ではないと思うからです。

が、実際は、「わかってないな」とは思っても、どうしたらわかってもらえるか?の手立てがなかなかみつからないことの方が多いわけですが。
でも、それを探し続ける、というのが仕事なワケです。
完全に理解させられるわけがない。
理解させられるんだとしたら、彼らは別に障害者でも何でもないじゃん、とか思います。


とまあ、そんなことを考えると、「表情」ってのはいかに大事か、というのはわかってもらえるかと思います。

トークイベントの時にも言いましたけど、俺は基本SNSとかにも写真を上げます。
もちろん、それがプライバシー云々とか言う人もいるでしょうが、今、障害者への理解を進めなきゃいけない、という途上にあって、しかも相模原のような事件があって、我々がすべきことを俺はやっていることをしていると思います。

会長の工藤さんがここで一人暮らしをはじめた頃は、それは珍しい話でした。
だから、取材もあったし、見せてくれ、という話もありました。
プライバシーの問題もあるわけですけど、でも彼は「今、見せないでどうする?全部見せるよ」と言っていました。
じゃなければ、何も世の中変わらない、と。
つまり、先人として、今すべきことはプライバシーだから生活を撮らないでくれ、じゃなくて、どんどん出すことなんだと。
それが、次の人につながるんだ、と。

実際、彼がいたところからはたくさんの人が一人暮らしをはじめたわけだけれど。


我々は大きな歴史の中にいて、数十年前に座敷牢だった頃とは隔世の感がある。
さて、これからの数十年先をどう描くか。
我々は死んだ後かもしれないが、そこで我々と同じ誰かが、どう生活しているか。
それをしっかり描けなければ、「障害者運動」なんて言葉を使ってはいけないと思う。


ま、そんなわけで、俺は彼らの表情をどんどん出していこうと思っています。
「タノシカッタデス」ではなく、彼らの表情で、なにかを感じ取ってください、と思うから。

この道70年近い佐藤先生が我々の写真を見て、「こういう表情ってのは、しろって言って出るもんじゃないんだよね。普段がこうだから、撮れる」と言ってくれて、とてもうれしかったんだけど。

それに、俺は自慢なんだよね。
ツイッターで大阪の写真もあげたけど(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4824.html)、表情がよかったら、やっぱ自慢したいんだよ。

ウチは、毎日、みんなイイ顔してる、って。
この気持ちは抗しがたい。

もし、俺のような仕事をしてる人で、そう思わない人がいたら、それはそういう表情が撮れてないのかもしれない。
それは、佐藤先生の言葉を引けば、普段がどうですか?普段が充実していますか?という、我々への挑戦状なのだ、と理解すべきだと俺は思います。

そういう意味で、我々だってまだまだゼンゼンだな、と思うこともたくさんあるんです。
でも、やっぱだからこそ、撮れたらうれしいんだよね。









(BGM:Ahh ! Folly Jet「I am a Child」from「MIRROR BALL SONGS」)
→ニールヤングのトリビュートなんだな。
しかも、なんかオシャレっぽく仕上がっている。
まあ、いいのか、これはこれで。

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