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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
ちんどん太鼓担当

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虹の会機関紙先月号からいくつか紹介します。

ぜひ機関紙は読んでもらいたいのですが、現在紙版しかないので、にじ屋などで入手して下さい。
DMとかくれたら郵送も可能。
年会費(千円)を払ってもらうと毎月郵送します。


【投票したい障害者への壁】ハトミ

申請しようとしていた郵便投票だけれど、字が書けない私は代理記載も合わせて申請が必要で、代理記載人は一人しかなる事が出来ないから、複数の介助者を使って生活している私には、介助者の1人が代理記載人になっても、投票したい時にその介助者がいるとは限らないし
意思はあるのに字が書けないだけで投票したい時に投票できないなんておかしい。
私の見ている前で候補者名を書いてもらうだけの事なのだから、誰だっていいじゃない。不正が心配?わざわざこんな面倒な手段を取ってまで何をしようっていうのかしら?
だからせめて、複数の人を申請させて欲しかった。7月21日に再度選管に問い合わせてみるも、やはり駄目だった。埼玉県知事選が迫っていることもあって、投票しない訳にはいかないから不本意ながら、週に比較的多く介助に入っていて私の家に近い方に代理記載人になってもらう事にしたの。あとは申請するだけ!余裕を持って投票できる!
だがしかし申請に必要な障害者手帳がまだ届かない。決定は下りているはずなのだけれど。27日支援課から電話がなく私の相談支援専門員をしてくれている訪看さんに確認を取ってもらったところ、障害者手帳は一級に変更され8月1日以降に郵送されるとのこと…
それじゃとても間に合わない!!
翌28日訪看さんに取りに行っていただきました。本当に助かりました。その日のうちに申請する書類を揃えて翌29日に投函。7月31日、選管から電話がありました。申請が下りて、郵便等投票証明書と投票用紙等の請求書を同封した書類が本日中に届きますと、8月2日までに投票用紙の請求を同封してあるレターパックで送って欲しいとのこと。実際まだ届いてもいないというのに間に合うのかしら?実際に届いたのは夕方で、選管からは投票用紙の請求書を直接区役所に持って行くのが確実とも言っていたので、2日の夜勤明けの介助者の方にお願いして届けてもらいました。
なんとか間に合ったよ。ありがとう。じ…時間がなさすぎる…
その日の夜、投票用紙が送られてきました。期日前投票は5日まで、ここで代理記載という決まりがなければ今いる介助者にすぐにでも書いてもらえるのに
なんてじれったいの!!!
代理記載人になっている介助者のシフトの兼ね合いもあって、その日のうちに書きに来てもらったの。なんてありがたい。今回の投票は間に合わないかもしれないと諦めそうになったけれど、やれるだけやろうと思い。たくさんの方の力をもらって間に合うことが出来ました。感謝の思いが溢れてくる…
次回は余裕を持って投票ができそう。
ただやっぱり、特に私のように字が書けず複数の介助者を使い生活するものにとって、代理記載制度は本当に使えないっていうか投票したい障害者へ壁を作っていると思う。ネットニュースで障害者の投票率、障害が重いほど低い傾向にあるって見たけれど、重ければ重いほど本人が大変というか、選挙に限らず周りの制度や環境が大変にさせてるだけなのよね。


【迷惑かけるべきなんじゃないか】あき

「男たちの旅路」というドラマの「車輪の一歩」の回を見ました。
このドラマ自体知らなかったのですが、例の研修で見た動画で一部紹介されていて、これは全編見てみたいと思い探してみました。
車いすに乗った青年たちが、職場をクビになったり、アパートを追い出されたりして途方に暮れ、声をかけてきた警備員の兄妹に絡んだことがきっかけで、その警備員兄妹の家に「家が無いから泊めてくれ」と押しかけるのです。排除したことを申し訳なく思っていた兄妹は「家が無いなら泊まっていけよ」…となるのですが、もうこれだけでドキドキです。その兄妹は、最初ビルの前にたむろしている車いすの彼らを「車いすだからって迷惑かけてイイって事ないんじゃない?」と明るく排除しようとしてたのですが、職場に押しかけ、自宅に押しかけてくる彼らの話を聞くウチに、アパート探しを手伝ったりしはじめるのです。仕事が終わってからの不動産屋回りで寝不足になり上司にも事情を聞かれ、どんどん人が巻き込まれていきます。
これ、いつまで続けられるんだろう…と思っていたら、車いすの青年の一人が「実は…」と、二人に取り憑いたのは嫌がらせだったと告白します。
これ1979年に放送されてたのだそうです。
このドラマのメインは、むしろこの後出てくる家に閉じこもっている女性を引っ張り出すところだとはおもうのですが、最初から、障害者の側も、障害者ではない側も、思っているコトをストレートにぶつけ合っててすごく引き込まれました。
最初に書いた言葉は、兄妹の上司が車いすの青年に言った言葉でした。
しかし青年たちは「俺たちは遠慮しているから受け入れられてるんだから、そんなのが許されるほど世の中甘くない」と言うのですが、それは「世の中がおかしい、世の中を変える必要があるんだ」というのです。研修の話に戻ると、研修で使われていた動画では、この「迷惑をかけるべきだ」というところのセリフを、障害者ではなく健体者に言わせた脚本家の想いが紹介されていたのですが、驚きました。障害者に言わせたら社会の反発があるだろうという判断だったようなのですが、良くも悪くも読み通りというか。
今から40年以上も前に、無知や思い込みから「迷惑かけていいってわけじゃないでしょ」と言ってしまったというところから、実際付き合ってみて「いや迷惑かけるべきなんだ」ということにまでたどりつけていたのに、そこから今の状況も変わっていない。ということはむしろ後退しているのだろうなと思います。
昔の「差別」の方が悪気がなくストレートでわかりやすく、知ってもらえばわかるはずと希望が持てていたから、こういうドラマが作れたんだろうなと思います。
いまは?「ノーマラーゼーション」だなんていろんなところで言われてるけど、「国鉄に乗るだけで3日前から連絡して、ペコペコ頭下げてお願いして、小さくなってないとイケないのよ」という状況、まだ変わってないんだよ。かなりショックでした…。(了)


【お笑いへの道】草薙

仕事の関係で知り合った人と短期間限定でお笑いコンビを組もうと誘われ、この夏はキングオブコントとM-1グランプリに出場した。出場した、といっても大げさな話ではなく、エントリー費を3000円程度払えば誰でも参加できる。そのため、夏休みに入った小学生同士で組んだコンビなどが、記念受験的に一回戦に出場することはよくあるようだ。  とはいえやるからには本気で突破を目指したい。相方が書いた台本に赤を入れ、カラオケで何度も自主練した。新宿の地下芸人ライブに出てネタの感触を試し、友達に見てもらってアドバイスを求めたりなど、短い準備期間の中でできるだけのことをして、本番に臨んだ。  結果はどちらも敗退だったが、コントも漫才もお客さんにしっかり笑ってもらうことができた。いまだに、自分が意図して誰かから笑いを引き出せたということが信じられない。また、本番前に楽屋で待機している間、若手の芸人の姿を見ることができたのもいい経験だった。芸人というと、根が明るくて元から面白い人というイメージだったのだが、本番前楽屋にいる芸人たちは、みんな緊張した顔つきをしていて、必死に小声でネタ合わせをしていた。いまいちウケが取れずに舞台から帰ってきた芸人が、真っ青な顔をしていたのも忘れられない。お笑い事務所に所属している芸人だろうと関係なく、たくさん落ちていくのが賞レースだ。これで受からなければまたチャンスは一年後。命がけでお笑いに臨んでいるかっこいい人たちが、こんなにたくさんいるとはとしみじみ感動した。しばらくお笑いには取り組めそうにないが、またチャンスがあれば本気で挑戦したい。


【野球観戦】みずえ

イチマルさんから、なんと野球のお誘い。野球行くなら誰を誘いたい?みずえさん!ということを言ってくれていたそうで、嬉しかった。プロ野球は行ったことなかったので、ワクワクだった。ルールとかよく分かっていないので、イチマルさんに教えてねーと言ったものの、なんと一緒に行くコウヘイさんが、ルールを紙に書いて持ってきてくれました。盗塁とか、VARとか⋯。ありがたや。
そして初のベルーナドーム!ライオンズの過去のユニフォームロゴが入った、首にかけられる扇風機を一人一人に配られ入場。これを全員に配っているのかー。そして、人、人、人。ドームが埋まるわけだから、野球人気ってすごいんだなと思った。
当たり前だけれど、全体がよく見渡せるいい席だった。
席は左から、イチマルさん、私、コウヘイさん、あきさん、佐藤さんの並びで座った。あきさんからコウヘイさん、コウヘイさんから私へ伝言ゲームのようにルールなど教えてもらった。
中でもびっくりしたのは、試合途中で入るエレクトーンの音。実は生演奏なんだよ、と教えてもらった。生演奏でってスゴい!なんという贅沢。
あと、私設応援団がかっこ良かった。全体をみて仕切り、それに合わせてトランペットや太鼓の音が響きわって、観客も手拍子したり旗振ったり。応援って、選手もかなり力になるのだろうなと思った。対戦相手の日本ハムファイターズの応援(だけではないかもしれませんが)も素敵だった。男性パート、女性パートでわかれて声援送っていて可愛らしかった。冷静に全体を見て仕切る、自分もそうならないとなとも感じた。
席外した途端にホームランが出たり、点が入ったら一斉に旗振ったり、西武ライオンズのマスコットキャラクターレオがめちゃくちゃバク転したり、全部新鮮でずっと楽しかった。
ちょっと衝撃だったのは、イチマルさんがいつも「オレ、外口さんと名前が一緒のソネザキ選手好きなんだよー」と言っていたのだけれど、実は「外崎(トノサキ)選手」だった⋯。
推しの選手のタオルを掲げて応援しているのが、大きいモニターに映っていたのだけれど、鈴木選手のタオルの中になんだか見覚えのあるタオルが。「鈴木軍」タオルだった。プロレスファン混じってました。
そういえば、亡き父は毎週ソフトボールやっていた。プロ野球をテレビで観ていたり、カーラジオでずっと聞いていたりしていて、当時の私は野球の魅力がわかっていなかった。もっと早く知っていたら、一緒に野球観戦に行っていたかもしれないなと思った。
今回、イチマルさんが誘ってくれたおかげで貴重な体験ができた。ルールや選手のことを教えてもらいながら、知らなくても一体感を味わえ楽しい時間を過ごせました。イチマルさん、ありがとう。


【以下、今回俺が編集したところで入れたカット写真の一部を】

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(BGM:PUFFY「パフィーのお昼寝」from「アジアの純真」)
→「どーじゃい!」
というわけで。
パフィーはこういうのがいいよね。
脱力と勢いの両立というか。
なんか長くやってると自分で歌を作りたくなっちゃったりもするんだろうと思うけど、そういうのを前面に出してこない感じとかも好き。

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弱さを見せよう


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機関紙7月号にスズがにじ屋・ネットの今年度の方針について書いているので、それを載せたいと思います。
プラス、ミツが書いたマジシャンの鉄丸さん、いや、ノーヴハッセルアベさんが来てくれた時のことを書いていてなかなか面白かったので載せます。
プラス、リオが書いた初プロレス観戦の記事も。


ネットの方針★すず

 今年度のネットの方針、「ゆっくり、明るく、全員で皆を楽にする。自分の弱みを見せよう」を目指し始め早2ヶ月程経ちました。6月の臨時号でも書きましたが、去年のネット方針は「ゆっくり、明るく、全員で皆を楽にする。味方になろう味方を頼ろう」。
 皆に頼ってやりたかったことが大成功した(サプライズでのお祝いとか)とか、あとオグラさんが歯医者に行ったっきりネット事務所に帰ってこず、タカノブさん、こんさん、コウヘイさんで電話したり家に探しに行って迎えに行ったり、なんてことも。頼る人が助けてもらって良かった!と思うのはそうだけれど、この人になら相談できる、と誰かに思ってもらっていることは自信にもなるし、頼られる側の人も嬉しいんだ、という事に気がついた一年だったなと思います。結構方針に近づけた感じ。
 そんな中、はっとするようなキーワードを出してくれたのが、なんとオグさん。「相手に何て思われるか分からないから怖くて言えない」というもの。オグラさんはにじ屋で仕事中分からないことがあっても、聞くのがコワイからというのが勝ってしまい、わからないのに適当にこなしちゃう、もしくは固まってしまう、ということは結構よくあって。
 そのたびに「聞けば良いのに!何で言わないんだよ!」と皆に言われてきたけれど、言えなかった理由を出してくれて嬉しかったし、理由は違えど、コレっておぐさんだけが思うことじゃないよね?という事を皆感じ取り、ここを切り口に一旦代表の人たちで預かって、皆に次の方針を提案しよう、ということになりました。
 そこで、去年にじ屋ルネッサンスをやることを考えた時に作った「メディチ家」というメンバーたちで集まることに。イノウエさん、ミツさん、みずえさん、ザキさん、タカノブさん、すず、というメンツで、にじ屋のあと時間を取って連日会議。
 「相手に何て思われるか分からないから怖くて言えない」というオグさんの発言から、「オレも頼りたい、プライド捨てたい」とタカノブさん。できる自分じゃないと嫌われる?かっこ悪い?むしろ言えた方がかっこよくない?という話も出たりして、おぐさんの言葉をきっかけに皆も日頃モヤモヤしていたことをさらけ出せた会議になった気がします。
 会議の後半では、人に弱点を見せる、さらけ出す。出していいんだと思いたい、という話もでて、「自分の弱みを見せよう」という方針が産まれました。失敗したことをいう、ダメな自分を見せる、ということはオグさんが言ったように「何て思われてしまうか」という怖さは出てきてしまうもの。私も人生初の遅刻をしたときはホントに人生終わった、くらいの感じでしたし。でも、皆が受け止めてくれて今はそういう自分でいることに怖さを感じることはないし、きっと皆も昨年度の方針に近づいたことで味方だと思える人が増えてきた様子。今ならこの怖さに勝てるんじゃないだろうかと思ったのです。
 弱点ごと自分の事も、そして周りのことも認めていけたら、お互いもっと明るくて安心できる集団を目指せるはずだと考えています。最終的には方針でも掲げる「ゆっくり、明るく、全員で、みんなを楽にする」にも、とても繋がっていく事なのです。とてもイイ方針をひねり出せたと思っているのですが、肝心な「どうやって目指していくの?」ということですが。これがまあ、とても難しい。
 例えば交換日記みたいにノートに失敗したことを書く?会議で時間を取って発表?それをしたところで本当の意味での「自分の弱みを見せよう」には近づけないと思うのです。かといってコレだ!という何かいい手はないのですが。というか、具体的な方法は出せない方針なのではともちょっと思っていて。皆がそれぞれ「今ホントは助けてって言いたい」「ホントは困ってるけど言えない」という場面に遭遇した時に、勇気を出して言う。コレにつきるのでは。
 皆がそれぞれ一歩勇気を出して言えたら、確実に変わって行けるはず「自分の弱みを見せよう」へ近づく為に、進む方向はどっちか、という事を考え続けていきたいと思います。


仕掛け★みつ

鉄丸さんが東京から名古屋の実家に帰ると言うことで、ほんびいに遊びに来ました。
席もまよこに座ったと言うこともあって、久しぶりに会話をしたり、鉄丸さんがみんなは元気そうだね、と言いながら話しをしていた。
鉄丸さんが何となくマシックのしたから、アーそれこの間やった、ひるなんですでやっていたやつだぁ、と言ったら、鉄丸さんはありがとう!と言った。それから、佐藤さんが俺も練習したんだ、と言いながらトランプでマジックを始めた。
鉄丸さんが、簡単で良ければトランプでマジックをやるよ、と言ったからヨコから見ていたんだけど、さいしょみんなに見てもらったトランプを、他のところに入れた振りをして、1番上にのせていたから、それを鉄丸さんに聞いて見たら当たりと言われた。
アーやっぱりなぁ、それからお金のマジックとか、スプーンを曲げてしまうマジックを、ヨコから見ていたんだけど、仕掛けは分からず。
でも、トランプの時のように、なんか仕掛けはあるんだろうなぁ。それから、手でやるマジックをやっていて、こうへいとかはモクモクと頑張ってやっていたけど、自分はマジックをやる前に指を動くようにしろと言う感じだったから、鉄丸さんが言ってくれたように、指を動かして見たんだけど、思うように動かなかったから諦めましたぁー。
それから、みんなはのってマジックをやっていて、最後にあきちゃんがお金のマジックをやったんだけど、あきちゃんの仕掛けはメッチャわかったから、もしかしたら鉄丸さんのお金のマジックも、仕掛けとしてはあきちゃんと同じなのかな?と思いました。


初☆プロレス★りお

7月1日に子供たちと生まれて初めて女子プロレスに行ってきました。始まりは我が家の娘たちがほんびいに来て調子に乗りアキさんと共にプロレスごっこをした事がきっかけでした。上の長女が『ハアイヤアアアーーーーー!!!』と何か乗り移ったかのようにカマキリポーズ?やハイキックを見せつけ(笑)みんなから大歓声をもらったのが最高にウケて佐藤さんから今度プロレスに!と言ってもらえたのでした。いやあーしかしあの娘は別人だった(笑)動物の本能炸裂というか、、、
当日までは私も子供も体調を崩したりでヒヤヒヤ、、なんとか回復し朝、我が家までアオテツさん、アキさん、佐藤さんが車で迎えに来てくれまして。もう子供たち『アキさんは、まだ?まだ?まだ?』と7時から連発。11時頃雨がポツポツ(私と下の子が雨女なもので)降っていたのに車が着いてアキさんと佐藤さんが降りるとなんと雨が止む!!!笑 うお!すごーーーッ!とそれにさらに興奮の娘たち。乗った途端に雨が降る。もってるね〜(笑)
車では韓国の不気味な宇宙グミを佐藤さんたちに食べさせ(選んだ下の娘は食べず)ご近所のお団子屋の団子と太巻きで腹ごしらえしました。やっぱりハズレないここの太巻き♡好評で良かった。
今回は所沢の会場へ☆会場でっか!!そして道の駅?みたいな!可愛い休憩処にうずまきアイスクリームの看板を最速で見つけた4歳。(大のソフトクリーム好き)佐藤さんに即行おねだりアイスコールをし、店内へ。そして紳士なアオテツおじ様に買ってもらう(笑)おじ様たちへの毎度おねだり、すみません。
会場へ向かう通路前方から輝くレディがッ!!あ!!みずえさああああん☆☆☆来ることを知らなかったエミリ大興奮(ニャンコ愛好家仲間らしい)駆け寄って行き本日のファッション自慢から始める。なんじゃそりゃ!みずえさん優し過ぎてやりたい放題の娘。
新田さんも間も無く到着とのことでしばし待機♫カリンはひたすらアオテツさんとポケモン図鑑検索しあーでもない、こーでもない。と付き合わせる(笑)そして熱い熱気の会場へ!意外に子供が居てびっくりしました。念願のカミタニ選手を生で観れた(自分と激似と言われていた為)のにメガネを忘れボやける(泣)爆音と暗闇に怖がる次女。私の手で自分の目を押さえながら、でも気になりちょい見したり。感想は、いやあああ、痛いッ。もう見てるだけで私が『痛ッ!そこは痛い!アア!痛いって』と顔しかめる(笑)そして悪役が居ることに気づいた4歳。『あれ、良い奴?悪いの??良いのやられた?』としきりに聞いてくる。(母も分からないのでとりあえずピンクとか白いの着てると良い奴だと思うっ!と言っておく。笑)信憑性が無いと判断し結局アオテツおじ様やアキさんに聞きまくる4歳。そして事件もなく最後の試合まで見ることができ、ハムちゃん(本当はタムちゃんだけど言えない娘)可愛い!と、かなりお気に召した様で『ハムちゃーん!!!負けるなあ!がんばれーー!ハムちゃん!!』と声援を送っている娘に驚き!長女も椅子から立ち上がりそうなくらい『うおおい!っシャッツーーー!いけウォラッ!!燃燃燃』と。母、唖然。やはり長女はケモノっぽい、、、普段お絵描き大好き・プードルのぬいぐるみを顔にスリスリして寝てる9歳なのに豹変とはまさしくコレだ、と思った母でした。
無事に終了?し、みずえさんと新田さんに別れを告げ、北浦和まで送っていただきました。居酒屋さんで乾杯まで子供たちもさせてもらい、良い顔の写真が撮れた娘たち(興奮してなぜか筋肉の見せ合いが始まり)でした。昔、小学生の私に『りいちゃんは女子プロになったら最高だな、おじちゃんと全国まわるんだよ、、』とお酒片手に語っていた大好きだった亡き伯父に『誘ってもらえて観に行ってきたよ、子供たちも楽しんだよ。たけおじちゃん、一緒に行けたら良かったね。推しの選手教えて欲しかったな、、』と微笑む伯父の写真に話しかけた夜でした。
思い出に残る1日でした。ありがとうございました。





(BGM:流血ブリザード「ワイルドザーメン」from「歩くオリモノ」)
→近藤さんからいただいた一枚。
もう曲名もダメ、アルバムタイトルもダメ、もう全部だめなんだけど、そこが愛おしく好きなんだよな、こういうの。

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「介助者を聖職者」にしてはいけない


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機関紙の先々号、6月号に加納さんが総会の報告を書いていたんだけど、虹の会の今後の方針も表明している感じもあり、なかなかまとまってる気がするので掲載。


 何しろコロナ始まってから3年ちょっとの間大きなイベントは一切やっていなかったので、外の人を呼ぶという今までやってきていた感覚を忘れちゃっていたことに気づき、これじゃあイカンと基本に立ち返ることが出来た総会だったなと思っています。
 もちろん毎月発行している機関紙を読んでもらって私たちのことを知ってもらうそして記録に残すというのも大事ではあるけれど、たくさんの人と直接会って飲んだりしゃべったりして知ってもらう理解してもらうにかなうものはないと常々思ってるので、コロナがこれ以上増えず早く収束してくれと思うばかりです。

 今回は3年ぶりの大きな開催ということで、まだ公式に虹の会として発足する前から陰になり日向になり活動に携わってくれた國松さんや郷子さん、常に私たちを支え続けてくれている三原さん竹脇さんよしをさん、ハトミの介助者募集記事を書いてくれた東京新聞の谷岡さん、最近知り合ったにじ屋のお客さん、機関紙で連載を書いてくれている佐藤先生や小高さんやなっちゃん、そして介助者の人たちと新旧入り混じりたくさんの人が参加してくれました。ありがとうございました。
 40年前からの付き合いがあるって改めてすごいことだなといま書きながら感傷に浸っています。そして私は次の歴史を作ることできるのかとちょっと不安も感じています。

 今回来てくれたみなさんに前に出てもらいマイクで一言しゃべってもらうというのをやってもらいました。せっかくしゃべってもらったのに来てくれた人たちと話す方に夢中になっていて全部は覚えてないのですが、その中でも印象深かったのは、竹脇さんが話してくれた虹の会の会費額の話です。
 みなさんご存じかと思いますが、虹の会は昨年会費を年額3000円から一口1000円に下げるという改正をしました。それは虹の会の活動に参加してもらう人を増やしたい、協力してくれる人の輪を広げていきたい、それが私たち障害者が生きやすい社会へとつながると思ったからです。その3000円から1000円へと踏み切った背景に当時40年前に3000円と決めた時に郷子さんから言われた言葉が忘れられないという話でした。
 それは働くことも出来ず収入のほとんどない僅かな年金暮らしの障害者やその活動に関わる人たちも収入が少ないのに3000円なんて高すぎる。そんなのだれが払えるの。と怒られたという私も知らない話でした。
 その40年前の話を竹脇さんも佐藤さんもそして苦言を呈した郷子さんも当時のままに覚えていたことに根底に生きるとはどういうことかそういう立場にいる人たちとともに活動をしていくとはどういうことなのかという現実を突きつけられたと。昨日のことのように話してくれました。

 それ以外にも障埼連の國松さんから「これからはよりたくさんの人たちと広く深くつながっていく事が大事になってきている。
 この総会にも新しい人たちが参加していてとてもいいと思う。同じ人たちばかりで固まっていたら考え方も活動も凝り固まってしまう。虹の会はその時の時代に合わせて今何をやっていくべきか自分たちの中で学習しながら進んでいると思う。
 40年前30年前街づくり点検を盛んにやっていたその時一つ一つはただの点だったかもしれないけれど、それが今のJR駅無人化問題につながっていると思う。虹の会はある意味障害者にとって桃源郷のような存在だと思う。これからはこの状態を一般にしていく広く大きくしていく運動だよね。
 だからこそ違うからといって手を切るのではなくつなぐ手を広めていく事が大事になってくると思う。
 資格の問題も専門性を持たせようとアレコレたくさん作っているけれど、資格という一定の基準は大事だと思っているけれど総括にも書いてあるように結局は制度的な問題というより待遇の問題。障害者だけではなくその人一人一人が尊重されていく社会。豊かに生きていける社会。充実した社会を広げる。
 小さなことを追求していく事も必要だけれどそれだけではなく、もっと大きい視点に立ってより良い社会を作っていく。そこを目指していけたらいいなと思っている。
 行政や権力者たちは個々の問題(損得勘定のような)に目を向けさせようとして自分たちに矛先が向かないような流れも多いからそこは意識して丸め込まれないようにしていきたいよね。そしてこれはいつも言ってることだけど自分たちの主張を一般の人に共感してもらうようにわかりやすく発信していくことを意識してだね。とにかく第三種郵便の会議もだけど若い人たちが活躍してくれていてうれしい。」と話してくれました。
 いつも内部で話していることと中身は同じ部分もあるけれど、内部のメンバーではない國松さんから改めて聞くとやっぱりそうなんだなと自分たちの活動に確信を持つことが出来ました。
来てくれた人一人一人が話をしてくれたことで私たちは改めていろんな人に応援してもらっているというのを目の当たりにしてとてもうれしく力強く感じました。

 最後になってしまいましたが本編の総会は、昨年後半から度々機関紙で載せている介助派遣システムの運営体制特に介助労働に関することを何となくおかしいぞ何か間違っているんじゃないかと思いながらもないがしろにしてきたことの見直しが今回の大きな目玉でした。
 私たちは、介助を使う障害者が介助者に指示を出し介助者が動くというやり方が介助だと考えています。障害があっても自分がしたい生活が出来なければおかしいと思っています。介助者はあくまで障害者の「手足の代わり」、介助者がそのように動くことで障害者は自分のしたい生活を実現できると考えています。
 それを総称して「障害者主体」という言葉を使っています。介助の内容そのものは障害者自身の生活だから障害者の指示に従うをやってもらうでいいのです。
 しかし介助時間の延長や勤務日の変更などはそもそも労働権の問題。障害者主体という言葉だけが独り歩きしてしまい、介助にまつわることはすべては障害者主体で介助者も周りも口を挟めないような密室状態になっていました。
 介助を使っている当事者の私にとってこの事実はとても耳の痛い話でした。そんなつもりはなかったけれど、自分の生活を責任持ってやっていく事と、介助者の労働権の問題とを一緒くたにしてしまっていました。
 私の生活の中身そのものに口を挟んでほしくない、私の生活を介助者同士の会話で口外されたくないという思いは守られなければならない大事なことだと思っています。でもだからといって介助者同士で話すことを禁止する。というのは方法として間違っていたなと思いました。
 それよりも労働者として介助職を確立させていく事が本当の意味での介助保障だと思うのです。そしてそれが介助の安定につながると思います。
 介助者を押さえつけて言うことを聞かせるという勘違いをした形だけの障害者主体を改めていきたいです。
 まだまだ今の世の中障害者の世話は家族がやるもの、面倒なことは家族の責任でやらせておけばいい、またそんなめんどくさいことを引き受けてくれる人は素晴らしい人聖職者だから感謝しようで済まされてしまっています。その状況を変えていかない限り介助者の労働者としての権利は確立していかないと思うのです。結局「お世話してもらって申し訳ない」「障害者は世話してもらっているのだからワガママ言うな」という世間の思惑にはまってしまうのではないかと。
 だからこそ、障害者も介助者もお互いに大きな視点に立って共に介助料(給料)のアップや介助者の労働者としての権利を尊重するとはどういうことかなど、裸の王様ではなく本当の意味での介助保障運動を考えていきたいと思っています。
 障害者介助者立場は異なるけれど一緒に勉強したり飲んだり、指示する指示されるだけではない関係も作っていけたらいいなと思っています。
 意識を変えていくのはとっても難しいと思うけれど、そこは考えを改めていこうと思っているところです。そしてもし私が間違った方向に進んでいたらその時は遠慮なく「ちょっと違うんじゃない」と意見を言ってもらえるようにしていきたいと思っています。

 そしてさらに大きな変革として、今まで私たちは一貫して「介助者の資格」は「国家が決める」のではなく「介助を使う障害者本人が決める」べきと主張し続け資格を取らない方向でやってきていました。しかし残念なことに「国家が許可する資格」はここ数年ますます強化の一途です。
 世の中も何となく資格を持っている人の方が安心だよね。さらに周りの障害者団体の多くも「資格さえ取れば問題ないのだから取っちゃえばいいじゃん」という流れで、資格反対の声は全く聞こえてきません。
 そもそもの「介助者の資格は誰が決めるのか?」という本来の問題がまったく論議されないまま深まらないまま来てしまっていることに危機を感じました。
 私たちがいくら資格は関係ないといっても「虹の会は特別だから」ということで蚊帳の外状態でした。私は正直上等じゃんと思っていました。でもそれは結局多くの人に私たちの考えが広がっていないこと共感を得られていないということだと思いました。
 改めて「介助を使う障害者本人を飛び越えて国家が勝手に資格を与える認めている」という大問題を、自分たちは資格を取らずに介助派遣をやれているからいいじゃん。ではなく、この国家資格の大問題を同じ職種の人たちや一般のたくさんの人たちと大事なことは何かを共有し盛り上げ問題を突きつけていく事をしていかなければ、私たちに資格は関係ないと言い張っているだけではダメなのだと気づきました。
 なので、この資格問題をさらに大きな問題として提起していくためにもあえて資格を取ってみよう、という方向でやっていこうと舵を切ってみようとなったことです。
 今まで頑なに「ノー」と言ってきていた資格を取ってみようというのは私たちにとっても大きな方向転換なのでその中で様々な疑問や問題が出てくるだろうなと思っています。
 そういう一つ一つの疑問やおかしいぞと感じたことを見なかったことにしないで発信していくつもりです。そしてより多くの人たちとやっぱり国家資格はおかしいよね必要ないよね、という声を大きくしていきたいと思っています。
 今年の虹の会の方針でもある虹の会は特別という伝説にならないためにも。(加納友恵)








(BGM:PRETTIE BRATS「お前は売女」from「LET'S GO TOKYO PUNK」)
→「お前は売女」ということですが、ピストルズのカバーとかじゃなくて、FUCKGEEZのカバーとかでもないんだけど、このセリフをみなさん言いたいんですかね。
「お前は尻軽!」みたいなことを言いたいんだろうな。
浮気されたコトに対して捨て台詞、みたいな。

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2006年の「熱さ」 その3(おわり)


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2006年5月にその時までの虹の会の歴史的なことを書いている文章があって、俺が前半2000年まで、故藤井がその後を書いていて、まあ今読むと「なんでここまでケンカする?」くらいの感じで「ちょっと冷静になれ」とも思うが、あえてそういう歴史があったなあ、ということで掲載しようと思う。
ファイルが見つからなかったので、グーグルなんチャラで写真に撮ってテキスト化してみた。
あまりに長いのでちょっとちょっと分けて。
今回三回目が最後で、故藤井が書いた部分になります。

この頃の障害者運動の熱さをちょっと思い出して欲しいと思っています。


さて、前項の続きとして、2000年以降の動きについて書いていきます。ただし、今回に関しては資格撤廃のための総会資料であるということから、極力資格というモノに絞って書いていくことをご了承いただきたい。
というのも、虹の会では、資格以外のことに対しても、常に行動し、日々様々な取り組みをしています。それら全てに共通することは「どんなに障害が重くても地域であたりまえに暮らす」ということです。ですから、資格以外のことを書かずに、もしくは知らないまま、この資料を読み進めてしまうと、まるで資格のことだけが問題のように思えてしまうかもしれません。そうではなく、私たちの目標はあくまでも、あたりまえな介助保障を得て、あたりまえな生活をおくるということです。だから、資格は、それらを実現していくうえでの、「ひとつ」の問題なのです。障害者が生きていくうえで、解決していかなければならないことが、まだたくさんあることを忘れないでください。(事務局長・藤井)


【1委託を受けてから】

まず、自薦登録方式(以下、自薦)の理念をまっとうするために、浦和市からの提案を呑み、委託が始まったことを強調しておきたい。
というのも、最近のさいたま市を見ていると、時折、自薦の理念というモノに対しての理解が薄れてきているのではないか、という姿勢を見せることがある。そういう時にはすかさず、違うということを伝え、話を本筋に戻すようにしているが、時間と共に、または人が変わるごとに、少しずつ、理念が失われつつあることを完全には否定できない状態であると思う。
だから、今後、資格撤廃を訴え、話し合っていく中で、その部分、つまり失われつつある部分というのが、悪に出る可能性がある。1から伝え直すことで、解決するならいいが、国の言うような発想に固まってきてしまうのは、とても危険である。
資格そのものの話が、自薦の仕組みや理念と完全に逆のことなのだから、自分たちにとって大事なのは、自薦であると、というより、それしかないと言い切れる。
障害者が、自分で自分のことを決め、生きていくことが出来るのは、今のところそれしかないのだから、極端に言えば、そのことだけを目指せばいいのだと思う。

話を本題に戻す。
1999年に決まった方向通りに、2000年4月からNPOとなり委託を受け、完全無資格での介助派をすることとなった(完全無資格はあたりまえのことであり、決してすごいことではないが、表現として) かといって(今の俺注*完全無資格と書いているが、そうじゃなくて、別に資格があった人もいたし持ってなかった人もいた、資格にこだわらずに、障害者本人が推薦する人のみを介助者として使った、という意味ですねこれは。藤井らしいけど、ちょっと誤解を招くと思う)、何も全く新しい事業を始めるわけではなく、要するに、今まで介助者に出せなかった給料を出せるようになった、介助料を得られるようになっただけなのだから、法人の事務的なこと以外、中身が変わることはなかった。だからいくら委託といっても、今まで自分たちがしてきたことが認められてきただけで、それこそ完全な自薦が認められただけなのだ。
ただし、それでも介助保障の部分では、まだまだ24時間には全く満たないし、 派遣形態に巡回型があることからして、障害者にベタで介助者が必要(24時間必要であるということ)で あることを理解されたわけではなかった。だから介助保障時間増の交渉は引き続き行っていた。

市と交渉を続ける中で、資格のことも少しずつ調査に乗り出し、年途中では、ヘルパー研修の中身について機関紙上で疑問を投げかけている。これというのは、虹の会は確かに自薦の理念に乗っ取った介助を得ることが出来ていたが、他民間業者(その頃はまだ、障害者団体に委託することは希であったため、周りは全て株式会社の業者などだった)たちは、有資格でのヘルパー派遣を続けていたためで、いくら自分たちだけが無資格で続けていたとしても、それは単なる誤魔化しであり、世の中全体が、障害者が譲られるものでは なく、自分の意志で決定していくことを理解したわけではなかった。だから、自分たちだけでなく、世の中から資格という考え方自体を無くさなければならなかった。
また、2000年には資格とは直接関係ないかもしれないが、介護保険につい て、市と交渉していた。
これというのは、自己負担の問題で、まんまの負担額で 生活保護を強いられてしまう低所得者に対し、何らかの制度を持って、減額をしろというもの。思えば、これが今の自立支援法に繋 がっているし、そもそも介護保険統合化が進んでいく序章だったのだろうか。ここでは詳しく触れないが、介助はサービスでは無いという理念に沿っていけば、保険で介助保障を賄うというのは間違いであって、介助は保障であるべきで、決して事故ではない。保険になってしまったら、もはや権利も何も無い。
その交渉自体は、翌々年に減免制度として実現し、今も利用されている。

【2.支援費制度というもの】

2001年、2002年というのは、支援費に移行していく中での運動だった。
支援費制度(以下、支援費)は、措置(支援費が無ければ措置などという言葉は使わなかったかもしれない)から自己決定へという文句が使われ、障害者が自分で決められます、という一見、良さそうに見えてしまうが、裏返せば、それは、行政が責任を放棄するということだ。実際、障害者が決められる部分というものは一切無く(事業所を決めることというのは、当事者が決定すべきことでは無いだろう。支給量を24時間に自分で決定することが出来たならば、それはまさしく自己決定だし、更に自分の介助者を自分で決めることが自己決定である。だけどそれはダメだと言いやがるんだから、嘘に決まってるじゃないか)、今まで行政が介助保障(介助料)自体はもちろんのこと、介助者の確保から、マネジメントまで全てを行うことがハッキリとした責任であったのに、そこから介助者の確保という責任を放棄しようと言うのだ。
それを誰かが誤解したのかバカなのかわからないが、障害者団体が委託を受けやすくなるなどと言い始めて、終いには支援費は良い制度だなんて言いはじめてしまって・・・まあそこは今はいい。
2001年はまだ、支援費は噂としてあっただけで市と具体的な話が始められたのは2002年からだった。その頃の焦点は、支 費になることで、委託から指定に変わり、その指定を受ける要件の中にあった、やはり資格である。このこと、まさしく今の状態であり、資格に対する本格戦いの始まりだった。
2003年の施行まで幾度となく、市と交渉を行った。市には自薦から委託へという流れが、ほぼ完全に頭の中にあったので、市としては資格の必要性を感 じていなかっただろう。ただし、国庫補助の対象であるホームヘルプを市町村が実行するには、介助者に資格が必要だということもあり、市が例えば、単独で資格は要らないという宣言を してしまった場合、まず間違いなく、さいたま市に関しては国庫対象から外されることになってしまう。 それではさすがに、今の介助料を守ることはおろか、ゼロになってしまう(市の予算としても国庫対象であることが前提で組むわけで、 国庫対象でないモノには市の予算も付きにくい)。だから、市には打つ手が無かったと言っていい。
しかし、我々としても、いくら市から頼まれても、資格を取るということは、介助保障以前の問題、つまり差別を認めるわけにはいかない。それを市も理解していた。だから、互いの立場を理解しつつ、交渉を続け、着地点を探していった。(今の俺注*これに関しては資格について昨年度に評議委員会は方針を180度転換し、取っていくことを決めた。中身を捨てたわけではないが、このままでは資格の論議が進まないと考えた末の結論だ。虹の会本体ブログ http://www.nijirock.com/blog/?m=202209
また、介助派遣は市が責任を持って行わなければならない点についても、常々言っていた。自薦になるとき、結局、市が我々の望む介助者を確保することが出来ないから、虹の会がそれを代行するという話なのだから、決して我々が介助派遣を望んだわけではなかった。だから、市が資格を強要しようものならば、即座に介助派遣から手を引くつもりだった。その姿勢は今も変わらない。大事にしなければならないのは、今も昔も、介助が必要なことだけで、金や物ではない。

【3.支援費施行】

2003年、支援費制度が施行された。2002年の年間に渡る交渉の末、出した着地点は、現状通り、そのままの体制で、市が虹の会を基準該当指定することだった。書類上は既に経験がある介助者についてはそのまま認め、新たに入ってくる介助者については、 受けなければならない研修について、受ける意志は持っているとした。あくまでも意志ということ。
もし、研修自体が自薦の理念を持った障害当事者の話を8時間聞けばいいというものであるならば、受けてもいいというのは確かだ (冗談だが)。
やはり市としては、虹の会に介助派遣を代行してもらうこと以外、我々の望む介助を保障することは出来ず、このような提案をしてきた。いつでも事業所を放棄する気持ちはあったし、書類上要件は揃ったとは言え、資格を取らなければならないことに変わりはなく、資格の話は平行線のまま行くということを考えると、妥結するには早すぎたかもしれなかった。しかし、そこは市をたてる、立場を守 るという意味(施行直前3月の段階でも、まだ交渉を続けていたので、もう時間が無かった)で、呑むことにした。支援費移行後も資格のことについて断続的に話し合いを組むことを条件に。
その約束通り断続的に話し合いを行っていくことになるが、2003年は、それ以外にも、入院中の介助 保障についての交渉、他人介護料(生活保護他人介護 加算)撲滅についての交渉などを行った。
入院中の介助保障というのは、まず、入院は決して非日常のことではなく、日常的に可能性が十分あり、入院するに至っても、それぞれの人の生活の延長線上にある。という理念において入院中も介助保障をしろというものだった。これについては、未だに解決の糸口は見えず、誰かが入院する度に交渉を繰り返している。
もうひとつ、他人介護料撲滅というのは、障害者が生活保護を強いられている現実を市に理解させ、就労 や所得保障へと繋げていく目的はもちろんだが、そもそも他人介護料というのは生活保護を受けなければ手に入らないモノであり、それはすなわち介助保障ではない。もし仮に、他人介護料を介助保障としてしまったら、障害者は介助保障を得なければ生きていけないのだから、生活保護を強制 的に受けなければならない。ということに繋がり、やむなく生活保護を強いられている、その「やむなく」が無くなってしまう。少なくとも行政、市には、他人介護料は介助保障では無いこと理解させていく必要があると考え、市と話をしていった。撲滅には至らないものの、生活保護は介助保障ではないことは、十分理解させることが出来たと言っていいだろう。
そして、もうひとつ、埼玉県に対しても資格についての要望書を提出するなどして、話し合いを行った。そこでは県は、資格は必要だと、市とはうってかわっての資格賛成派であることが浮き彫りとなった。県はこちらの言うことに耳を貸さず、資格を取れの一点張りのまま平行線となり、決裂という形で終わった。

【4. 世の中は自立支援法に向かう】

2003年と2004年というのは、資格について市と話し合いを繰り返したり、単発の特集を機関紙で組んだり、前項であったように入院と他人介護料のことについても行動を続けていた。何か具体的に成果があったかというと、何も無かった頃だろう(呼吸器のバッテリーが保障されるなど、気管切開絡みの交渉は進んだ)。つまり全てが平行線のまま年が過ぎていった。ただ、それらを繰り返していく中で、市には嫌という程資格の不必要性を言い続けたわけで、虹の会は絶対に資格を取らない姿勢であることを、存分にたたき込むことが出来たと思う。その前提があるからこそ、今資格撤廃への動きが作れていることだろう。
そして、2005年、厚労省が突然、グランドデザイン、自立支援法(以下、支援法)を提起し始めた。
それにしても、こうして歴史を整理して書いてみると、いかに速いスピードで厚労省が改悪をしたかがわかる。ということはつまり、国は金のかかる障害者をさっさと処理したいということに他ならないわけで、だいぶ焦っているように見える。
全国の障害者団体が騒ぎ始め、どこも問題点を探し、機関紙に掲載するなどしていた。その中で、自立支援法の主な問題点は、資格が1番にくると思いきや、1割負担が前面に出ていた。しかも、あろうことか、資格の話はどこにも載っていない。確かに1割負担は、生きるだけでお金がかかるわけで、それ自体もはや保障ではないのだから、資格もクソも無くなってくるのは、わかる。ただ、1割負も資格も天秤にかけることは出来ない。どちらも同じくらいの問題だと思うの だが、はて?なぜ資格の話が出ない?

その疑問は、すぐに解消。支援費が始まった頃から、虹の会のような障害者団体が運営する介助派遣 事業所が増え続け、今では殆どの団体が事業所として介助派遣を行っている。そこまではいいだろう。自薦を貫くには、今のところ自分たちでやるしかないのだから。しかし、そうしていくうちに、何故だか未だに解らないが、障害当事者自らが、介助者に資格を取らせている団体が増えていった。そしていつの間にか、資格を持っている方があたりまえになってきてしまったのである。だから支援法 になると言っても、資格のことは問題にならない(もう取っているから)のであった。
何故、障害者自らが、あんなに反対してきた資格を、いとも簡単に取ってしまうのだろうか。そのことについては、後の項で述べるとして話を進める。
ただ、そういった障害者が全てではなく、青い芝、怒りネットといった陣は、1割負担はもちろん、介助の上限に対しても、そして資格に対しても支援法に対し必死の抗議行動に出ていた。年間を通し、ハンストや厚労省前での座り込み、徹底したビラ配りなどを行っていた。今までも運動を作ってきた人たちだ。障害者団体同士が対立する場面も見られ、厚労省は燃え上 がった。
しかし、こうした抗議行動もむなしく、自立支援法は可決されてしまうのだった。

【5.支援法に向かう中で虹と市は】

2005年、4月になる前の3ヶ月間に市と集中的に交渉を行った。この交渉により、2005年4月からの1年間、必死で抗議行動をしている人たちを横目に虹の会は沈黙を通すことになる。正直、悔しいと思ったし、虹の会もあの抗議行動に参加したかったという思いは強かったが、自分たちは自分たちで出来ること、つまり、さいたま市だけでも例外(資格が要らないでも、1割負担が無いでも)を作ることで、ひとつでも多くの可能性を作ることに決め、目標を絞ったのだった。
まず、虹の会としては、以前から培ってきた資格反対への姿勢を強固に持ち、ここだけは絶対に譲らないということをハッキリと伝えた。資格を取ること=事業者を辞めるという話をした。そもそも資格を取ってまで、事業者を続けるいわれは一切、微塵もなく、あくまでも派遣を含む介助保障の責任は市にあることを、絶対に忘れさせるわけにはいかなかった。しかし、市としては、国の言う通りに 虹の会が資格を取ってくれれば、国庫補助が下り、足りないとは言え、一定の介助料は賄える。だが、国庫補助が無い場合、市単で予算を倍増させることは困難を極め、現実的には不可能である(将来的に可能にさせていかなければならないが)。

互いの姿勢を歩み寄らせるのは、とても難しく、1月2月は平行線のまま過ぎ ていった。3月になり、市 から提案があった。それは、資格の要らない制度を、市単で作っていきたいというものだった。


【6.新たな制度へ】

市として、まず、介助料として確保できる額は僅かしか見込むことが出来ないが、その制度を作ることによって、資格が要らないという可能性を作りたいとのことだった。しかし、逆に言えばそれは、支援費、支援法におけるホームヘルプ中で資格というものを撤廃することは出来ないという表れで、それは意味が無いのだから、ただでは呑めない話だった。
自分たちに必要な介助を得るには、最低ホームヘルプ身体介護並の額(1時間 3000円~4000円、これで介助者の給料、事業所の運営費、社会保険料や雇用保険、障害保険といった全てのモノを賄わなければならないので、もし自分たちで事業所をやらない場合、純粋な介助料はもっと少なくて済むだろう)が無ければ、現実的に不可能であるし、あくまでも資格撤廃が目的であるのだから、ホームヘルプだろうがなんだろうが、撤廃されなければならない。そこから逃げるようなことはしたくなかった。
それでも市は、そうではなく、あくまでも可能性を 広げるという意味で、少し やらせてもらえないかと提案してきた。そこでは返事をせず、次の話し合い (来週とかのレベル)に持ち越すことになった。
そして次の話し合いの時、 虹の会としては、その話は呑めないという返答をした。それは今までの歴史の中で、 虹の会と市は資格のことで、様々な論争を繰り広げ、互いにやっとの思いで、自薦を実現させた経緯があり、今もその流れにいるのだから、ここで、資格が必要だからといって、現状の制度の改革を止め、新たな路線に行くというのは、一度は自薦を否定することになるのだから、自薦の仕組みを理解しているとは思えない。そのような状態で、新しい制度を作らせても、また同じことになるのではないかと話した。
それでも市は、なんとか、これをやらせてもらえないかと、しつこく提案してくるのだった。そこで、そこまでして、何をやりたいんだと尋ねた。すると市は、資格を取るということに意味が無いことはわかっている、ただ国の言うことを聞かないと金が下りてこない。今市独自で予算を作ることは無理だ。そうなったら介助保障出来ない。あなたたちに介助保障が必要なことは理解できるから、なんとしても保障したい気持ちがある。そのために努力をしたい。その努力のひとつがこの制度を作ることだと思っている。だからやらせてもらえないかと。
文章ではとても簡単にし か書けないが、長い時間話し合った。そして、この時、市には熱意があったと思う。そして、その提案を呑むことになった。
(略)

【7.この項の まとめ】

この後編では、主に20001年~2005年の事柄を書いた。前編と比べ、書いてあることはあまり変わらない。自分たちに必要な のは資格ではないし、業者をやることでもないし、金を貰うことでもない。やはり介助が必要なだけである。純粋にそのことだけを求めて25年間、活動を続けている。これからもそれは変わらないだろう。
ものすごく単純なことな のに、資格が必要だ、基準が必要だ、自分たちで派遣 しろだの、正直、ウザイ。資格の無い介助者を使い続 けて、何の問題も起きていない。かえって資格のある業者ヘルパーを使ってた頃が一番問題がある。 どうして今になって、その時代に戻そうとするのだろう。障害者自らが。
総会は、もっと単純に、わかりやすいものにしていきたいと思う。詳しい内容はまだ決めていないが、虹の会のしてきたこと、そして向かう先について、たくさんの人に聞いてもらいたい。このまま資格を取ってしまったら、俺はもう人間じゃない。
(事務局長・藤井)


今の俺注*
まあ、ここまでこだわっていた資格とは、国家資格のことだけれど、これについてはどっちかというとこの時点では論議が浅かったな、と思う。
国家資格よりも、当事者本人が決める資格の方が大事なのだ、ということなんだよね。
だから、国家資格の有無は基本的には関係ない、と。
それは経験上もあって、だからそこよりも「本人の推薦」ということなんだよな。
で、まあ上記にリンク貼ったけど、その論議をしたいので、というか国家資格でヨシとする世の中はちょっとまだダメだと思っていて、ここから一歩進めなきゃ意味がないので、あえて国家資格を取る道を昨年度選んだ、という感じか。

藤井は自身が介助を要する障害者だったので、どうしたってここに敏感だったのだと思う。
「誰かに決められたくない」「誰かに自分の生活に口を出して欲しくない」というのは人一倍強かった。
というか、当たり前だと思うけど。
そんなことに口を出すようなヘルパーは資格があろうがなかろうがウチでは使えないけど、でもそれがデフォルトになる恐怖、というのがあったんだと思うし、事実、そうならないようにしなければならないと思う。
藤井の資格に関する文章としては、http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-6339.htmlの方が冷静かな。







(BGM:亜無亜危異「馬鹿とハサミは使いYO!」from「SAVE THE VOICE II [Disc 1]」)
→カッコいいのはもう聞く前から決まってるんですが、「YO!」ってところですよね。
そういうのを捨てない感じがいいじゃんね。
結局、ライブでいいたいんですよ、こっちも。
「YO!」って。
歌詞ももちろんいい。
ストレートな社会批判?って感じだけれど、それを「YO!」でまとめるところがいいんだよな。

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2006年の「熱さ」 その2


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虹の会では、専従職員を募集しています。社保完。詳しくはこちら





http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-6340.html のつづき

2006年5月にその時までの虹の会の歴史的なことを書いている文章があって、俺が前半2000年まで、故藤井がその後を書いていて、まあ今読むと「なんでここまでケンカする?」くらいの感じで「ちょっと冷静になれ」とも思うが、あえてそういう歴史があったなあ、ということで掲載しようと思う。
ファイルが見つからなかったので、グーグルなんチャラで写真に撮ってテキスト化してみた。
あまりに長いのでちょっとちょっと分けて、の2回目です。
まだここまでは俺が書いている部分ですね。

この頃の障害者運動の熱さをちょっと思い出して欲しいと思っています。


【4. 市がヘルパーの夜間派遣を 行うまで】

92年12月に佐竹が急逝。
システムの屋台骨が揺らいだわけだが、ここで終わるわけにはいかない。機関紙によれば93年には、当時、ヘルパー派遣自体が夜間行われていなかったことなどもあり、夜間派遣、男性ヘルパーの登用、推薦登録派遣の実現の3本立てで運動が進められている。
同時に94年には「現へルパー研修は必要か?資格は障害者自身が決めればいい」という問題提起もされている。これについては、ヘルパー研修の中身、ということで連載もやっているので、かなり力が入っている。ヘルパーの派遣時間の拡大を求めながら、しかし今のヘルパーでは質的に問題があるとしているわけで、 結局、我々は推薦登録に向かっていたのだと思う。 とはいえ、具体は当時は、まず「そもそもの派遣時間枠を広げなければならない」ことがあった。そして、基本は、推薦も何も、「そもそもアンタのところでやれるンだったら、派遣してみろよ」的な部分もあった。そもそも男がいないんだろ?ってことだ(同性介助が基本であることは当然で、男でも女でもいいなどと言うのはただの 「差別」以外の何モノでもない)。そして、夜だからって障害者は障害を休みにすることはできない、という基本をここでは訴えていた。(略)
まずは推薦云々よりも、きちんとヘルパー事業を介助保障制度の要として成立させたかった。推薦はあくまでそのための一つの方法でしかない。(略)
夜間の介助保障がない中で、しかしシステムは、9 3年には冨沢を専従介助者として新たに雇い、95年にはバイトの介助者を募集することになる。
このことは、財政を圧迫し、ヘルパーの穴を我々がバザーなどで補完せねばならないという状況を生んだが、そのことをオレ達は盾にして市を動かすつもりでいた。
そもそも、生活に必要な介助者を雇うのに何でバザーをしなきゃならんのだ? ということだ。これは市民にも理解してもらいやすいと思っていた。
この頃は一回のバザーで150万とか200万とか行っていた時期でそれも年に6回とかやってたりした。
浦和でバザーといえば虹、提供品があったら虹、という雰囲気ができたのは、副産物としてとても喜ばしいものであった。それは現在のにじ屋につながっていく。現在、提供してくれている件数は5000件を超える。
確かにものすごい労力だったけれど、たくさんの人が手伝いに来てくれて、提供してくれて、という、結局、こうした市民に訴える武器がオレ達にはあった。これは運動の基本だと今でも思っている。
こうやってこういう要望書を作ればうまくいきますよ、などという、どっかが言う「マニュアル」をオレ達は使わなかった。(今の俺注*当時、要望書自体がある団体によってマニュアル化されたりしていて、ちょっとそれに対しては全く賛同できなかったのでこういう書き方になっている)
市民の一人でも多くが虹を知っているようにするんだ!という気概こそが、介助保障施策を進めてきたと 俺たちは思っている。
こうした地盤をオレ達は この時期、固めていたと言える。

【5.市がへルパー事業の改革を行う】

障害者は人の手を借りるんだから、つつましくおとなしく暮らしてればいい、という幻想は、もう終わりにしなければいけないと真剣に思っていた(今もだけど)。
少なくともオレ達の周りでは、浦和市では。
そのために徹底的に市を攻めたわけだが、それを受けてという形で、95年に市はヘルパー事業を大改革する。
これは全国的な流れもあったろうが、巡回型を導入し、夜間派遣のテストケー スとして「西部地区」にヘルパーを派遣することになった。西部地区とは我々のことだ。
が、ここではまだ推薦登録は実現しなかった。 だが、この「派遣拡大」が推薦登録実現のきっかけ となった。これは遠回りだったけれど、今になって考えるとスジとしてはよかっと思う。
結局、派遣拡大では何も解決しなかったことが証明されたのだから。
介助とは、時間数で図られる部分ももちろんあるが、人を介することである以上質の問題が問われる。こと現副会長の松沢は言語障害のためにいちいちへルパーに介助の方法を説明するのは大変だった。その上、何を勘違いしたか赤ちゃん言葉で松沢に接する、週に6人のヘルパーが入れ替わり立ち替わり来る、しかも向こうの都合でドンドン入れ替わる、勝手に家の中のモノを動かす、など、あまりの悪行に松沢がキレた。
で、松沢はヘルパー派遣業者と市に文句を言い続けた。「松沢初心者」が電話で松沢の言ってることを理解するのはほぼ無理だ。しかし、彼女は電話をかけ続けた。
そもそも、これまで来ていたヘルパーではない我々の仲間内の介助者やボランティアは松沢の言葉を理解できるが、新しく来たヘルバーには何を言ってるかわからない。
これが普段のことで、新たに出会った人だったらそりゃあ、ゆっくりわかってもらうことはありなわけだ
が、介助にいちいちそんなことやってられない。 説明でヘルパーの時間が終わることもあったというから笑い話にもならない。
介助とは、ある意味、生きていくために動かない手足の代わりとなる必要な手助けであって、いちいち手足に説明しているようなことはやってられない。これは日常なのだ。
これを受けて市の方から 業者と市との三者協議を持とうということで96年に「内容は口外しない」約束で行うが、業者は「どのヘルバーが?」と「犯人捜し」ばかりをしようとするし、オレ達の言ってることが全く伝わらないと判断。続けてやろうという事で始まったのだが、数回でこちらから辞退させていただいた。(口外しない約束、というのは具体的には機関紙を指し、実はこういうコトは多かった○月までは口外しない、というような約束もあった。それは基本的には市が約束をやぶらない限り我々は守った。(略))

結局、自分の介助者は自分で選んで育てるしかないのだ、と我々は悟った。だって、ボランティアでやっ てたときはこんな問題は出なかったもの。少なくとも松沢の意向を無視して部屋の掃除をするヤツはいなかった。当たり前だけど。
そりゃ、介助者を育てるなんて、そんなめんどうなことしなきゃならないというのもおかしな話だから、最後まで市がきちんと派遣しろ、という姿勢ではあったが、それはもう無理なのだとこれは市の現場も同じ意見だった。
なにせ、こうやって業者と話している時期にだって 新しく来たヘルパーは松沢を子ども扱いし続けたんだから。
このことが、オレ達の2級だとか何級だとかいうへルパーの資格とは何か、という疑問に拍車をかけた。我々は「お世話」してほしいんじゃないし、指導してほしいんじゃない。
こっちにはダメな生活をも送る権利があるんだ、ってことがわかってない。
何級の資格を持っていようが、自分が資格を与えた人しか介助者にはなれないのである。いや、それを国だか他人が資格を決めようと言うこと自体、「障害者は お世話されてればいい」ということを言ってるのと同じことだ。
そんなばかげた話がどこにあるか?
結局、このことが、市にとっても、毎日このまま松沢の電話を受け続けるか、 推薦を導入するかと言うところまで追いつめられた格好となっていたのである。 で、コミュニケーションが困難な場合に、ということで推薦を市に認めさせた。それが97年である。当時、浦和では推薦登録という言葉は使わず、「松沢方式の派遣」という言い方をしていた。これは市の人が言い出した言葉だ。
97年には市は巡回ヘルパーの24時間化に踏み切り、98年には松沢以外にも希望している我々の仲間に「松沢方式」を市は認め、これであとは「松沢方式」の時間を延ばせばいい、という段階に来たのである。
98年の段階でガイドなどをあわせて、24時間介助を必要としている人に認められていた派遣時間は1 5時間/日であった。

96年には全身性が国車に乗る形となり、対象に視覚障害者も含めたガイドヘルプ事業となった。時間数や単価も多少増えた。
これも、まあ出ればいいんだから国庫だろうが何だろうがどうでもいいが、ガイドになって、それまで社協かなんかで視覚障害者のボランティアをやっていた人が介助者として流れてくることになって、なんかおかしくなったこともあった。98年にはガイドヘルブの問題で要望書を出しているが、その発端はガイドへルバー証を配るとか、それを携帯しろとか、腕章を作るとか、それを介助の時にしろとかそういう馬鹿げたことが話に上がったことにある。(同時に、郵便物の墨字と点字の内容が違うことも発覚したのもこの時)
市によればこれは前述のガイドヘルパーの人たちから出された話らしく、「私は自分で腕章をつけてやっています」という猛者もいたとか。
これに対し、視覚障害者であるH(現在は他団体にいる)が猛反発した。「やってる人の自己満足じゃないか」と。確かにこの話の出た背景を市から聞くと、そのバックにはガイドヘルパーの「いいことをしている」感がにじみ出ていた。しかも、この話は派遣されてる側から出ているのではないと言うこともわかってきた。
介助は「してもらう」ことではない。いや、個人的にはお礼も言うさ。しかし、それを行政が認めるべきではない。個人個人の関係はそれでいいが、あくまで「へルパー事業」はそれを必要としている人の権利なのである。
これには徹底的に反発。 結局こちら側の要望通りなし崩しになった。
たぶん市の現場もあまりやりたくなかったのではないかと思う。だって、やっぱりおかしいもん。
社協の通信なども読むが、社協とは「イイコトしたい人」の集まりであるとつくづく思う。その背景には「やってもらうんだからつつましくおとなしい障害者像」がある。個人としての「礼」は必要だろうし、幼稚園で習うような普通のことだよ。人間だもの。しかし、制度にそれを乗っけられてしまうのは違う。
そう、制度ばかりじゃない。数字ばかりじゃない。そういう世の中の見方をこそオレ達は変えていかなければならないのである。その上に制度や数字があるのだから。

【7. 財政がいよ いよピンチに】

推薦が認められ、一部、自分たちで雇っていた介助者の給料は出るようになったものの、介助はボランティアから有償に移っていて、 (つまり学生ボランティアは金銭的にはバイトとなたったわけだ)97年にはアキを専従として雇うなど(前年にNが辞めていることもあり、アキが来るまで、特に女性である冨沢は24時間介助を強いられていた) 内部では拡大路線は止めなかったので、結局、財政に は赤信号が灯った。
つまり、介助料が行政からでなくても、必要な分の介助は必要なのである。だから介助者は雇わなければならない。
その分の金はバザーやいろんな手で稼いだ。その主力が三原や専従であって、専従に至っては自分の給料を自分でバザーをやって作るということをしていたわけだ。
だが世の中にはおかしな人もいるもんで、だったらどっかでバイトでもした方が金になるという人もいたが、それでは意味がない。前述したが、バザーをやってるからこそこれは運動になる。(略)
市民の後押しがなければ運動にならない。我々は制度を変えようとしているのではなく、社会を相手に運動をしているのである。その上に制度がある。
しかし、推薦になったところで単価が1500円を切る状況で、それも追いつかなくなっていた。
そこで、98年1月、奥手である「虹の会大ピンチ」キャンペーンを打つ。
提供者全てに機関紙で知らせ 浦和駅前などで雨の中ビラを配ったこともあった。この効果はてきめんで、 すぐに市に電話してくれた、 全然知らない人だけど、そういう人もいて、市はかなり焦ったようだった。(略)
結局、本筋ではないが、市の方からの話もあり、当時事業所として機能が始まったばかりのネットをデイケアとして立ち上げることにし、その補助金を得ることにもなった。この時はまだ生活ホーム同様、デイケアを利用して、という感じでもあった。
が、同時に「事業化」という話が内部では上がっていて、当時いたMらがCILをやりたいというような こともあったり(やりたいといっていた当人達が離脱 新団体を結成し頓挫)、養護学校から実習生が来たりして(ツノちゃんが一番手だった)、虹の会も変わっていく時期ではあったので、それはにじ屋を中心とした今のネットの始まりにもなったのだから何が幸いする かわからない。
(略)

【8.介護保険のこと】

すでに98年には機関紙上で「介護保険をにらんで」という記事もあり、かなり危機感はあった。
このまま介護保険に飲み込まれるわけにはいかない、という思いはこの時からあった。
とにかく、この段階できちんと障害者に対する24時間の派遣を確立したかった。
翌年99年にも「介護保険導入で障害者に対するヘ ルパー派遣の水準を下げるな」という記事もあり、実際に悦子さんが介護保険の派遣対象になるということも含め、介護保険になっても障害の部門で上乗せをするなりして絶対に水準は下げない、また、今後介護保険で対応できない場合はなんとかしろ、ということを主張している。
これはその後の介護保険の低所得者に対する利用料の補助事業を新規事業として市にやらせるなどのことにつながっていった。 どちらにせよ、推薦で業者とつながり始めたこともあって色々話す機会もあったりして、何となく世の中「障害者も介護保険へ」 という流れであることはわ かっていて、それに対して 抵抗すべきだと思っていた。
少なくとも、それまで働いて賃金を得る手段のあった人が、老後のために金を出しあいましょうというのは、わかってはいけないのかもしれないが、まあ、まだわからなくもないが、(今の俺注*若い頃に)働く場からも締めだしておいて保険料を出さなければ介助を受けさせないというのはどう考えても理に合わない。
介助を受ける権利はこち らにあって、履行する義務は行政にある。その一部であっても、そ の義務をこちらに転嫁するのはスジとしては間違っている。これは高齢者福祉の面でも同じかもしれないが。少なくとも介助はトイレに行く、メシを食うなど日常生活上最低限ラインの問題だ。生活していく上で何かがプラスされるモノではない。

【9. 委託のこと】

99年には、時間増は認められなかった。この時の機関紙には「行きたいときにトイレに行きたいだけだ」と大見出しをつけている。今と言ってることは変わらないんだな、と改めて思った。
また同年は、98年から始まった推薦のことで業者と一着があった。
業者に登録したヘルパー利用者限定の介助者として派遣している形を取っていたわけだが、業者が「二重委託と見られる可能性がある」と、難色を示し始めたのである。
今考えれば、介護保険によって、収入が増える業者がめんどうな部分を切ろうとしたとも考えられるのだが、このことが「直の委託」という方向に進み始める。
時効だと思うので書くが、市の現場の人から、99年 夏も終わりかけていたとき、00年から直の委託にしたいと打診があり、その件で何度か、シークレットの話し合いを持った。場所も1 1階で、とか、福祉課からも遠い場所でやったのを覚えている。
これは機関紙にも書かなかったのだが、その内容は、市としては推薦登録の形は残したいが(というか、それ以外でこちらの必要とする形では派遣できない)、業者を通すと何かとめんどう なことがあるのと、金額も下がる(つまりヘルパーへの給金として業者はこちらにその金額を入れていたわけであって、意地の悪い言い方をすれば、業者は何もしないでヌいていたのである。っていうか、そういう形だった。業者が悪いわけでもない)。直にした方がこちらに入ってくる金額が上がる、ということであった。時間増が実現しなかったこともあって、その部分で市が考えた結論だったのだと思う。
ただ、市内県内ではこうした障害者団体への委託はしていなかったのと、他の団体が金ほしさに「同じように委託しろ」と言われるのは市としても困る。したくない、と。
そのために、NPOでもなんでも介助派遣をやる団体として法人を取ってくれ、というのが密談の内容だった。
NPO介助派遣システム、となった背景は、こうだったのである。委託がほしくてやったわ けではないし、ハク?をつけるために法人になったのでもない。
とはいえ、結局、この市の提案を呑むことにした。ここでもめてもいいことがないと思ったのと、この市の現場の人たちと一緒に何かできると思ったことも遠因である。
半年という、県の生活課の人が言うには異例中の異例のスピードで定款を完成させ、申請、翌4月からNPO法人として、委託を受けることになった。
が、ここでも、別に我々 はNPOにしたかったわけでもないので、NPOにあまり思い入れがない。形式だ。NPOにしたからって世の中の評価が変わるわけじゃない。もし、変わる人がいるとしたら、そんな人はあまり相手にしたくないし。
結局、こつこつとバザーやら機関紙やら、そういうことを積み重ねるしかないわけだから。

【10.この項の 最後に】

こうやってここまでを振り返ってみても、結局我々の言ってることはあまり変わってないな、と思う。それは世の中が変わってないってことだからダメなんだけども。
よくよく考えてみたら、当時から我々の主張は、「トイレに行きたいときに行きたいだけ」「ヘルパーの資格は使う障害者自身が決める」。ただそれだけなんだよね。そして、多分介助って本質はそういうことなんだと思 う。
制度やいろんなことはあって、その度にいろんな制度を市と話し合って作ってきたけれど、要は制度なんか分かんなくても少なくとも介助に関しては派遣されなきゃおかしいわけで。 だって、日常の基盤でしょ。
日本は、法の下の平等じゃん。だったら、トイレに行くとか、そんな部分については同じスタートラインまでは着かせてもらわなきゃおかしい。
それができないなら、憲法違反。そもそも、ヘルパーの時間に上限があるとかいうのは憲法違反なんだよ。
行政がそんなことしていいわけない。
生きるために介助を受ける権利は要介助者にあって、それを保障する「義務」は国と地方自治体にあるんだ。そのことは絶対に忘れちゃいけない。了

二三日後、故藤井の原稿(ラスト)へと続きます。









(BGM:Queen「Somebody To Love」from「Live IN Milano 1984 Part1」)
→ブート盤なのかしら。
音がよくない。
でもまあ、これでいいんだよね。
ちゃんと聞きたいなら正規盤を聞けばいいし、ライブじゃないのを聞けばいいし。

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