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スーパーちんどん・さとう

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我々は「防波堤」にはならない

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ああ、誤字の方をのっけちゃったけど、でも、4・3はぜひライブにきて!メール予約受付中!


てなことで。
ずっと前に、そのずっと前に、あるヤツがコンさんに包丁を投げた、という事件がありました。
突発的なことだったようだけど、まあ大事件は大事件。

この件について、コンさんから報告のメールが出て、まあいろいろ考えて取り組んで、その後、特に問題はないんですけど。

で、そういう感じで一段落したときに、オレはちょっとコンさんの報告で気になることがあって、みんなに返信しました。

以下に載せてみます。


ずっと前に、コンさんから、包丁事件についてのメールがあったときに、もしその包丁がコンさんに刺さっていたら、●●も終わるし、虹の会も終わる、と書いていました。
ずっと気になっていて、なかなか書けずにいたんですが。

これ、終わらないんです。

●●が投げた包丁がコンさんに刺さって死んでも、ただの殉職なんですよ。
●●に関しては、こちらの指導不足とおそらく、責任能力無しで終わりです。

よくよく考えてみてください。
今まで、職員側の暴力で閉鎖された施設はたくさんあっても、逆がありましたか?
けど、入所者から職員への暴力がゼロじゃないことくらいは、肌でわかりますよね。
でも、問題になってないでしょ?
公になりましたか?
もっと言うと、公にならない以上、つぶれることはないんです。

仕組みを言います。
施設やウチのようなところは、障害者と健体者社会の防波堤のために作られてます。
だから、障害者の暴力が外の人に危害が及ばないことが社会の「コンセンサス」なんです。
そうやって、障害者を枠に押し込めながら、一方で、障害者の権利だとかで虐待防止法が出来る。
虐待防止法ってのは、そういう「24時間テレビ的偽善」なんです。
簡単に言えば、虐待を防止するのには賛成です、だったら、一方で、カイに噛まれることを社会は許容すべきなんですが、それは虐待防止法には出てきません。

片手落ちも甚だしい。

よく、福祉にからんでない障害者や精神障害者が事件を起こすと、何故福祉は手を出せなかったんだ?という話になります。
それは、意地悪く言えば、「防波堤の中に、なぜおまえみたいのが入ってなかったのか?」という問いなんです。

そう考えると、だから、まず施設はダメなんです。
防波堤として、閉鎖された空間を保持しているから。
そこで起きたことが社会に開示されない限り、問題はなにも起こらなかったことにしかならない。

そこをオープンにして、我々は、この全てのことを表現し、先に進まなきゃならないと思います。

一歩進めます。
こういう場合、まず、「職員の指導能力」という問題に帰されてしまう。
つまり、それは「防波堤のはずなのに」という論理です。

でも、その論理を正面から受ける必要はない。
なにが突発的に起こるかわからない。
しかも、●●は来たばかりだし、もっと言えば、今日のカイだってなんだかよくわからない。
そんなの、予言者でもない限り、予知することは不可能。

だいたい、これ、親がそうやって、その「責任能力」「指導能力」を責められて心中するパターンなんです。
でも、意地悪く言えばさ、そうやって心中して欲しいんですよ、世の中は。
そもそも、最初に親が防波堤なんだから。

我々がやっていかなきゃならないことは、そういうカイや●●のことを表現し、どうしたら防ぐことが出来るか、ということを、社会に提起することだと俺は思います。
もちろん、いきなりそれをやったら反発を喰うだけでしょう。
順序というモノはあるかと思います。

でも、必要なことはそこであって、防波堤でいることを肯定してはダメだと思います。
「自分が止める」「止められる」なんてのは、防波堤の姿そのものなんだから。

その上で、「何かあったら虹の会が終わる」というのは、あり得ない、ということであるから、つまり、社会にとっては、防波堤をつぶしただけの話になる。
だから、それをやっては、だめだ。
虹の会がつぶれるから、じゃなくて、「やってもつぶれないから」そうなっちゃダメ、なんだと思う。


ちょっと補足が必要な気がするので、それは次回。





(BGM:曽我町子「バッテンロボ丸」from「東映不思議コメディーテーマソング集」)
→ま、ロボコンの流れですな。
どうなんだろうな、調べてみたら82年の作品みたいなんで、思い入れもあまりないです。
けど、この流れの主題歌はなかなか面白いので、カバーできないかと聞いてみたりしてるわけです。
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「発達障害で求刑超え懲役20年判決」 について

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映像ディレクターの中村氏による我々のドキュメンタリー映画「凸凹にふくらんだ風船」無事完成!
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いつかこんな判決が出ると思っていた。

産経の記事。
大阪市平野区の自宅で昨年7月、姉=当時(46)=を刺殺したとして、殺人罪に問われた無職、大東一広被告(42)に対する裁判員裁判の判決が30日、大阪地裁であった。河原俊也裁判長は、犯行の背景に広汎性発達障害の一種、アスペルガー症候群の影響があったと認定した上で「家族が同居を望んでいないため障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが強く心配される。許される限り長期間、刑務所に収容することが社会秩序の維持に資する」として、検察側の懲役16年の求刑を上回る同20年を言い渡した。
(発達障害で求刑超え懲役20年判決 「社会秩序の維持に」産経新聞 7月30日(月)20時39分配信)

簡単に言えば、「何するかわからないから、社会秩序のために隔離」ということだ。

もちろん、これに関しては反論も多かろう。
同じく産経は後追いでこんな記事も。

発達障害に詳しい六甲カウンセリング研究所の井上敏明所長(臨床心理学)は「アスペルガー症候群だからといって、すぐに再犯に走るわけではない。発達障害には家族など周囲の理解が必要だ。単に刑務所に長期収容するだけでは何の解決にもならない」と批判した。

もちろん、こういう反論も。

元最高検検事の土本武司筑波大名誉教授(刑事法)は「責任能力に問題がない以上、刑罰を決めるにあたって最も重要な点は社会秩序の維持だ」と強調。「検察側の求刑が軽すぎた。裁判員の判断の方が常識にかなっている。裁判員裁判を導入した成果といえるだろう」と述べた。
(発達障害で求刑超えた判決 「国民感覚に沿った判決」「すぐに再犯に走るわけではない」評価分かれる 産経 2012.7.30 23:31 )


つまり、「世論は隔離に賛成している」という見方もある、ということだ。


俺は、ずっと「知的障害者に対する犯罪に対して、世論は厳しくなっている」という話をしてきた。
だから、「絶対にウチの仲間に犯罪を犯させてはならない」と。
もちろん、「軽ければやってもいい」というわけではない。
オレが言いたいのは、「知的障害者であるから、この程度は許されるはずだ」という「思いこみ」はもう通用しない、ということだ。

前に、「知的障害者に痴漢されたらどうしますか?」という文章を書いた(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-773.html)。
もちろん、俺は厳罰に処するべきだと思っている。
でも、それはあくまで「知的障害者は痴漢するから隔離」を指してはいない。


多くの人は、知的障害者のこだわりが消えない、と勘違いしている。
それは違う。
その取り組みをこそ、きっちり毎日の実践の中から産みだし、交流し、共有し、より確度の高い取り組みを生み出さなければならない。
果たして、そういう連携が今とれているかというと、それは俺のわかる範囲ではあまりない。

知的に障害があろうがなかろうが、ダメなことはダメだと教えなければならない。
そうでなければ、こういう判決は今後も増える。
道行く女性の袖を引っぱり続けてニヤニヤわめいているヤツがいたら、それは、「社会の驚異」として、隔離される。

だからといって、障害を否定しているわけではない。
そうじゃない。
世の中に脅威を与える「こだわり」は抑えていくための方策を自分たちはしっかり考えなければならない、ということだ。
「女性の袖を引っぱるこだわりがあるということをわかって下さい」というだけでは、もう世の中の多様性には対応できない。


ダメなことはダメ。
これは、簡単なことなのだ。
けれども、今まで、多くの親や関係者が「この子の障害を理解して下さい」というだけの運動を続けてきてしまった結果、逆説的に「では、それに対して恐怖を感じてしまう人はどうなるのだ?」ことを突きつけられている。
つまり、こうやって、市民を二分してしまう形になってしまっている。
これは、障害者運動が目指してきたモノではないはずだ。


今、自分たちは、世論をも相手にしなければならない。
もちろん、敵対ではない。理解を求めるわけだが、それには、こちら側の努力が不可欠だ。
ただただ「この子のことをわかって下さい」は、もう通用しないのだ。


関連記事
http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-995.html
http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-1104.html



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(BGM:四人囃子「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」from「一触即発」)
→俺はまったくリアルタイムではありませんが、このプログレ感には今聞いてもヤラレます。
特に、この曲は、なんでしょう、「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」という日本語が、あまりにも自然にメロディにのってきまして、「ロックに日本語はあわない、なんていったヤツは誰だ?」って気分になります。
これはシングル発表だったようで、組曲感という意味ではイマイチ食い足りませんが、それでも壮大な夕暮れ空が頭の中に浮かんできます。

先生!社会の趨勢に負けるな!モンスターペアレントに負けるな!

スーパー猛毒ちんどんは、「なにかしらのFES的なモノに出る!」という明確な目標を持って、新たに突き進んでいく所存であります!みなさん応援よろしくお願いします!
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昨日は一斉ビラ配りということで、たくさんの方に来ていただいて、ありがとうございました。
途中雨模様になって、最後の方はちょっと中断したチームもあったようです。
それでも1万8千枚越えを配れたようです。
これで提供品の電話がまたかかってくるかと思います。
ありがとうございます。


陽子が、学生の時に来てくれていて、今は学校の先生になっている人を呼んだりして、一番枚数を配ったということで、ビラ配りで最も権威のある「ゴールデングローブ賞」を受賞。
こういうことってとても大切だと思うんですね。
ともすると、障害児教育学なんかを学んでいる学生の時は手伝いに来てくれていても、先生になったりすると来てくれない人とかもいる中で、こうやって来てくれるというのはうれしいことですね。
自分の受け持っている子の未来がココにあるわけだから、やっぱり共に生きていく姿勢というか、そういうのを見せてくれると「未来が明るい」と思える。

どうしても、どんどん子どもに対する見方がミクロになっていくんですよね。
今、どうやって教案を作ろうか、どうやったら学校の方針にのせられるか、確かにとても大切なことだけれど、学校教育の真の目標は「社会に出て行ける力をつける」ことにありますから。
進路にしても、どっか「押し込めばいい」的な、養護学校、今は特別支援学校なんかでは、親に対して「卒業後の作業所の準備をしておいて下さい」なんてことを教師が平気で言ったりするそうだから、この辺はやっぱり教師の考え方は偏狭になっている気がします。
「社会で生きる」「地域の中で生きる」ということは、その子の力をつけることでもあり、社会を整備していくことでもあります。
どちらも大人の責任として、個々が考えていかねばならない問題ですが、その間口にいる教師が偏狭になってしまうと、どうしても子どもへの対応がずれてきてしまう。


カイは、あいさつができない。
「お願いします」「ありがとうございます」がハッキリと言えない。
頭を下げるという「行動」も難しい。
それでいて「餃子」は言えたりする。
これはやっぱり、なにかがおかしい。

正直なことを言えば、彼はこの先も一生、誰かに助けてもらうことが必要になる。
買い物にいっても、財布からお金を出してもらわなければならないかもしれない。
迷っていたら、誰かが道を教えてくれるかもしれない。
そんな時に、一番大切な言葉は「ありがとうございます」であることは明確なのに、それが言えない。
社会とのつきあいの中で、彼がまず覚えなければならないのは「ありがとうございます」であって、「餃子」ではないことは明らかだ。

これは、親との関係の中ではあまりきっちりやることができないことでもある。
というのは、親はいつでもやって当たり前だからだ。
子どもが泣けばおっぱいをやるのは当たり前で、そのたびに「ありがとうございます」を強要する親はいないし、そもそもそれはおかしな話だ。
家庭の中から社会に出る、その時点で必要になる言葉が「ありがとうございます」なんであって、それは彼らが一番先に家庭を出て生活をおくる学校のなかで身につけなければならないことだとオレは思う。
それができないというのは、彼の15年間の学校生活で、正直言えば、彼はなにも身につけていない、ということと同じだと思っている。


小さい頃にきっちりこの「習慣」を身につけさせることが大切だ。
これは習慣だ。
やりたいとかやりたくないとかではなく、人になにかを取ってもらったら「ありがとう」、というのは習慣として身につけなければならない。
これができていないで20年間生きてきて、今からこれを身につけさせるのはかなりたいへんなのだ。
まあ、でもやるんだけど。


今の学校は、「子どものしたいことを優先させる」ようなことが最善だと思われていて、こうした「習慣を身につけさせる」ことすら「したくないことをさせて!」と責めるような風潮がある。
けれども、教育とは、文化を継承することでもある。
日本の文化、慣習、もっと言えば科学の積み重ね、豊かな語学の歴史、そういうことを継承させなければならないのだ。
そうやって、「一人前の社会人」として世に送り出すのが学校の責務だ。

その中では、別に本人がしたいかどうかはあまり関係がないのだ。
習慣として身につけさせるということは、一人前の日本人として必要なことなのだ。
学校とは、知識だけを詰め込む場所でもなければ、本人のしたいことだけ学ばせればいい場所でもない、とオレは思う。

習慣をつけさせることが、大人になってからでは難しいことをぜひ学校の先生にはわかってもらいたい。
放置すれば、行き過ぎて「オレのしたいことを通すために」が結果的に人に危害を及ぼし、それが犯罪行為とみなされないとは限らない。
子どもの力なら抑えられることも、身体が大人になったら、その力を止められないこともある。
慣習をきちんと小さい頃から叩き込んでもらわないと、大人になってからでは難しい、というか時間と労力がよけいにかかるのだ。
本人が結果的に犯罪を犯すような悲しいことにならないように、きっちりと小さい頃から社会の慣習を叩き込んでほしい。
我々もがんばるけれども、学校で、小さい頃からきちんとやってほしいと思う。
こういうことを、ぜひ、卒業後のこの場に来て、感じてほしい。
先生、がんばって下さい。
モンスターペアレントに負けないで。俺たちも負けません。




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(BGM:ガガガSP「振り出し人生」from「声に出すと赤っ恥」)
→「これからは理由や根拠なんてなくてもいい やろう」
だな。
こうまあ、ストレートに言われちゃうと、確かにかなり恥ずかしい。
でも、歌ってる自分がいたりして。
なにをするかは、なんにも語られないけど、とにかく「やろう」。
そうね、なんでもいい。
とにかく、理由なんかどうでもいいから、やろうじゃねえの。

法を犯させた側の責任 ~実際編

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ジャパンツアー第3弾!ゲストはYK型(吉田照美さん+小島嵩弘さん)!3/4(日)18:00open!  
YKビラ表  詳細はこちら→ジャパンツアーチケット購入方法等詳細情報




http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-1319.htmlの続きとして読んで下さい。


先に光市の事件のことを書いたけれど、同じようにネットの連中に対しても思うところがあります。
ウチのKが傷害で昨年捕まってしまったわけですが(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-1104.htmlのシリーズ参照)、その時もすごく思ったんです。
「これは我々の責任である」

もちろん、ここは子どもが集まる場所ではなく、大人が集まる場所だ。
だから、社会に対しての責任はおのおのにある。
当然、何かがあれば、その責任は本人がとる。
これが基本の考え方だ。


しかし、現実的には彼らの中身は大人とは言いがたい部分がある。
つまり未成熟な部分が多い。
知的障害と言われるわけだからそりゃそうだということになるんだけれど。

この状況の中で、まず大切したいのは、「だからといって責任を取らせない、という選択はない」、ということだ。
知的障害だから責任がとれない、と決めつけてしまうことは避ける。避けたい。
というか、あってはならない。

つまりは、本人は「責任がとれる大人になる」、そして親も含め周りは「責任がとれる大人にする」ということを常に目指していなければならない。
じゃなければ、先の「死刑にならないから凶悪事件を起こしても大丈夫」という若者を生産することと同じになってしまうのだ。

ここはだから譲れないんです。


そんな前提の上に、「犯罪に荷担しない」「犯罪を犯さない」ということをどうやったら教えられるか、徹底できるか。
被害者を生む以上、犯罪を犯してはならない。
殺人事件を前にすれば、痴漢くらいいいじゃないかなんて、そんなことはないですよね。
痴漢された側にしてみれば、それはもう大変なその後のトラウマになることだってある。
犯罪に大きいも小さいもないんです。
あるとすれば、それは「結果」だといえるかもしれない。
だから犯罪が行われている場面においては、大きいも小さいもない、と考えるべきである。
我々が考えなければならないのは、犯罪が起きていない未然の今の状態において、大きいも小さいも、犯罪を犯させてはならない、ということでしかない。

この程度だったら責任能力なしになるのではないかとか、そういうことは今考えるべき事ではない。
それは「死刑にならなかったら」という馬鹿者と一緒である。
だから、「この程度だったらいい」ということはまず毎日の中で廃していくこと、である。

例えば、パニックを起こして人を殴ってしまう、という場合は、何を置いてもそれは止めるべきモノである。
つねる程度だったらいいのか、知ってる人だったら良いのか、親だったら良いのか…、いや、全部ダメである。
だから、なんとしてでもそれを止める手立てを本人も、そして周りも必死に考えなければならない。
とはいえ、なかなかそれはゼロにすることは難しいわけだが、けれども、だからといって、どっかで「この程度ならば…」と手を止めるべきモノではないのである。
ゼロをきちんと目指さねばならない。

したり顔で「自閉症にはパニックがあるんですからしょうがないんです」などという専門家の意見は、犯罪が起きた場合になんの影響力も持たないことを覚えておくといい。
そんなことで被害者は生き返らない。
専門家の知識は、それをゼロにするために使うべきであって、「この程度なら」を是認するためのモノであってはならないのだ。
少なくとも、我々こっちサイドがそれを是認するモノとして言ってはいけないのである。


こういうことを言うと、親御さんの中には虹の会は厳しいからウチの子は無理、などと言う人がゴマンといます。
その人たちは、自分が何を言ってるかわかってない。
社会に「犯罪を犯しても手加減して下さい」と言っているのと同じだ。


俺が言いたいのは、我々サイドは、ゼロを目指すことだけを考えるべきだ、といっているのだ。
そのために必死になるべきだ、といっているのだ。
こっちサイドが、ゼロにならないいいわけを専門家然として準備することではない。
これは、別に普通にあたりまえの話だと俺は思うのだが。




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(BGM:酒井俊「愛燦燦」from「夢の名前」)
→美空ひばりさんの曲ですね。
「わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして 人は哀しい 哀しいものですね」
人生とは何か、と考えてしまう時、きっと答なんかないんだけれど、考えてしまった時点で、なにかさがしているモノがあるっていうことなんだよな。
そこにこだわっちゃうとまあ、ドツボにはまっちゃうんだけれど、それでも毎日が過ぎていって、イイ日もあったり悪い日もあったり。
そんなことを繰り返して、きっと死んでいくんだな。
だから、オレは考えるまい、ただただ毎日、請われたことを一生懸命こなして生きていこうと思う。

虹の会の職員誰もが、犯罪の加害者にも、被害者にもならないために⑧

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11/12(土)ついにジャパンツアー第2夜!
ゲストは、あの制服向上委員会に決定!
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http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-1111.htmlのつづき。


自分のことより人のこと、人の役に立つこと


先に書いたように、今回のことは、「意志の尊重」に傾きすぎている部分のバランスを取り直す、という作業でもあります。
さまざまな場面で意思を尊重することは大切なことですが、反社会的なことに至ってしまうことを尊重する必要はありません。
どこまでが反社会的か、という判断は難しいところがありますが、今のところの判断としては、無関係の他人が介在するようなこだわりの行為や、無関係の人が脅威に感じるような行為、というのは、やめさせるように努力していく必要があると思います。
それも前段で書いたように、一人の部屋でオナニーしている分にはいいわけですが、外でポコチンをいじっているようなことは他人への脅威になる。
同じ行為でも、その場所やタイミングによって脅威になったりそうでなかったりするので、そこはあくまで他人が介在するかどうか、だと思います。
そして、社会の中で生きるというのは、個人の自由、個人の意志、個人の思いがすべて通るわけではない、ということをしっかり認識することが大切だと思います。


よく、ネットで、私は「自分のことはあと、人が先」ということを言います。
我先にと行動するのではなく、人のことを考えて譲り合ったりすることが大切だ、ということです。
そうやって譲り合うことは、心地いい空間を作ってくれると私は思います。

よく昔は、「人の役に立つ人間になりなさい」と親から言われたものですが、今の時代は「自分のしたいことをしなさい」と親が言うことが多いように感じます。
でも、自分のしたいこと、は全部できるとは限らないんです。
社会(集団)とのせめぎ合いの中で折れなければならない部分も多くあるし、そもそも能力が足らないということもあるかもしれません。

私は、今こそ、この「人の役に立つ人間になること」「自分のことより人のことが先」ということをこそ、きちんと社会で生きるためのルールとして、しっかり認識する必要があるのではないかと思っています。
ものごとが自分発信であることは素晴らしいことではありますが、一方で他人が発信したモノも受け入れなければそれは成り立たない。
お互いにそれを実現していくためには、お互いがお互い「主人公として生きている」ということを十分に理解する必要があると思うんです。
それは、他人の存在を自分に入れるということで、産まれてすぐの「ヒト科の動物」から社会的な動物としての人間に成長していく過程そのものだとも思うのです。

朝は眠いかもしれないが、自分が仕事に行かなければみんなが困る、とか。
そういう「自分の欲求」を越えることのできるような集団づくりを我々は目指さなければならないし、自分の欲求よりもみんなのことを考えられるような個人の認識を作っていく必要があるのだと思います。



この子を生んだ不幸、という世の中を変えるために


この話を進める中で、井上からこんな話が私にありました。
「親って、やっぱりオレらに申し訳ないっつうか、なんかごめんなさいっつうか、そういうのがあるのかな」
私は、こう答えました。
「そうだよね。それは親だからね。オレもそうだね。産んだ子どもが障害児だったとか、おまえみたいに心臓が悪かったとか、そういうことになったら、できることなら代わりたい、と思うよ。きっと幾晩泣いたのか、きっとおまえの親だって、今、おまえが一人暮らしをした今ですら、まだ自分を責めていると思う。そのくらい、悩み、苦しみ、おまえらを育ててきてくれたんだよ。」


障害を持った子を産み、どんな親でも、元気で産んでやれなかったと自分を責めます。
代わってやりたいと真剣に願います。
その思いがそのまま、「この子の良きように」「したいようにさせてあげて」という対応になってしまうのも、わからなくはない。
けれども、その結果、被害者を産むようなことがあったら、本当に人生を棒に振るのは本人はもちろん家族、そして本人に兄弟姉妹がいれば、彼らの人生も終わりだといってもいい。

社会にはルールがある。
それには従わなければならない。
これは、知的障害であるからといって免れるモノではないのです。
逆を返せば、その子が知的障害者であれ、そうでないにしても、社会や家庭が子どもに教えなければならないことがあります。
そうしたことがしっかりと認識された上で、知的障害者であるということで、プラスとして何をかの手をかけていくことが必要なのであって、そのことが放棄されていいわけはないと思います。

こうした行動とあわせて世の中に理解を求めることで、地域の中に本人が安心していられる場所が作れるのではないかと思います。
大切なことは、この「本人が安心していられる場所」をどう作るか、ということですね。
今の状況は、かなりアウェーだと考えていいと思うんです。
それは、一方的に「理解して欲しい」を主張してきた結果のような気がしています。
「健体者が障害者に文句が言いにくい」という現実の中で、このことは「強迫」となり、冒頭に書いたような個別の問題の中では「脅威」になっていることも少なくないと思うからです。
このことを一回フラットにバランスを取り直す必要があると思います。

そのために、我々は、こちらを理解してもらうためにも、社会を受け入れる必要がある。
そのバランスをしっかりととりながら、より豊かな、そして安心して暮らせる地域社会を拡げていく必要があると思います。


このシリーズ終わり。

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