FC2ブログ

プロフィール

スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
ちんどん太鼓担当

@SMChingDongSATO twitter

Calendar 1.1

<
>
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 78
9 10 11 12 13 1415
16 17 18 19 20 2122
23 24 25 26 27 2829
30 - - - - - -

全記事

Designed by 石津 花

カテゴリ

最新記事

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

最新トラックバック

QRコード

QR

悔しい話 ② (ラスト)


【スーパー猛毒ちんどん動画】
スーパー猛毒チャンネル  ★  YOUTUBE
知的生涯PV  ★  知的生涯ライブ動画他

【リンク】
スーパー猛毒ちんどんフェイスブック  ★  虹の会本部HP
虹魂的障害者自立生活  ★  虹の会本体ブログ
ミツのホッサ日記PLUS  ★  ツイキャス!!

虹の会では、専従職員を募集しています。社保完。詳しくはこちら


kaijosha.jpg



http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4896.htmlのつづきとして


たいがいの場合、中学で部活が始まったりすると夏休みも忙しくなって、「ばあちゃんちはいかないよ」ということになっていきます。

小学校までの家族の「慣例」というのは、確かに市丸たちと普通学級に通っていた子も同じだと思います。
それに縛られる感覚も同じだと思います。

ただ、そこに半強制的な「部活」というのが入ってくることによって、多くの学校の仲間の意識、というか雰囲気が、「親や家族との行動」よりも、「(学校の)仲間との行動」の方が重要だ、という風に動いていきます。
確かに、ブラック部活という言葉があるように、先生方の勤務とかのことに関しては問題だと思います。
が、ここではそれは置いておいて、具体的にこの「半強制的」なモノがはいってくることによって、「意識が変わりやすい状況になった」というのは、現実的にあると思います。


よく俺は市丸たちをして「彼らにはクソババア!というタイミングがなかなかない」という話をします。
これは、いわゆる「親離れのタイミング」ということなんですが。

よくまあ「親離れ」と言いますけど、単に「離れる」だけじゃなくて、親以外の友だちや仲間の方に「くっつく」ということなわけです。
単純に親から離れ、仲間とも幼稚園の時のママ、というわけじゃない。
つまり、彼らの「付き合いの範囲」「付き合いの比重」が変わる、ということなわけです。
それを「親離れ」という言葉で言ってるわけです。

で、この「クソババア!」を出すタイミングとして、部活が大きなトリガーになっているというのは俺は事実だな、と思います。

もちろん、動物は親から生まれ、親になっていく過程が人間の成長、いや、動物の成長なわけですが、DNAの指示といってもいいかな、その中で、子が親から離れて独立する、という時は必ず来ます。
来るには来るんだけど、その時って、簡単に言うと子どもの方でも勇気が要るわけです。

子どもが大人になる、というのは、「守られない」ということでもあって、そこに踏み出すのはとても勇気が要る。
これは市丸たちだけじゃなくて、誰しもそうだと思います。
だからこそ、この部活という「半強制的なモノ」は、ある程度の勇気の「後ろ盾」となり得るんじゃないかな、と。


蛇足①
あ、いや、なにも部活至上主義とか言うコトを言いたいんじゃないですよ。
現実的にそうだ、ということを言ってるだけで。
俺自身も高2以降部活やってませんし。
そんなに部活至上主義な人ではありません。
サッカーもマジメにやってたわけでもない。

蛇足②
先に、親離れとは、親よりも仲間の比重が高くなること、と書きましたが、つまり親子の関係は一生変わらないわけですよね。
親は子がどんなに大きくなっても心配だし、何かあれば世話を焼きます。
そういうことを否定するモノのように「親離れ」という言葉を理解する人がいますが、そうじゃなくて、比重が変わる、と捕らえたらいいんじゃないか、ということを言いたい。


話戻しまして。
先に書いたように、しかし、親から離れていく、すなわち仲間との比重が大きくなっていくのは、動物のDNAとしては、まあ仕組まれているプログラムではあるわけです。
けれども、それをするためには先に書いたように勇気が要る。

同時に、子が知的障害者だったりすると、親の方にも勇気が要る。

これまで、子どもが付き合ってる人のことはだいたいわかっていた。
いや、全てわかっていた、といっていいと思います、彼らの親御さんの場合。
しかも、その親まで知っていた、ということが多いでしょう。
けど、親の知らない人と付き合うようになる、という過程がここに入ってきます。
そちらの比重が高くなっていく、ということですね。

そのことに対する不安、みたいなモノもたくさんあるんだと思います。
平易な言葉で言うと「悪い人にだまされてるんじゃないか」とか。
ま、それだけじゃないですけど。
「ご迷惑かけてるんじゃないか」みたいな。

でもまあ、ご迷惑も含めて「仲間」なわけですね。
悪い人にだまされるという経験もあって悪いわけじゃない。
いや、ない方がイイし、取り返しがつかないこともあるのでその辺は難しいですが、しかし、そこを怖がっていたら、やっぱ親の範囲から子どもを出さないことが一番簡単な方法になってしまい、動物としての本能がくじけます。

そうなると、おそらく無気力にもなるでしょうし、希望も持てない。
そうなれば、学びたいという欲求もなくなるし、知ろうという気持ちも持てなくなる。

二次障害、なんて言葉がありますけど、色々な文献を読んでみると、「そもそもこの子自信が人生に希望を持ててないんじゃないか?」という例もたくさんあって、つまり、それを「障害」という機能的なモノに帰してしまうのはあまりにかわいそうじゃないか?という気持ちになることも多いんですね。

つまり先の論理で言えば、動物としての本能が削がれている状態、というか。


確かに、色々な状況で、親も子も「勇気が出ない」。
その状況が、また「この子は知的障害だからしょうがない」という風に言われてしまう一因だとしたら、それはなんかちょっと変えていくことができるんじゃないかな、と思うワケです。







baka.jpg

(BGM:加藤賢崇「宇宙フーテン旅行」from「若さ、ひとりじめ +10」)
→凄味がない人。
でもそれがウリなのよね、なんてったって「若さひとりじめ!」。
テクノなのかしら、この曲はなんか最も彼にフィットしてる感じがする。
スポンサーサイト



悔しい話 ①


【スーパー猛毒ちんどん動画】
スーパー猛毒チャンネル  ★  YOUTUBE
知的生涯PV  ★  知的生涯ライブ動画他

【リンク】
スーパー猛毒ちんどんフェイスブック  ★  虹の会本部HP
虹魂的障害者自立生活  ★  虹の会本体ブログ
ミツのホッサ日記PLUS  ★  ツイキャス!!

虹の会では、専従職員を募集しています。社保完。詳しくはこちら


kaijosha.jpg


市丸たちはそれぞれ違うわけで、なかなかに一つの理屈に押し込めることは難しい。
例えば、「自閉症だから●●」みたいなことはあまり役には立たない。
というか、それわかっても、対処法はないわけだからそもそも意味いもないけど。
こっちサイドがわかった気になるために分類したいだけなんじゃないか、と思えてならないところもある。

と、まあそれはそうなんだが、でも時に、そういう教科書に載ってることではなく、「共通すること」というのがあったりする。
これは経験値だし、正確なデーターを取ったわけではないので、あまり大声で言うのも憚られるのだが、まあ「ああ、そりゃ●●だからな」というのは我々の中にはいくつかあったりもする。

その中の一つについてちょっと書いていこうと思うんだけど。
それは「親の言うことは絶対」というもの。
例えば、こっちで暮らしていたとして、普段はまったく親とは接点がなかったとしても、親が「●●があるから帰ってこい」というと、なにがあっても返事はイエス、となる、という法則です。

別にこれは帰りたいとかそういうことではなく、井上なんかは認識が高いんだけど、彼なんかは「なんでかわからないがわかったって言っちゃう」となる。
まあ、普段はお盆とかでも「親のために実家に帰りなよ」という感じだから、そもそも帰りたいとかそういう話ではない。

とにかく親の命令には従ってしまう、という法則ね。


これ、いくつか考えられることがあります。
順を追って説明しますと、こんな感じです。

そもそも親とあまり一緒にいない。
そうなると、実家に帰ったりすると、実家にいたときのクセが思いっきり出たりするんです。
市丸だったら、爪がなくなるほど(ホントになくなる)爪を食う、とか。
こっちではちょっと治まっていたモノが、実家に帰ると、実家にいたときのモードになる、ということですね。
たぶん、親子関係は変わってないンだと思います。
いや、変わってはいるんだけど、実際離れて暮らしている、という風に変わってるわけですが、その状況に戻ることによって、「昔の感じが甦る」というのが正しいか。

それでもまあ、市丸なんかはずいぶん今実家に帰っても落ち着いているみたいだから、全てが全て戻っちゃうわけじゃないんだけど、我々からすると、まあ多少は戻るわな、みたいな。
これは親と一緒にいる時間が空いている分、そりゃ変わるけど、戻る部分もある、と理解して欲しいんだけど。

で、なにもなければ、親も「実家に帰ってきた息子」という風に付き合ってくれるだろうから、彼らも「実家に帰ってきた息子」として振る舞えるんだけど、それが例えば電話で「●●に行くから帰ってこい」みたいな話になると、それは子どもの頃の「親子関係」に戻っちゃうわけです。

そもそも彼らは、自分の予定について、自分より親が知ってる、という人生を歩んできたわけです。
学校で行事がある、といっても手紙で親が先に知ってる。
準備するモノも、親が知っている、ということですね。
これはまあ、学校時代は誰だってそうなんですけど、
障害云々じゃなくて。

でも、そのまま特に他の作業所にいた連中は、作業所で同じようなことをされてきてるから、まあ小学校のママなんですね。
どっかに行くとなって、そういう予定も親が知ってる。
逆に言えば、親が知らない行事はないし、親が知らない自分の予定はないんです。
付き合う人、一緒に行く人も、全員親が知っている。
そういう状況なワケです。

だから、親がいうことが全てなんですね。

最初、市丸が実家にいたとき、ストリップに行けなかった顛末は前に書いたかどうか、テレビでも話したかな?オンエアされたっけ?、まあ、親にはもちろんストリップ云々なんて言ってなかったから、彼は休みの日だったんだけど、家を出れなかったわけ。
でも、ホントは来たかった。
電話したら、混乱してる市丸がいました。
親は行けともなにも言ってない、でも、ストリップには行きたかったし、約束もしてた。
そういう状況で、彼は出れなかった。
でも大混乱はしてました。
「親が言わないから出れない」ということで、逆を言えば、「親が言うから行く」なんですけど。

ま、でもこれは想定内で、そういう「ストリップ」という彼の一番楽しみにしてることでその辺を経験させよう、と思った結果だったので、大成功。
次からは彼は来れるようになって、まあそこから市丸は変わってきたんだけど。

でもまあ、とはいえ、その感じはやっぱ変わらないんですよね。
「親が何でも知ってる」「親が言わないと出れない」というのは、なかなか手強い。


先日、いろいろあって、とある親から電話があって、家の用事で帰ってこい、となって、しかしその日はけっこう重要なことがあったんです。
でもまあ、彼は「はい」ってなっちゃうんだな。
その後、まあ「どうしようどうしよう」となったりもするけど、でもまあ従う。

本来だったら、自分の普段の生活の中で大事なことがあれば、それは天秤にかけるわけだけれど、それが出来ない。
一気に小学校の遠足に戻ってしまう。

まあ、それはそれでいいとしまして、というかしょうがないんで。


でも、俺が辛いのは、彼らが親に「どれだけ大事な用事があるか」を伝えられないことですね。
親もそこは先回りしては聞いてくれない。
というか、用事があるわけですから、そりゃそうともいえます。
つまり、まあそういう時は、親子関係自体が一気に「親が何でも知ってる」にお互いに戻っちゃってるのかもしれません。

その中で、その「大事な用」を彼らはすっぽかす結果になります。
その時、「まあ、知的障害者だから仕方ないよね」という風に、やっぱ見られちゃうんですよね。
どう考えても、普通の仕事してる人だったらそこは親の言ってること断るだろ?みたいなことでも、「知的障害者だからしょうがないよね」と。

俺は、それが悔しくてならないんです。


つづきます





baka.jpg

(BGM:きどりっこ「桃色金魚」from「キング・ソングス・オブ・キャプテンレコード」)
→こういうなんだろう、不思議系な感じの女性ボーカルって、戸川さんからなのかどうなのか。
当時けっこう流行ってた。
歌の上手さで勝負しない、となると、残るはセンスの問題になるわけだが、これは歌詞もなんだかひっかかるし、面白いと思う。
当時はまったく聞かなかったけど、こういう風にコンピレーションで出してくれるのはありがたい。

「タノシカッタ」ではなく、表情で


【スーパー猛毒ちんどん動画】
スーパー猛毒チャンネル  ★  YOUTUBE
知的生涯PV  ★  知的生涯ライブ動画他

【リンク】
スーパー猛毒ちんどんフェイスブック  ★  虹の会本部HP
虹魂的障害者自立生活  ★  虹の会本体ブログ
ミツのホッサ日記PLUS  ★  ツイキャス!!

虹の会では、専従職員を募集しています。社保完。詳しくはこちら


専従募集


表情が物語る、ということがあります。
いくら「楽しかったです」と言ったところで、表情が真っ暗だったら全然それは説得力を持たないわけで。

よく他の作業所から来たばかりの連中、他の作業所の連中が来たりしますが、最後に感想を聞くとかならず「楽しかったです」と言います。
ま、これは感想が出ない彼らに対して、親や教師なんかが教えた処世術だと思います。
つまり、「楽しかった」ということ自体がなにかわかってないのかもしれないけど、とりあえず「タノシカッタ」と発音する、という「決まり」ですね。

ま、感想というのはそもそも抽象的で内面的で主観的で、そんなものを言葉にするのはなおさら難しい。
だから、まあ「楽しかった」ということを言っておけばまあ間違いはあるまい、相手を不快にすることもなかろう、というのは間違ってないと思います。

ただ、まあウチの場合は基本「楽しかった」は禁句になっています。
感想を求められて、楽しかった、は禁句。
とはいえ、まあ「昨日のプロレス楽しかったですね!」みたいな彼らからの自発的な会話はもちろんあります。
それはおそらく彼らから出た言葉だと思うので、それはそれでいいんです。
ただ、なんかあるじゃないですか、イベントの最後とかに感想を言う、みたいな流れ。
そこでの「楽しかったです」は、「別の言葉で言ってごらん」という風に言っています。

まかりなりにもイベントに参加したという一日を、機械的な「楽しかったです」で誤魔化してしまうのではなく、できれば他の言葉を探してほしい、と思うからです。

といっても、もちろんそもそもモトミ先輩やカイなんかに何かをしゃべらせること自体が難しいわけですから、それはそれでイイと思うんですけど。
でも、彼らの場合、言葉はなくても「表情があるじゃないか」と思うのです。
いや、言葉のない彼らだけじゃなく、他の連中、認識が高いと言われている井上だったりも「表情が物語ることもあるじゃないか」と思います。

そういう表情を通して、我々は「あ、これはコイツは理解できてないな」とか、「別の言い方をしないとわかってもらえないかな」と思うワケです。


注意や、例えば社会のルールを教える時に、それは「言えばいい」ということではなく、実際にそれを守ってもらわないと困るわけですね。
例えば、出かけるのだったらお金を持っていかなきゃ行けないし、その金額だってちゃんと必要分を持たなければならない。
人と待ち合わせをしたら、遅れてはいけない。
遅れそうなら電話する、とか。
もっと言うと、「人を噛んじゃダメ」とか。

先の「タノシカッタデス」という発音と同じことを我々がしてしまっては話が進まない。
これは「言いましたからね」というアリバイではないわけです。
もっと言うと、こちらがそれを「言ったんですが、わかってもらえてないことを私がわかってませんでした」というのだって、俺はなり立たないと思います。
それはこれで金をもらってるプロの仕事ではないと思うからです。

が、実際は、「わかってないな」とは思っても、どうしたらわかってもらえるか?の手立てがなかなかみつからないことの方が多いわけですが。
でも、それを探し続ける、というのが仕事なワケです。
完全に理解させられるわけがない。
理解させられるんだとしたら、彼らは別に障害者でも何でもないじゃん、とか思います。


とまあ、そんなことを考えると、「表情」ってのはいかに大事か、というのはわかってもらえるかと思います。

トークイベントの時にも言いましたけど、俺は基本SNSとかにも写真を上げます。
もちろん、それがプライバシー云々とか言う人もいるでしょうが、今、障害者への理解を進めなきゃいけない、という途上にあって、しかも相模原のような事件があって、我々がすべきことを俺はやっていることをしていると思います。

会長の工藤さんがここで一人暮らしをはじめた頃は、それは珍しい話でした。
だから、取材もあったし、見せてくれ、という話もありました。
プライバシーの問題もあるわけですけど、でも彼は「今、見せないでどうする?全部見せるよ」と言っていました。
じゃなければ、何も世の中変わらない、と。
つまり、先人として、今すべきことはプライバシーだから生活を撮らないでくれ、じゃなくて、どんどん出すことなんだと。
それが、次の人につながるんだ、と。

実際、彼がいたところからはたくさんの人が一人暮らしをはじめたわけだけれど。


我々は大きな歴史の中にいて、数十年前に座敷牢だった頃とは隔世の感がある。
さて、これからの数十年先をどう描くか。
我々は死んだ後かもしれないが、そこで我々と同じ誰かが、どう生活しているか。
それをしっかり描けなければ、「障害者運動」なんて言葉を使ってはいけないと思う。


ま、そんなわけで、俺は彼らの表情をどんどん出していこうと思っています。
「タノシカッタデス」ではなく、彼らの表情で、なにかを感じ取ってください、と思うから。

この道70年近い佐藤先生が我々の写真を見て、「こういう表情ってのは、しろって言って出るもんじゃないんだよね。普段がこうだから、撮れる」と言ってくれて、とてもうれしかったんだけど。

それに、俺は自慢なんだよね。
ツイッターで大阪の写真もあげたけど(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4824.html)、表情がよかったら、やっぱ自慢したいんだよ。

ウチは、毎日、みんなイイ顔してる、って。
この気持ちは抗しがたい。

もし、俺のような仕事をしてる人で、そう思わない人がいたら、それはそういう表情が撮れてないのかもしれない。
それは、佐藤先生の言葉を引けば、普段がどうですか?普段が充実していますか?という、我々への挑戦状なのだ、と理解すべきだと俺は思います。

そういう意味で、我々だってまだまだゼンゼンだな、と思うこともたくさんあるんです。
でも、やっぱだからこそ、撮れたらうれしいんだよね。









(BGM:Ahh ! Folly Jet「I am a Child」from「MIRROR BALL SONGS」)
→ニールヤングのトリビュートなんだな。
しかも、なんかオシャレっぽく仕上がっている。
まあ、いいのか、これはこれで。

機械でできるならそうしたい


【スーパー猛毒ちんどん動画】
スーパー猛毒チャンネル  ★  YOUTUBE
知的生涯PV  ★  知的生涯ライブ動画他

【リンク】
スーパー猛毒ちんどんフェイスブック  ★  虹の会本部HP
虹魂的障害者自立生活  ★  虹の会本体ブログ
ミツのホッサ日記PLUS  ★  ツイキャス!!

虹の会では、専従職員を募集しています。社保完。詳しくはこちら


専従募集


加納さんとかは、介助者を使って生活をしてるわけです。

介助者と介助をさせる側の関係というのは、これ、なかなかに難しくて、まあ一般にはそもそもお世話「してくれる人」ということになってて。
だからこそ、まあ今2行前ほどには「介助させる側」と書いたわけなんですけど。

じゃないと、介助者は障害者を「指導する人」みたいなね、そういう勘違いもあるでしょう。
ってか、ヘルパー資格の教科書にはそんなようなこと沢山書かれてますし。

茶碗を上にしてしまおうが下にしてしまおうが言うとおりにやってくれ!
って話なんですけどね。


そういうアホな論議は置いておいて、それでもなかなかに難しい点があります。

というのは、なんだかんだ、介助者は本人の言うことを聞いて動くだけのこと、とは言っても、人間対人間なんですよね。
そこを無視しちゃうと話がどうにもこんがらがる。

ロボットだとか、機械がやってくれるのなら、そりゃもう気楽でいいんだろうけど。
そういう何にでも対応出来る機械はないですから。

なんで、まあ、人間でやらざるを得ない。
そこで介助者、という仕事が成り立つわけなんですけど。

で、その関係ってのは、人間対人間なんで、画一的にどうこう言えるものはないんですけど。
ま、そんなわけで、介助者と利用者の関係は、それぞれ違ってくるわけです。

ウチにも介助者をつかって生活してる人が何人かいるわけですが、例えば会長の工藤さんとか。
で、工藤さんのやり方が正しいか?っていうとそういうことでもなく。
ま、「正しい」という正解もない。

先日亡くなった藤井も、まあいろいろ悩んだ結果の方法で介助者と対していたわけだけれど、うまくいってたかというと、死後のいろいろを見ていると、全てがOKだった感じもしない。
それは、おそらく介助者と利用者の関係がしっかりとできてなかったからのような気がします。
工藤さんも、藤井も、それはそれぞれ介助者との関係で悩んでいた、いるわけで。

ま、「あっちはあっち」「こっちはこっち」というか。
そういうことにはなると思うんだけど。


介助者がわからしてみると、利用者の意向、というのは、なかなか無視できません。
それを「決まりだから」という文句で縛ってしまうことを、ずっと世の中はしてきたわけだから。
利用者や家族が「◯◯やって」、と言った時に、「それは契約外なので」とかってやらない、みたいなね。

例えば、「私は外出を援護する者で、家に戻ってから、その呼吸器の電源を入れることはできません」とか。
そんなもん、スイッチ入れるだけだろう、と思うんだけど、そのために家族がわざわざ仕事を休んでスイッチ入れ係にならざるを得なかったりする。
そういう「不合理」がずっと続いてきたわけです。

でも、かといって、利用者の言うことを鵜呑みにして全部やるべきなのか?というと、それはまた違ってきて。
例えば、介助者を使ってタンスを動かさせたり、(本来、一人じゃ無理なはず)させるっていうのも、通念上、どう考えてもダメだと思うけど、そういう現実が起きてしまう。

でも、なかなかそれを介助者が「ノー」と言えない、そして、それを利用者側に律することを求めるということで解決する可能性ではあるでしょうが、その「律する」というのは、なにがしかのラインなしには成り立たない。
つまり、それに端を発し、「ここまではイイけどここはダメ」みたいな線引きを作ることにつながってしまえば、それはやっぱりダメなんだと思うんです。
逆に、それがまた「契約外なので」という一般のヘルパーのようになってしまう可能性は高い。

この辺が難しい。

つまり、「決めごと」をどれだけ少なくして、人間対人間の関係の中で解決していけるか、という。

そう考えると、介助者と利用者は、本当はもっと話をするべきだし、そのためには、介助者同士もある程度ちゃんとコミュニケーションを取るべきだし、利用者に直接じゃない、異を唱える方法、例えばウチで言えば俺とかに相談を持ちかけるラインをつくる、というのも必要だと思います。
その中で、互いに理解を深めて行かなければならないのだろうな、と。

「これがダメ」「これがいい」ではなくて、それを一緒に、介助者も、そしてまわりの俺たちも、そしてもちろん利用者も共に、時間がかかっても考えていかねばならないんだな。

機械的に「コレダメ」「アレダメ」じゃなくて。
だって、介助させる側も、する側も、機械じゃない。


介助者電話変え小サイズ






hikouki2中shou

告知1

(BGM:オノシュンスケ「ディスコって」fromYOUTUBE)
→こういうテクノ感好きだなあ。
これは彼女は死んでしまっているんだろうか。
そういうことでもないのかな。
深読み出来る歌詞もなかなかセンスを感じさせます。

失敗なんて悪いことじゃない


【スーパー猛毒ちんどん動画】
スーパー猛毒チャンネル  ★  YOUTUBE
知的生涯PV  ★  知的生涯ライブ動画他

【リンク】
スーパー猛毒ちんどんフェイスブック  ★  虹の会本部HP
虹魂的障害者自立生活  ★  虹の会本体ブログ
ミツのホッサ日記PLUS  ★  ツイキャス!!

虹の会では、専従職員を募集しています。社保完。詳しくはこちら


専従募集


失敗というのは、なかなか大きな声では言えません。
例えば遅刻、例えば報告を忘れた、などなど。

健体者であろうが、そうでなかろうが、これは同じ。
でも、ウチでは、「失敗こそ大きな声で言おう」ということをよく言います。

特に健体者なんかは、ここに来たばかりの時に、なかなかこの辺が難しい。
ま、世の中は失敗を許しません。
遅刻なんかしようもんならイヤミを言われ、降格され、下手すればクビになるような時代です。
そりゃ、失敗を大きな声で言いたくなくなります。
小さくなって、目立たないようにしよう、って感じになるんでしょう。

これは外からきたカブキとかオグラなんかもそうで。
約束事を守れなかった時に、「守れなかったね」というと、「守った!」と言い張ったりする。
いやいやいや、そうじゃなくて、と。
なんでウソつくの?と。
そうじゃなくて、「守れなかったけど、これから気をつける」って言えばいいじゃない、と話すんだけど。


でもどうなんでしょう。
失敗なんて、しょうがないじゃない、って思うんだよね。

しちゃったんだし。
それに、失敗したくて失敗する人なんかいるだろうか?とも。
逆に言えば、失敗をした時に、ああ、失敗した!次は気をつけよう!っておもった方が人間成長するじゃん、みたいな。

失敗をこそこそ隠していたんでは、何も生まれないんじゃないか、と。

ま、それは誰が考えてもそうかと思うんですけど。
どういう失敗だったとしても、そう考えるしかない、という。
反省して、次にいかす、それしかない。


そして、失敗については、もう一つ、思うことがあって。
ちょっと表現が難しいんだけど、書くことにチャレンジしてみますと、こんなことです。

というのは、井上たちは今の時代の中では、「失敗作」なんです。
悔しいけど。
だから、優生保護法なんかもある。
優生保護思想については大いに腹が立つし、論議もしたいけど、同時に「失敗」ということの意味を変える、ということも必要なんじゃないか、と。

井上たちを失敗作、と言われることに腹を立てるのは当然だけど、この世の中の「失敗」なんてのがどれだけ馬鹿馬鹿しいか、ってことも同時にあるような気がして。

つまり、失敗して反省して云々、と言う風に考えると、失敗は成功の母なわけです。
失敗してこそ、成功がある、みたいな。

なんだ、失敗ってすげえじゃん、みたいな。
なんでそんな「すげえ」失敗を隠すのよ、みたいな。


自分が失敗を隠していたんでは、失敗を忌み嫌うんであれば、やっぱ井上たちは浮かばれないというか。
オレたちが、「失敗していいじゃん」って思わない限り、行動しない限り、やっぱ世の中の「失敗は悪」ということから、オレたちも井上たちも逃れられないんじゃないか、って思うんだよな。


先のカブキやオグラのルールを守る、って話。
それはとても大事なことだけれど、守れなかった時に、じゃあ「次、がんばるぜ」ってのがさ、すごく大事だと思うんだ。
そのためには、一回ルールを破った、という失敗を自分で認めた方がいい。
自分で認めて、次、がんばる、ということでいいじゃない。

失敗を認める。
今の世の中で、それは難しいことだし、辛いことかもしれないけど、でも、井上たちはそういう世の中を「失敗作」として生きている。
そんなの悔しいじゃないか。

だから、「失敗」の意味を、少なくともオレたちは日常の中で変えなきゃいけない、って思う。
世の中が言う失敗、こそこそ隠すべきな失敗、ではなく、母なる失敗、というか、意味のある失敗、というか、成功のための大事な失敗、というか。

世の中がいう「失敗」なんて、大したことないじゃん、というか。
他人が失敗言ったところで気にする必要なんかないんだ、というか。
堂々としてろ、って。

だからやっぱ失敗は大きな声で言うべきだ、って俺は思うんだよね。
ってか、逆に「失敗を忌み嫌い、こそこそ隠す」ことはしちゃいけないんだ。

そんな世の中、くそ食らえ、です。











(BGM:有馬竜之介「土曜日に集まれ!」fromYOUTUBE)
→どひゃ~ん。
「土曜日に、い~、あっ、教会へ黒い服着て集まれよ~」
この、冒頭の「い~、あっ、」にノックアウトされましたわ。
途中の語りももう入ってきやしません。

| ホーム |


 BLOG TOP  » NEXT PAGE