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スーパーちんどん・さとう

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騒げばなんとかなる、を越えなければ その4(ラスト)

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http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-3234.htmlのつづき

問題は、やはり暴力性向かな、と思います。
施設における、職員の入所者への暴行は表に出てきますが、入所者の職員への暴行というのは、出てきません。
が、これは確実に現場的には、どこにでもあります、と断言します。
でも、それは出てこない。
まあ、出てこないからこそ、前回書いたようなコトになっちゃうわけですが。


施設内で暴力行為に悩む人が、ヤフー知恵袋とか、いろいろで聞いているのを散見しました。
というか、たくさんありました。

まず、「なぜヤフー知恵袋?」という疑問がありますね。
なぜ、職場の中で相談しないのか?と。
もしくは、別の同種の職場の人とか、相談できる人がいないの?と。
昔だったら、ヤフー知恵袋がないから、そういう相談は、面と向かってやるしかなかったんですが、今は、そうじゃないのかもしれません。

また、運動的なことが薄れてしまい、横の連帯がなく、ただの「卒業先の進路」ということで、福祉の現場を考えている人も多いのかもしれません。
ま、それはそれでいいんですけど、福祉というのは、未だ発展途上のモノだから、そこをきちんととらえて、「運動的に」自分の仕事について考えていかなければならないのではないかと思うのですが、まあ、その視点は今の福祉の現場にはありませんね。

また、職場があまりに「官僚化している」ということのあらわれなのかもしれません。
官僚化していれば、思いの丈をぶつけ合う、なんてことはそもそも成り立ちませんから。

如何にしても、このヤフー知恵袋などに投稿している人たちは、どちらかと言えば、まじめに取り組んでいる人なのかもしれないな。
それはそれで、なんか違う気がするけど。
まあ、それはまた別の機会にするとして。


で、話を先に進めます。

この手の暴力性向に対する対応についての質問、回答に多く見られるのが、こういう接頭辞です。

「外ではやりにくいのですが」

つまりどういうことかというと、「私はこういう風なやりかたをしている」ということを回答しようとして、でも、その接頭辞に必ずこれがつきます。

中には、「暴れていて、周りの人に危害が行きそうだったので押さえ込んだところを通報されてパトカーに」、とか、「殴られてとっさに手が出たら、それが結果虐待となり解雇」とか、そういうのも、頻度としては少なくなく出てきます。

もちろん、殴る蹴るが効果を上げるわけはないでしょう。
それは、自分の身に振り返れば簡単にわかります。
しかし、押さえ込む、という行為については、少なくとも「外の人に対しての犯罪行為を止める方法でやむを得ないこともある」というのが、多く見て取れました。
「とにかく止めなければ、こいつはあの子どもに突進してしまう」という場合、もうこれは身を挺して止めるしかない、という感じ。
これは現場的にも、よくわかります。

まあ、前から言ってるように、簡単に「虐待」と言う言葉を使うべきではない、ということなんですけど、それはもうこの世の中の流れでは何を言っても通用しないでしょう。
虐待防止法の問題点は、知的障害者や認知症の人たちの「性善説」に基づいているところで(現場の意見を聞いて作ってないと思われる)、そこは実は大きな「差別的」な要素を含むと思うんだけど、そこは、「虐待」と言う言葉の前に、多くの人が口をつぐんだままです。

まあ、それはそうとして、実際には、多くの暴力性向の押さえ方が「外ではやりにくいこと」である、ということがこれらを読んで、よくわかりました。


しかし、ここでちょっと思ったんです。
「外ではやりにくいこと」というのは、結果、本人にどう伝わるんだろうか?という。
逆の立場になったら、「外ではやりやすい」ということにならないんだろうか。
これは、逆効果ではないか?、と。
むしろ、「中でやりやすい」の方が、彼らにとってはいいのではないか?と。

大事なことは、一本スジが通ってることだと思うのです。
「外でやりにくい」、を超えた、「何か」。
しかも、それが、社会に受け入れられるモノでなければならない。


事件は未然に防ぐのが一番大切で、そのために普段どう付き合うか、ということを我々は考えるんだけど、それにも限界はある。
専従にも生活がある。


まあ、我々は確かにコレで金をもらってますから、プロです。
だけれど、それ以上に、正直言えば、彼らは知的障害者のプロでもあります。
100%そういう行為を止められるか、といえば、それは俺は保障はできない。

そういう性向をなんとかゼロに近づけられるように、とにかく努力する。
そして、起こりそうになったら、とにかく止めなければならない。
少なくとも、100%の全力で自分たちはその問題にあたらなきゃいけない、と思うのです。

そのために、まず、とにかく彼らに「外でやりやすい」と思わせない工夫を、我々はしていかなきゃならない、と思っています。




(BGM:Peter And The Test Tube Babies「Moped Lads~Banned From The Pubs」「Pissed And Proud」)
→このアルバムは、LPで持ってたな。
で、ライブなんだけど。
オープニングがこの曲で、まあ言うことナシのカッコ良さ。
エクスプロイテッドとかも好きなんだけど、なんだか俺はこういうちょっと人を喰った感じが好きだと思う。
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騒げばなんとかなる、を越えなければ その3

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http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-3233.htmlのつづき

おそらく、この問題の根本は24時間テレビにあるものと同じような感じがする。
この法律を作った人にも、多くの社会の人にも、この番組における「知的障害者の聖人視」が根底にあると思われる。

いや、確かに「警察を呼んでくれ!」というのは、ガチな時もあるだろう。
それに対応するのは警察の仕事だから、警察を責めるもんじゃないし、警察を呼んでくれた人を責めるモノでもない。

でも、そういう「ワルヂエ」だってあるんだよ、ってことを、もっと多くの人に知ってもらうべきだと思う。
「まんじゅうを食わせない」ということが、命を守るためのことでもあるんだ、ということを、まあ冷静に考えれば多くの人がわかるはずだと思うんだけど、「虐待」と言う言葉の前には、正直、人は正気を失う。


彼らは聖人なんかじゃない。
どっかで自分の「欲望」を達成させようと、虎視眈々と状況を見てる。

カイなんかを見てるとわかるが、俺に噛もうとしたのは数度だ。
噛まれたことはない。
俺はその前に止めるから。
でも、相手を見て、「噛める相手」をヤツは見抜く。
それが仲間内だけじゃなく、外の人に対しても、「そういう人」を見抜くチカラには、彼らはたけている。


もちろん、この見方は一面だ。
全てにおいてこういう見方をしているわけじゃない。

でも、「こういう面もある」ということは事実だ。
それを見抜けなければ、正直、現場ではやってられない。
後述するが、ネットなんかで見ると、現場的には、みんなこうしたことで苦しんでいるようでもある。
しかし、そのことは虐待防止法の中には精神として貫かれてはいない。

つまり、「知的障害者は聖人である」という「偏見」が、それだけ社会に根付いてしまっている、ということだ。


そう考えると、24時間テレビの功罪はデカイ。
確かに、障害者にスポットを当てる、とかいうことについては、よかった点もあった。
でも、もうその役割は終わってると思う。
これ以上、「感動」で引っぱるのは、もう違うと思う。

ちょっと前に書いたけど(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-3222.html)、やっぱ「感動」という言葉がどっか差別的なんだな。

障害者が何かやってれば感動するなんて、アホじゃないかと思うんだよ。
そりゃ、その努力は認めるし、すごいことだと思うけど、俺なんかにしてみたら、ダウン症の子がAKB踊れたって、明日からどうやってメシ食うわけ?とか。
その部分は、とにかくすっ飛ばして、「コレで感動しろ」って押しつけられてるモノに、なんでみなさんが感動してしまうのかがわからない。

毎日の状況の中で、どっちにしても、彼女たちは結局底辺なんですよ。
底辺だから、感動するんでしょ?
もっといえば、底辺に置いておかなければ、感動が呼べないんだから。
状況を変える一助になるわけがないんだよ。

でも、それってやっぱおかしいよね。


最近は、別に障害者とかじゃなくても働き口がなかったりして、逆に「障害者年金もらってんだろ」みたいな文脈で、堂々と差別的なことを言う人もネットなんかでは増えてきた。
先の24時間テレビのAKBも、「気色悪い」とかさんざん叩かれてもいた。

そうした「ヘイトスピーチ」のようなことに共振するわけじゃないが、でも、どっちかといえば、そっちの方が正直かな、とは思ったりする。
逆に、「障害者ががんばってて、感動したわね」と言う人にこそ、俺は反吐が出る。


で、話を戻すと、虐待防止法、確かに評価できる。
評価はできるが、その根本に、「24時間テレビを見て、障害者ががんばってて感動したわ」という文脈が透けて見えて、ちょっとそれは違うんじゃないか、と思うのである。


続きます




(BGM:ピアノゾンビ「(トラック 33)」from「ひいてるぜ」)
→このバンドはさ、アルバムタイトルが秀逸なわけだが、「弾けなくて」「まだ弾けなくて」みたいなタイトルの後、ついに「ひいてるぜ」。
しかも、ジャケ写は「釣り」。
ぎゃはははは。
ピアノ弾け。
というわけで、これはちょっとシリアス。
たぶん、バンドの雰囲気から、こういう政権批判みたいなのはしたくなかったんだろうな。
で、シークレットトラックになった感じかな。
「欲しがりません、骨までは」

騒げばなんとかなる、を越えなければ その2

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http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-3232.htmlのつづき

後になれば、そこで警察に話をすれば、確かにコトは収まる。
わかってくれる人がほとんどではある。
けれども、正直言うと、「その場を何とかする」という目的においては、彼の「イライラモード」は勝利しちゃった後なのだ。

「その場の緊張状態から抜け出したい」というのがパニック行動の一つのキッカケになっていると思われるわけだけれども、とにかく彼らは「その場から逃げたい」のである。
だから、とりあえず警察が来たら、その場の緊張状態は一回途切れるのであるから、それで彼の目的は達している。

もっと言えば、彼自身もよくよく考えれば、その「イライラモード」でさえなければ、理解はできるのだ。
「俺がわざと他人に当たっていってしまった」という反省ができるのである。

だから、「騒げば何とかなる」と教えてしまう状況は避けたい。
「騒いでも何ともならない」、むしろ「静かに、自分のやったことを考えなさい」という状況を作り出したいのに、外野の手出しで、真逆になる。

これ、つまりはその外野の人にいつか危害が行く、ということでもあるんだよ。
だから、困るんだよ。
それをなくしたいから、静かに考えさせたいのに、しかも、そこに持って行く一つのパターンである「座る」というコトをさせたいのに。


虐待、と言う言葉は、ある意味便利である。

本人のしたいことをやらせよう、というのは、よくわかる。
けれども、それが「人にぶつかりたい」という場合は、それでも「やらせよう」というのは成り立ちません。
もっと言えば、「裸で外を歩きたい」というのも成り立たない。
「ポコチンを触りながら歩きたい」というのも成り立たない。
「女の人の手を握りたい」というのも実現させられない。

「本人の意思を尊重して」とはいい言葉だけれど、意思は上記のように反社会性を含んでいる場合がある。
これすら「止めるのは虐待だ」というのであれば、もう社会の秩序もなにもあったもんじゃない。
そんな状況で知的障害者が地域で受け入れられるわけがない。

だから、そうした「反社会的な意思」は、止めなければならない。
いや、思っていてもイイが、実行はさせないようにしなければならない。


昔、ウチにいたヤツは、太りすぎで腎臓も悪く、透析をしなければならない、というところまで、身体の状態が悪化していた。
しかし、透析の2時間をじっとおとなしく寝ているとは思えない。だから、透析は受けさせない、と母親が言った。
つまりそれは「死なせる」ということと同義であった。

いやいやいや、お母さん、やせればいいんでしょ?

ということで、ウチであずかることになって、順調にやせた。
元々がかなりの体重オーバーだったので、ジュースと間食を辞めるだけで最初はみるみるやせる。
これはまあみなさんもそうだと思うので、ぜひ太りすぎの人は試して欲しいと思うのですが。
で、透析の危機は、まあ去った。


が、実家に一晩戻る、ということがあると、翌朝に体重を量ると、なんと4キロ増えている、ということが続くようになった。

よくよく聞いてみれば、風呂で本人が「まんじゅう~」といえば、風呂にまんじゅうを持っていくらしい。
「食べたいもの食べさせないとかわいそう」ということらしい。

…いや、それ、殺人だぞ…。
透析を避けるために、やせさせようと思ったのに、なんで逆のことをするんだ?

まあ、もうこういうのは理屈じゃない。
「食べさせる」ことが親の愛情表現で、子もそれを受け入れるのが愛情だと思ってる。
どっかゆがんでしまってる。
これを修復するのは不可能だろうな、とは思った。

それでも、生活のベースがこっちにある限りは、何とかなるだろうと放置していたんだが、そのうち本人が実家に帰ることを拒否するような行動に出たり、ということがあり、まあいくらなんでも、こりゃもう親元には帰せないな、と思ったんだけど。


で、まあ何が言いたいかというと、この親の行動は、法に照らせば実は虐待に当たらないんですよ。
でも、食べさせないことは虐待になる。
いや、ウチでもきちんと三食食べてたんですけどね。
間食とジュースと揚げ物を控えただけで。


続きます





(BGM:ウルフルズ「悲しくない」from「爆発オンパレード」)
→「爆笑オンパレード」で「悲しくない」。
これがこのバンドのカッコ良さだと思う。

騒げばなんとかなる、を越えなければ その1

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最近は、「虐待防止法」と言うようなモノができて、障害者の権利擁護という意味で、なかなかそれはイイコトだと思うのです。

これまで、年金を吸い上げられ働き続けさせられたとか、性的暴行を繰り返し受けていたとか、そういう話は枚挙にいとまがなかったわけで、そういうモノがなくなって欲しいというのは、本当にそう思う。


ただ、ちょっと困ることもある。

例えば、こういうことって、現場の人はよくわかってくれるかと思うけど、よくある。

市丸は、キャパが狭い。
何かを注意された、仲間に何かを言われた、まあその注意されたことや何かを言われたことがどんなに正当なコトだったとしても、頭に来てしまう。
頭には来るけれど、正当なコトを言われているのはわかるから、直接は反論できない。
ある程度までは自分のキャパで処理できるけど、そのキャパが狭いから、イライラが募ってしまう。
そうなると、まず何をするかというと、「ぶつかる」ということをする。
「意図的に人にぶつかっていく」。
それも、まずはソフトに。
それが例えばコバとか仲間内であれば、「またかよ」となって、また怒られる。
そうなると、ますますイライラが募ってしまい、「ぶつかり」がハードになったり、人に牙をむくような態度をとったり、と言う風になっていく。
にじ屋のお客さんにぶつかっていったりもする。

こう言うときに、例えば「??(なにやってんの?)」と何気なく目で注意を喚起すると、「違うよ!ぶつかっちゃったんだよ!」と反論するけれど、どう見ても、意図的であることは明確である。
ま、言葉で「やめろ」と言えば、大声で対抗し、エスカレートするのは目に見えているので、こう言うときはまあ、あまり声を出さない方がいい。

こういうとき、できれば早期にこの状況を脱しないと、コトはオオゴトになってしまう。

だから、ちょっとぶつかった時点で、市丸の場合は正座を勧める。
正座を拒否することもあるが、基本、それには従うので、まあ、そうさせる。

立っているよりも、座った方が怒りは収まりやすい。
しかも、「正座をすれば何とか収められる」という「魔法」をかけているので、「正座しようか?」と静かに言うわけだ。
もちろん、イライラが噴出するほどになっていれば、コレにも従わない、ということがあるが、基本はなんとかそれで収まる。


これ、つまりは「正座をする」というのは、彼の「イライラして人にぶつかりたい」という気持ちを「折る」ことなんである。
だから、「イライラしている自分」「ぶつかりたい自分」は、正座を拒否する。
そして、その相手を見て、「正座をするか」「しないか」を彼なりに考える。
俺か外口さんが相手なら、まず正座はする。
けれども、これが他の専従だったりしたら、従わない時も多い。
つまり、彼の中で、天使と悪魔の闘いじゃないけど、「イライラしてる自分」が勝ってしまうのだ。

ま、それだけなら、専従の力不足、という説明ができなくもない。
だから、それはいい。

しかし、このとき、例えば他にお客さんが大勢いたとすると、大声で市丸は叫び始める時がある。
「俺はなにもしてない!」
「俺は座りたくないんだ!」
とか。

つまりどういうことかというと、その状況で、「座れ」と言ってる側が不利である、と言うことを彼は知っているのである。
「虐待をされている」と認識されることを、知っている。

外でこういうことがあると、「警察を呼んでくれ!」と騒ぐ場合もある。


これ、つまり、それでも「そんな外野は関係なく、ぶつかった君が悪い。ここで止めないと、そのうち人を殴ったりしちゃって、オオゴトになるよ」ということを言い続けなければならないのだが、それでも、そこに警察が来たら止められてしまう。

「イライラして人にぶつかりたいモード」の市丸にしてみたら、してやったり、ということになる。


このことは、結局は、市丸に「騒げば何とかなる」ということを教えてしまうことになる。
こうなると、指導はマッタク成り立たない。


続きます



以前、道場破りで突撃訪問をして以来、電話とかで連絡とり合うようになった事業所の代表の人から連絡があった。何だろうって思っていたら、10日の勉強会の事だった。「ウチの職員なりたて2人を送り込むから、思いっきりいじってやって」だって。初め...

Posted by 虹魂的障害者自立生活 on 2015年7月7日



(BGM:矢野顕子「デイ・ドリーム・ビリーバー」from「矢野顕子,忌野清志郎を歌う」)
→矢野顕子さんのカバーは、もう「カバーじゃない」ということは何度か書いてきてますが、これも例に漏れず。
違う曲です。
かろうじて、歌詞で「ああ、タイマーズか」ってわかる感じ。

薬よりも、まず「実践」

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映像ディレクターの中村氏による我々のドキュメンタリー映画★「凸凹にふくらんだ風船」
映画の予告編はこちら  詳細はオフィスラムカーナまで。

8/10大日本プロレスにじ屋に!など お知らせ&募集などはこちらをクリック
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スーパー猛毒ちんどん単独公演【猛毒の花道】にご来場ありがとうございました!
またお会いしましょう!





てなことで、8/10は皆さんにじ屋に集合だが、ツイッターやってる方は、ぜひこちら@NijiyaBacaNewsもフォローしてくださいな。


というわけで、この前、ダウン症の薬のことを書いたけれど(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-2435.html)、ちょっと思いだしたのは、米国では子どもに向精神薬を大量に与えている、という話。

つまり、例えば「クラスに溶け込めない」というような子に、向精神薬を投薬してしまうんである。
もちろん、製薬会社の陰謀的なコトはある。
今や薬のために病気を作っているというからな。
「ADHDの父」と呼ばれるレオン・アイゼンバーグ氏は亡くなる7カ月前のインタビューで「ADHDは作られた病気の典型的な例である」とドイツの雑誌にコメントしてる。
つまりは薬を売るために「作られた病気」ということだ。

そう考えると、ここ最近、どうも病気の数が増えているように思いませんか?
アレも病気、これも病気、三人いれば文殊の知恵ならぬ、病名がつく、といったような。
もちろん、薬で完治するような器質的な問題も多数あるし、薬を全否定しようとか、そういうつもりはないんですよ。

でも、この、子どもに精神作用を起こさせる薬を与えてなんとかその行動を変えよう、というのは、どうなんだろう、って思うんですよ。

まず、クラスの輪に入れないんだったら、そのクラスの組織をきちんと見直し、いろんな子が生き生きと暮らせるようにするにはどうしたらいいかを教師は考えるべきじゃないか。
それを放棄してしまうことを、この「投薬前提の病名作り」は容認してしまわないだろうか。

そして、これは、究極の「自己責任」でもある。
クラスに問題があるのかもしれない、学校に問題があるのかもしれない、教師に問題があるのかもしれない、のにもかかわらず、「溶け込めないのはおまえの病気が原因だ」と、しかも、その病名を新たに作ってしまうというのは、はたしてどうなんだ?

いや、どうもこうもない、いいわけがない。


先のダウン症の例も、なんだかコレに似ているような気がする。

人って、社会の中で生きているわけで、そこには当然軋轢がある。
その軋轢をどうやって回避するか、どうやってうまくつきあうか、ということが人には求められるのである。
というか、それが社会なんだな。
社会というとでかいから、例えば先の例のクラス、ということで考えるとわかりやすいかな。
個がクラスという「集団」とうまくつきあう術を、学ばなければならないと同時に、集団は、どうやって「個を受け入れるか」ということを学ばなければならない。
これをきちんと両輪で進めていかないと、なんだか話がおかしくなる。

前者だけを強調すれば、個人攻撃が始まるだけだし、後者だけを強調すれば道徳的になりすぎ、人の持つ「人間だもの」的な、様々な部分が抑圧され、イジメが陰で誘発されるようになるかもしれない。
これは微妙なバランスが必要で、そのことをまずきちんと認識してクラス運営をしなければ、学校など成り立たない。

それをきちんと学校という、クラスという単位で会得するからこそ、社会の中に巣立ったときに、そうした「適応」と「受け入れ」という感覚を、自然に発揮することができるのである。
それがうまくいかないからって、「投薬します」ってのは、どうなんだろうか?


もちろん、一部には投薬が必要な場面がないとは言わない。
オレが知らないだけかもしれない。
しかし、少なくとも米国では「ADHD治療薬とされる、メチルフェニデートの75%は子どもに処方されている」という事実なんであり、「投薬が必要な場面に使っている」のではない、ということを示している。


これを真似しちゃいけないと思う。
医療を尊敬する、というか、敬う気持ちは大切だと思うが、だからといって盲信してはいけない。
それはある意味、カルトと同じである。

そのことを、我々現場サイドはきっちり認識しなければいけないと思う。




にじ屋ブログが最近なかなか面白いぞ!みんながんばって書いておるようだ。虹の会本体HP「NIJIROCK.COM」からどうぞ!

親から独立した生活をしたいと思っている障害者の方、親の元気なウチになんとか障害を持つ子どもと離れて暮らす方向に持って行きたいという親御さん、親亡き後の不安、などなど、その辺の相談にのっています。お気軽にどうぞ。
まずはコメントください。非公開で対応します。


(BGM:VIOLENT ONSEN GEISYA+D.M.B.Q.「MOOD OF MODS GENERATION」from「DIGITAL CATASTROPH 1997 ZK original take」)
→中原昌也さんですね。
ノイズと言っても、VOGの場合は、どっかポップな感じがする。
いわゆる、エンターテイメントとして成り立ってるというか。
そのギリギリ感が好きですね。

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