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2006年5月にその時までの虹の会の歴史的なことを書いている文章があって、俺が前半2000年まで、故藤井がその後を書いていて、まあ今読むと「なんでここまでケンカする?」くらいの感じで「ちょっと冷静になれ」とも思うが、あえてそういう歴史があったなあ、ということで掲載しようと思う。
ファイルが見つからなかったので、グーグルなんチャラで写真に撮ってテキスト化してみた。
あまりに長いのでちょっとちょっと分けて、の2回目です。
まだここまでは俺が書いている部分ですね。
この頃の障害者運動の熱さをちょっと思い出して欲しいと思っています。
【4. 市がヘルパーの夜間派遣を 行うまで】
92年12月に佐竹が急逝。
システムの屋台骨が揺らいだわけだが、ここで終わるわけにはいかない。機関紙によれば93年には、当時、ヘルパー派遣自体が夜間行われていなかったことなどもあり、夜間派遣、男性ヘルパーの登用、推薦登録派遣の実現の3本立てで運動が進められている。
同時に94年には「現へルパー研修は必要か?資格は障害者自身が決めればいい」という問題提起もされている。これについては、ヘルパー研修の中身、ということで連載もやっているので、かなり力が入っている。ヘルパーの派遣時間の拡大を求めながら、しかし今のヘルパーでは質的に問題があるとしているわけで、 結局、我々は推薦登録に向かっていたのだと思う。 とはいえ、具体は当時は、まず「そもそもの派遣時間枠を広げなければならない」ことがあった。そして、基本は、推薦も何も、「そもそもアンタのところでやれるンだったら、派遣してみろよ」的な部分もあった。そもそも男がいないんだろ?ってことだ(同性介助が基本であることは当然で、男でも女でもいいなどと言うのはただの 「差別」以外の何モノでもない)。そして、夜だからって障害者は障害を休みにすることはできない、という基本をここでは訴えていた。(略)
まずは推薦云々よりも、きちんとヘルパー事業を介助保障制度の要として成立させたかった。推薦はあくまでそのための一つの方法でしかない。(略)
夜間の介助保障がない中で、しかしシステムは、9 3年には冨沢を専従介助者として新たに雇い、95年にはバイトの介助者を募集することになる。
このことは、財政を圧迫し、ヘルパーの穴を我々がバザーなどで補完せねばならないという状況を生んだが、そのことをオレ達は盾にして市を動かすつもりでいた。
そもそも、生活に必要な介助者を雇うのに何でバザーをしなきゃならんのだ? ということだ。これは市民にも理解してもらいやすいと思っていた。
この頃は一回のバザーで150万とか200万とか行っていた時期でそれも年に6回とかやってたりした。
浦和でバザーといえば虹、提供品があったら虹、という雰囲気ができたのは、副産物としてとても喜ばしいものであった。それは現在のにじ屋につながっていく。現在、提供してくれている件数は5000件を超える。
確かにものすごい労力だったけれど、たくさんの人が手伝いに来てくれて、提供してくれて、という、結局、こうした市民に訴える武器がオレ達にはあった。これは運動の基本だと今でも思っている。
こうやってこういう要望書を作ればうまくいきますよ、などという、どっかが言う「マニュアル」をオレ達は使わなかった。(今の俺注*当時、要望書自体がある団体によってマニュアル化されたりしていて、ちょっとそれに対しては全く賛同できなかったのでこういう書き方になっている)
市民の一人でも多くが虹を知っているようにするんだ!という気概こそが、介助保障施策を進めてきたと 俺たちは思っている。
こうした地盤をオレ達は この時期、固めていたと言える。
【5.市がへルパー事業の改革を行う】
障害者は人の手を借りるんだから、つつましくおとなしく暮らしてればいい、という幻想は、もう終わりにしなければいけないと真剣に思っていた(今もだけど)。
少なくともオレ達の周りでは、浦和市では。
そのために徹底的に市を攻めたわけだが、それを受けてという形で、95年に市はヘルパー事業を大改革する。
これは全国的な流れもあったろうが、巡回型を導入し、夜間派遣のテストケー スとして「西部地区」にヘルパーを派遣することになった。西部地区とは我々のことだ。
が、ここではまだ推薦登録は実現しなかった。 だが、この「派遣拡大」が推薦登録実現のきっかけ となった。これは遠回りだったけれど、今になって考えるとスジとしてはよかっと思う。
結局、派遣拡大では何も解決しなかったことが証明されたのだから。
介助とは、時間数で図られる部分ももちろんあるが、人を介することである以上質の問題が問われる。こと現副会長の松沢は言語障害のためにいちいちへルパーに介助の方法を説明するのは大変だった。その上、何を勘違いしたか赤ちゃん言葉で松沢に接する、週に6人のヘルパーが入れ替わり立ち替わり来る、しかも向こうの都合でドンドン入れ替わる、勝手に家の中のモノを動かす、など、あまりの悪行に松沢がキレた。
で、松沢はヘルパー派遣業者と市に文句を言い続けた。「松沢初心者」が電話で松沢の言ってることを理解するのはほぼ無理だ。しかし、彼女は電話をかけ続けた。
そもそも、これまで来ていたヘルパーではない我々の仲間内の介助者やボランティアは松沢の言葉を理解できるが、新しく来たヘルバーには何を言ってるかわからない。
これが普段のことで、新たに出会った人だったらそりゃあ、ゆっくりわかってもらうことはありなわけだ
が、介助にいちいちそんなことやってられない。 説明でヘルパーの時間が終わることもあったというから笑い話にもならない。
介助とは、ある意味、生きていくために動かない手足の代わりとなる必要な手助けであって、いちいち手足に説明しているようなことはやってられない。これは日常なのだ。
これを受けて市の方から 業者と市との三者協議を持とうということで96年に「内容は口外しない」約束で行うが、業者は「どのヘルバーが?」と「犯人捜し」ばかりをしようとするし、オレ達の言ってることが全く伝わらないと判断。続けてやろうという事で始まったのだが、数回でこちらから辞退させていただいた。(口外しない約束、というのは具体的には機関紙を指し、実はこういうコトは多かった○月までは口外しない、というような約束もあった。それは基本的には市が約束をやぶらない限り我々は守った。(略))
結局、自分の介助者は自分で選んで育てるしかないのだ、と我々は悟った。だって、ボランティアでやっ てたときはこんな問題は出なかったもの。少なくとも松沢の意向を無視して部屋の掃除をするヤツはいなかった。当たり前だけど。
そりゃ、介助者を育てるなんて、そんなめんどうなことしなきゃならないというのもおかしな話だから、最後まで市がきちんと派遣しろ、という姿勢ではあったが、それはもう無理なのだとこれは市の現場も同じ意見だった。
なにせ、こうやって業者と話している時期にだって 新しく来たヘルパーは松沢を子ども扱いし続けたんだから。
このことが、オレ達の2級だとか何級だとかいうへルパーの資格とは何か、という疑問に拍車をかけた。我々は「お世話」してほしいんじゃないし、指導してほしいんじゃない。
こっちにはダメな生活をも送る権利があるんだ、ってことがわかってない。
何級の資格を持っていようが、自分が資格を与えた人しか介助者にはなれないのである。いや、それを国だか他人が資格を決めようと言うこと自体、「障害者は お世話されてればいい」ということを言ってるのと同じことだ。
そんなばかげた話がどこにあるか?
結局、このことが、市にとっても、毎日このまま松沢の電話を受け続けるか、 推薦を導入するかと言うところまで追いつめられた格好となっていたのである。 で、コミュニケーションが困難な場合に、ということで推薦を市に認めさせた。それが97年である。当時、浦和では推薦登録という言葉は使わず、「松沢方式の派遣」という言い方をしていた。これは市の人が言い出した言葉だ。
97年には市は巡回ヘルパーの24時間化に踏み切り、98年には松沢以外にも希望している我々の仲間に「松沢方式」を市は認め、これであとは「松沢方式」の時間を延ばせばいい、という段階に来たのである。
98年の段階でガイドなどをあわせて、24時間介助を必要としている人に認められていた派遣時間は1 5時間/日であった。
96年には全身性が国車に乗る形となり、対象に視覚障害者も含めたガイドヘルプ事業となった。時間数や単価も多少増えた。
これも、まあ出ればいいんだから国庫だろうが何だろうがどうでもいいが、ガイドになって、それまで社協かなんかで視覚障害者のボランティアをやっていた人が介助者として流れてくることになって、なんかおかしくなったこともあった。98年にはガイドヘルブの問題で要望書を出しているが、その発端はガイドへルバー証を配るとか、それを携帯しろとか、腕章を作るとか、それを介助の時にしろとかそういう馬鹿げたことが話に上がったことにある。(同時に、郵便物の墨字と点字の内容が違うことも発覚したのもこの時)
市によればこれは前述のガイドヘルパーの人たちから出された話らしく、「私は自分で腕章をつけてやっています」という猛者もいたとか。
これに対し、視覚障害者であるH(現在は他団体にいる)が猛反発した。「やってる人の自己満足じゃないか」と。確かにこの話の出た背景を市から聞くと、そのバックにはガイドヘルパーの「いいことをしている」感がにじみ出ていた。しかも、この話は派遣されてる側から出ているのではないと言うこともわかってきた。
介助は「してもらう」ことではない。いや、個人的にはお礼も言うさ。しかし、それを行政が認めるべきではない。個人個人の関係はそれでいいが、あくまで「へルパー事業」はそれを必要としている人の権利なのである。
これには徹底的に反発。 結局こちら側の要望通りなし崩しになった。
たぶん市の現場もあまりやりたくなかったのではないかと思う。だって、やっぱりおかしいもん。
社協の通信なども読むが、社協とは「イイコトしたい人」の集まりであるとつくづく思う。その背景には「やってもらうんだからつつましくおとなしい障害者像」がある。個人としての「礼」は必要だろうし、幼稚園で習うような普通のことだよ。人間だもの。しかし、制度にそれを乗っけられてしまうのは違う。
そう、制度ばかりじゃない。数字ばかりじゃない。そういう世の中の見方をこそオレ達は変えていかなければならないのである。その上に制度や数字があるのだから。
【7. 財政がいよ いよピンチに】
推薦が認められ、一部、自分たちで雇っていた介助者の給料は出るようになったものの、介助はボランティアから有償に移っていて、 (つまり学生ボランティアは金銭的にはバイトとなたったわけだ)97年にはアキを専従として雇うなど(前年にNが辞めていることもあり、アキが来るまで、特に女性である冨沢は24時間介助を強いられていた) 内部では拡大路線は止めなかったので、結局、財政に は赤信号が灯った。
つまり、介助料が行政からでなくても、必要な分の介助は必要なのである。だから介助者は雇わなければならない。
その分の金はバザーやいろんな手で稼いだ。その主力が三原や専従であって、専従に至っては自分の給料を自分でバザーをやって作るということをしていたわけだ。
だが世の中にはおかしな人もいるもんで、だったらどっかでバイトでもした方が金になるという人もいたが、それでは意味がない。前述したが、バザーをやってるからこそこれは運動になる。(略)
市民の後押しがなければ運動にならない。我々は制度を変えようとしているのではなく、社会を相手に運動をしているのである。その上に制度がある。
しかし、推薦になったところで単価が1500円を切る状況で、それも追いつかなくなっていた。
そこで、98年1月、奥手である「虹の会大ピンチ」キャンペーンを打つ。
提供者全てに機関紙で知らせ 浦和駅前などで雨の中ビラを配ったこともあった。この効果はてきめんで、 すぐに市に電話してくれた、 全然知らない人だけど、そういう人もいて、市はかなり焦ったようだった。(略)
結局、本筋ではないが、市の方からの話もあり、当時事業所として機能が始まったばかりのネットをデイケアとして立ち上げることにし、その補助金を得ることにもなった。この時はまだ生活ホーム同様、デイケアを利用して、という感じでもあった。
が、同時に「事業化」という話が内部では上がっていて、当時いたMらがCILをやりたいというような こともあったり(やりたいといっていた当人達が離脱 新団体を結成し頓挫)、養護学校から実習生が来たりして(ツノちゃんが一番手だった)、虹の会も変わっていく時期ではあったので、それはにじ屋を中心とした今のネットの始まりにもなったのだから何が幸いする かわからない。
(略)
【8.介護保険のこと】
すでに98年には機関紙上で「介護保険をにらんで」という記事もあり、かなり危機感はあった。
このまま介護保険に飲み込まれるわけにはいかない、という思いはこの時からあった。
とにかく、この段階できちんと障害者に対する24時間の派遣を確立したかった。
翌年99年にも「介護保険導入で障害者に対するヘ ルパー派遣の水準を下げるな」という記事もあり、実際に悦子さんが介護保険の派遣対象になるということも含め、介護保険になっても障害の部門で上乗せをするなりして絶対に水準は下げない、また、今後介護保険で対応できない場合はなんとかしろ、ということを主張している。
これはその後の介護保険の低所得者に対する利用料の補助事業を新規事業として市にやらせるなどのことにつながっていった。 どちらにせよ、推薦で業者とつながり始めたこともあって色々話す機会もあったりして、何となく世の中「障害者も介護保険へ」 という流れであることはわ かっていて、それに対して 抵抗すべきだと思っていた。
少なくとも、それまで働いて賃金を得る手段のあった人が、老後のために金を出しあいましょうというのは、わかってはいけないのかもしれないが、まあ、まだわからなくもないが、(今の俺注*若い頃に)働く場からも締めだしておいて保険料を出さなければ介助を受けさせないというのはどう考えても理に合わない。
介助を受ける権利はこち らにあって、履行する義務は行政にある。その一部であっても、そ の義務をこちらに転嫁するのはスジとしては間違っている。これは高齢者福祉の面でも同じかもしれないが。少なくとも介助はトイレに行く、メシを食うなど日常生活上最低限ラインの問題だ。生活していく上で何かがプラスされるモノではない。
【9. 委託のこと】
99年には、時間増は認められなかった。この時の機関紙には「行きたいときにトイレに行きたいだけだ」と大見出しをつけている。今と言ってることは変わらないんだな、と改めて思った。
また同年は、98年から始まった推薦のことで業者と一着があった。
業者に登録したヘルパー利用者限定の介助者として派遣している形を取っていたわけだが、業者が「二重委託と見られる可能性がある」と、難色を示し始めたのである。
今考えれば、介護保険によって、収入が増える業者がめんどうな部分を切ろうとしたとも考えられるのだが、このことが「直の委託」という方向に進み始める。
時効だと思うので書くが、市の現場の人から、99年 夏も終わりかけていたとき、00年から直の委託にしたいと打診があり、その件で何度か、シークレットの話し合いを持った。場所も1 1階で、とか、福祉課からも遠い場所でやったのを覚えている。
これは機関紙にも書かなかったのだが、その内容は、市としては推薦登録の形は残したいが(というか、それ以外でこちらの必要とする形では派遣できない)、業者を通すと何かとめんどう なことがあるのと、金額も下がる(つまりヘルパーへの給金として業者はこちらにその金額を入れていたわけであって、意地の悪い言い方をすれば、業者は何もしないでヌいていたのである。っていうか、そういう形だった。業者が悪いわけでもない)。直にした方がこちらに入ってくる金額が上がる、ということであった。時間増が実現しなかったこともあって、その部分で市が考えた結論だったのだと思う。
ただ、市内県内ではこうした障害者団体への委託はしていなかったのと、他の団体が金ほしさに「同じように委託しろ」と言われるのは市としても困る。したくない、と。
そのために、NPOでもなんでも介助派遣をやる団体として法人を取ってくれ、というのが密談の内容だった。
NPO介助派遣システム、となった背景は、こうだったのである。委託がほしくてやったわ けではないし、ハク?をつけるために法人になったのでもない。
とはいえ、結局、この市の提案を呑むことにした。ここでもめてもいいことがないと思ったのと、この市の現場の人たちと一緒に何かできると思ったことも遠因である。
半年という、県の生活課の人が言うには異例中の異例のスピードで定款を完成させ、申請、翌4月からNPO法人として、委託を受けることになった。
が、ここでも、別に我々 はNPOにしたかったわけでもないので、NPOにあまり思い入れがない。形式だ。NPOにしたからって世の中の評価が変わるわけじゃない。もし、変わる人がいるとしたら、そんな人はあまり相手にしたくないし。
結局、こつこつとバザーやら機関紙やら、そういうことを積み重ねるしかないわけだから。
【10.この項の 最後に】
こうやってここまでを振り返ってみても、結局我々の言ってることはあまり変わってないな、と思う。それは世の中が変わってないってことだからダメなんだけども。
よくよく考えてみたら、当時から我々の主張は、「トイレに行きたいときに行きたいだけ」「ヘルパーの資格は使う障害者自身が決める」。ただそれだけなんだよね。そして、多分介助って本質はそういうことなんだと思 う。
制度やいろんなことはあって、その度にいろんな制度を市と話し合って作ってきたけれど、要は制度なんか分かんなくても少なくとも介助に関しては派遣されなきゃおかしいわけで。 だって、日常の基盤でしょ。
日本は、法の下の平等じゃん。だったら、トイレに行くとか、そんな部分については同じスタートラインまでは着かせてもらわなきゃおかしい。
それができないなら、憲法違反。そもそも、ヘルパーの時間に上限があるとかいうのは憲法違反なんだよ。
行政がそんなことしていいわけない。
生きるために介助を受ける権利は要介助者にあって、それを保障する「義務」は国と地方自治体にあるんだ。そのことは絶対に忘れちゃいけない。了
二三日後、故藤井の原稿(ラスト)へと続きます。
(BGM:Queen「Somebody To Love」from「Live IN Milano 1984 Part1」)
→ブート盤なのかしら。
音がよくない。
でもまあ、これでいいんだよね。
ちゃんと聞きたいなら正規盤を聞けばいいし、ライブじゃないのを聞けばいいし。
