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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
ちんどん太鼓担当

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「お前は宝くじが当たっているのに、引替に行く勇気がないだけだ」


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専従募集


録りためてあった映画などを見たシリーズ。
ネタバレします。


「グッドウィルハンティング」

マッドデイモン若かりし頃の。
天才孤児を演じてます。
悪い仲間とつるんでるけど、…まあ悪いっていうか、普通のダメな子たち、って感じなんだけど。
これがなんかすごくリアル。
マッドデイモンの仲間の、この、「ワケのわからない感じ」「すぐに会話を理解しない感じ」というの、あるなあ。
悪気はないのに、なんかもうバカすぎて理解できなくて場の空気を凍らす、みたいな。
底辺校あるあるみたいな。

ま、そんなことで。
この映画、カッコイイのは、その仲間。
天才のマッドデイモンに、「俺が20年後にここにいるのはしょうがない。でも、お前が20年後もここにいたら俺はぶっ殺す」と。
「お前は宝くじが当たっているのに、引替に行く勇気がないだけだ」と。

いや、これね、コレを言える友情ってスゲエと思うんだよね。
たいがいは、嫉妬しちゃうし、足引っぱっちゃう。
ヤクザは組織を抜けるのにいろいろなことを課したりする。
それだけ「俺らだけ置いてカタギになるなんて許さない」ってアレがあるわけね。

それをこのセリフで飛び越えてくるの、かっこいい。
この役者さんもなんかカッコイイ。
調べたら、ベン・アフレックって人だった。
ファンになったわ。




「ベイビードライバー」

子どもの頃、両親と乗っていた車が衝突事故を起こし、親はその事故で死亡。
以来、衝突の時の音が耳鳴りとなって鳴り続け、そのためにずっとヘッドフォンで音楽を聴いてる主人公。
読唇術も身につけ、とにかくずっとヘッドフォン。
しかし、運転の腕はピカイチで、いろいろあって悪党に使われている。

ま、その悪党とソリが合わなかったりしながら、最終的には組織を抜けようとするんだが…、という物語。
これ、なかなか秀逸なのは、ちゃんと復讐をする。
そして、捕まり、刑期を終えて恋人とハッピーエンド、というね。
ハッピーエンドまでが長いが、まあコレの方がすっきりするよね。
やっぱ、復讐は復讐でも、逃げおおせちゃったらダメだもんな…。

全編、なんらかの音楽が鳴っていて、ミュージックビデオみたいな。
そして、なんか主人公も軽快でキュートな男の子。
ヒロインも50Sっぽい雰囲気を醸し出していてキュート。
キュート+キュート+ロック=踊りたくなる、という感じの映画。
主人公のように、コーヒーをトレイにのっけて、街を颯爽と歩きたくなった。
この手の「歩きたくなるかっこいい映画」はけっこう好きだわ。


「ライト/オフ」

ライトを消すと浮かび上がる霊と闘う姉と弟。
どうも、そのお母さんが子どもの頃の友だち(死んでる)、が出てきてるようで。
で、物語を複雑にしているのは、お母さんに精神疾患があって、冒頭、「もしかしたら全ての某はお母さんがしでかしてるんじゃないか?」という感じもあるんですね。
でも、実際、ライトを消すと見えちゃうんだなあ、これが。
どうもお母さんの中の「ごめんなさい」みたいな気持ちが、実体になっちゃった、みたいなことらしい。
う~む…、実体になっちゃうか…。
恐ろしい話です。


「2LDK」

小池栄子さんともう一人の美人さんの女優さん、二人によるシュチュエーションスリラー。
って、スリラーか?これ。
というより、いわゆる「女のドロドロ劇」。

ルームシェアしてる二人。
同じ事務所かなんかに所属している、なんか女優の卵、みたいな。
とにかくまあ、お互いにイヤイヤで、嫉妬とかそういうのがすげえ。
けど、なんか普段は抑えている感じなんだけど。

明日発表のオーディションを二人とも受けていて、その前日に感情が爆発する。
といっても、まあ徐々にエスカレートしていくのね。
その感じ、なかなかよくできてる。
特にまあ、大切なモノを壊されて「きいーーーーっ!」ってなる表情とか、なかなかいいのよ、これ。

小池栄子さんのアイアンクロ-からの畳返し?、とか、もう一人の彼女が急にチェーンソー持ち出すとか、もうどっかコメディチックな感じすら逆にリアル。
ナチュラルになんかありそう。
あ、チェーンソー、たまたま部屋に置いてあったのね、そかそか、とか。
そしてまあ、「一軒家プロレス」の様相を呈していきます。
というか、もう熱湯かけたり、感電させたり、プロレスを超えて、ガチに常軌を逸脱していく二人。

まあ、なかなか面白いです、これ。
あり得ない世界を、実にリアルに表現できてると思う。







(BGM:金井克子+ザ・ブルー・ビーツ+ミニ・ガールズ 「ミニミニ・ガール」fromYOUTUBE)
→いや、ミニスカートってのは、衝撃的なファッションだったんだろう。
ほぼなんか歌詞はないンですけど、ふ~とかほ~とか言ってます。
ゴーゴーギギッギー、とか。
でも、その中でも、ちょっとしたところで歌の上手さが光るわ、これ。
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人のため その2(ラスト)


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専従募集


http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4457.htmlのつづき


人のため、ってのは、まあ自分のためでもあるわけです。
自分が生きていくための糧、というか。
同時に、人が人のため、ってのは、他人が自分のため、ですから、という意味でも自分のためだよな、と。

世の中には、「自分さえよければいい」という人もたくさんいるし、そもそも、自分の今の感情を表現することが、どういう風に回りに影響していくか、とか、そういうことを考えない人も多い。
ヘイトスピーチ、なんていうのも、その一つかもしれない。


市丸やカブキもそうなんだけど、他の施設から来た人たちは、最初、とにかく「自分を通すことだけ」しかアタマにないように見えます。
他人の状況は目に入らず、とにかくやりたいことを「叫び続ける」という。
文字通り、カブキなんかは叫び続けていました。

でも、集団にはルールがあるし、そもそも社会にもルールがある。
やって欲しいことを主張することは大事なことだけれど、では、あなたは他人のやって欲しいことをどう受け入れていますか?という事において、まったくなんの学習もないように見えるんですね。

「昼を食べたい!」といくら言っても、やっぱり自分の昼の時間にならなきゃ昼飯のタイミングではない。
みんなで食べる大皿の料理を、とりあえずみんなが喋ってる間にぺろりと食べてしまったりもする。

こうしたことを、「知的障害者なんだからしょうがない」というのであれば、やっぱり彼らが「地域で暮らしたい」などというのは戯れ言なんじゃないか?と思うんです。

実際、他の連中は、それができている。
他の施設を通った連中だけですね、こういう反応は。
だから、できない、と断じるにはちょっと早計ではないか。


施設において、障害者が「利用者」と呼ばれて、その人たちの意向をくんでプログラムを組もう、そういう取り組みをしよう、というのは悪くないし、当然そうあるべきだと思います。
しかし、それがどっか、逆に「仲間作り」をしにくくもしてるんじゃないか?とも思います。

つまりこういうことです。

して欲しいことを、職員にぶつける。
職員は、利用者が言ってるから、とそれを実現する、ということを繰り返していると、その利用者にとって、職員は必要な存在だけれど、回りの他の利用者は関係なくなっちゃうのではないか?という。


でも、やっぱり、地域や社会というのは、様々な集団で構成されていますから、例えば家族もそうだし、会社もそうですね。
なんかのサークルでもそうでしょう。
そういう場所というのは、職員がいるわけじゃなくて、その利用者、が横にみんな並んでいるわけです。

その中で、自分の意向を通すというのは、他の人の意向も受け入れなければならない。
そのために、「ココは一度自分の意向を引っ込めよう」ということもあるわけです。

その「感じ」を少なくとも感じられれば、いくら意向を主張しようが、逆にそれは素晴らしいと思うんですけど、どうも、そうならない。


「障害者に優しくしましょう」ということと、「障害者が主体者であるべき」というのは、ちょっと意味が違ってきます。
「当事者主体」なんてことを、多くの障害者団体が言いますが、それは、「障害者の主張がすべからく通る」こととは違うのではないか、と俺は思うわけです。
逆に、全ての意見が通るのは、主体ではなくお客さん、なんですよね。

前回書いた老人ホームの話でもそうですが、結局、老人のみなさんが主体と言うより、老人のみなさんを「お客さん」にしてしまってないか?ということなんですね。


「利用者」として、施設の中で障害者の意見を尊重する、というのは、どこか「消費者的観点」です。
日常使われる、障害者は利用者です、というのは、「お客様は神様です」という言葉を凝縮しているようにも見えます。

でも、それは、あくまで「お客さん」ということが前提である以上、それだけでは主体にはなれないのではないでしょうか?

人の生きる場所、において、「消費者的観点」は相容れないように思います。
家族の中で、消費する人、買う人、与える人、という風に役割を分けて考えるのは難しいですよね。
もちろん、子どもが小さければ、それは子どもは受けるだけでしょうが、それはいつかその関係も変わっていく。
ずっとそのまま「与えられる側にいる」ことはないんです。


そう考えた時に、この「人のために」という、ごく普通の、ごく簡単な視点に、我々はもっと注目すべきじゃないか、と思うわけです。






(BGM:コンセントピックス「顔」fromYOUTUBE)
→「あんたはいい人だけど、顔が嫌い!」
ま、こういうことってままあるから、ブサイクは哀しい。

人のため その1


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専従募集


ちょっと前にカズミがこんなことを言ってまして。

人は、やっぱり、他人の役に立たないと生きてる実感?みたいのがもてないんじゃないか?って思って。
この前実家に帰った時に、おばあちゃんが、まあちょっとボケてて。
やっと育ってきた庭の野菜をキレイにみんな刈っちゃったり、洋服とかもタンスにしまえなくなったり。
でも、まあどっか「ボケてしまった」ということはわかっているようで、「それ違うじゃない」なんて言われても、「そうかそうか」って、なんか反論するとか、キーキーするとかはまったくなくて。
それでも、家の中のいろいろなことをやろうとするんだけど、でも失敗しちゃって、怒られて…。
みたいな感じだったんだけど。
そしたら、ある晩に、もう台所も洗い物が終わって、そんな時に、おばあちゃんが一人でシンクをこすってたんですね。
聞いたら、「私がみんなにできることはこのくらいしかないから」って言ってて。
それを聞いた時に、やっぱりおばあちゃんも家の中のみんなの役に立ちたいんだよな、ってあたりまえのことを思ったんです。


…泣く。
思い出して書きながらまた泣いてしまったじゃないか。

いや、これ、そうだな、って思うんです。

老人ホームで、みんなで誕生会しましょう、誰かがなにか出し物をしてくれます、みたいのがありますけど。
…それも楽しいとは思います。
でも、「やってもらうばっかりで」というのは、どっかご本人たちに募っていってしまうのではないか、と。

自分がみんなのためにできることはないか、って、やっぱ人は考えるんじゃないか、と。


そんなことをまあ彼女の話を聞いて思ったんですけど。
彼女は、そのことを経て、機関紙にこんなことを書いていました。


 虹の会では、「できないことはできない。それぞれができることを頑張ろう」「自分のことより人のこと」ということを、みんなでよく言い合います。これらが、今の私にとってとても支えになっているということ。そして、これらは障害があろうがなかろうが社会の中で生きていく人間にとってとても重要なことなんじゃないかということ、そのふたつについて書こうと思います。

 私は鬱になって、できることが減りました。
 にじ屋で接客することが厳しくなりました。それから、朝から晩までカブキたちと一緒にいることが厳しくなりました。そのふたつができなくなったことは、専従である私にとってはとても大きな事です。
 専従としての役割は、カブキたちとどれだけ一緒にいられるか、というところに大きく寄っていると思うからです。
 では今何をやっているかというと、カブキたちがにじ屋へ向かった後の無人の事務所へ10時頃行き、品物の値段付けをします。それから他の人に比べて得意な機関紙編集を、多めに引き受けます。あと、わりと得意な、ビラやポスター作りをします。そして、カブキたちがにじ屋から戻ってくる前に、ひとりで帰ります。

 品物の値段付けや機関紙編集は、鬱になる前の私にとってはただの作業でした。でも今の私にとっては、他の専従がフリーになる時間を増やすためにやること、という感覚になりました。
 「やらねばならないこと」に追われて、カブキたちと向き合う時間が取れないまま1日が終わってしまうこと、それは実際以上の疲労感につながります。私自身が鬱になる前、そうでした。だから今は、他の専従たちにその時間が作れるよう、私は「やらねばならないこと」の方を片付けていこう、と思っています。

 「できないことはできない。それぞれができることを頑張ろう」。そう言い合う虹の会では、みんなと一緒にいることができなくなった私を、責めるような雰囲気はありません。じゃあ新田さんに「できること」をやってもらおう。
 私は今も、この場所で必要とされていることを感じられます。鬱になる前と後とで、その中身は変わったけれど。

 何をするか迷ったときは、「何をしたらみんなの役に立つだろう?」「何をしたらみんなが喜んでくれるだろう?」と考えます。それをしなければ、できることが減ってしまった私には、この場所にいることがとても心苦しいからです。
 「自分のことより人のこと」。それは今の私にとっては、自分がこの場所に気持ちよくいられるための術です。

 そしてこのことは、カブキたちもきっと同じだと思うのです。
 障害があっても気持ちよく社会の中で生きていけるためには、できないことに目を向けるよりも、その人に何ができるのかに目を向けること、そしてできないことが多いからといってお世話をしてもらうだけでなく、自分が誰かのためにできることはなんだろうかと考えること。お互いが必要としあっているのだということに気づくこと。必要としあうことで成り立つ集団、社会であるということに気づくこと。

 そして、私はこういうことを認識して言葉にすることができます。でも知的障害のあるカブキたちにはきっと難しい。だから私は、あなたにもできることがあるのだということ、あなたにも誰かの役に立てることがあるのだということ、それを彼らの目の前で現実のものにして見せてあげたい。そう思います。
 そうしたら彼らは、障害があっても、もっともっとこの社会のなかで気持ちよく立っていられるのではないでしょうか。


続きます






(BGM:西川きよし「子供が三人おりますねん」fromYOUTUBE)
→子どもが三人、子どもが三人…、という冒頭のコーラスが素晴らしい。
というか、なんでこのレコードを企画したのか、ということですよね、そこがなんとも不可解。

人生で一番大事なのは友達です、とよく言います(その2・ラスト)


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http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4440.htmlのつづき


足らないところ、というのは、「仲間がいるでしょ?」ということね。
つまり、オグラだったらオグラの「同室の人」という人が。

けどまあ、これは何回か書いているけれど、オグラは同室だった人の名前を思い出せない。
「何人かいたハズなんですけど…」という彼の言葉に、その「頓珍漢で話を続けるための感じ」は受け取れない。
ま、そういう時とそうじゃない時の違いくらいはわかります。

そんなことあるんかい?と思うけど、あるんだな、これが。


例えば、どっかに行った時とかに、市丸の知り合い、みたいな人が声をかけてくることがあって。
あとで聞けば、前の作業所で一緒だった、とかいうんだけど。
でも、それはほとんどが、「一緒にいる親」が市丸に声をかけてきます。
というか、ほとんどじゃないな、100%。
今まで、本人が話しかけてきたことはない。
親が気づいて、「市丸くんじゃないの?」って言ってくる、という。

で、話が始まるんだけど、市丸もまああまり覚えてないし、あやふやなんだけど、それを必死にその親が話として構築しようとする様子はわかるんだけど、実際にまあ、話は弾まない。
そして、その本人は、「全く一言もしゃべらない」で終わることがほとんどだ。
その親に、「ほら、市丸くんだよ、挨拶しなよ」とか言われて、でも向こう向いたまま、みたいな。

こういうひとしきりのコトがあった後、市丸に「さっきの人誰だったの?」と聞くと、たいがいの場合、「学校の時の友達」とか、「前の作業所の友達」とか言うんだけど、いやいやいや、それ、友達じゃねえし、みたいに思うんだよね。


同じクラスだった、とか同じ作業所だったってのは、確かに「友達になるきっかけ」にはなるけれど、それが=友達、ってのはちょっと違うよね。

少なくとも、友達は十年ぶりとかに出会ったならちょっとは懐かしい話をしたり、「ひさしぶり~」ってなって、たいがいは連絡先を交換して、「次は呑みに行こうぜ」ってなります。
これはまあ、そういうモノと決まっています。

そうじゃない場合は、友達とは言えない、といっていいかと思います。
というか、俺はそう思っています。


ま、つまりですね、多くの場合、彼ら同士の関係性ってのが、ものすごく薄いんですよ。
同じ施設にいた、同じ部屋にいた、そこで十年暮らしていた、のに、思い出せない。

これ、まあそういう場所に勤めている人とか、関わってる人は思い当たると思うんだけれど。
どうしても、職員と入所者、という風な縦の関係しかできない。
できない、というか、できにくい。
そこに親が関わると、一気に本人同士の関係は遠くなって、親が挟まらないと一緒に出かけたりすることも難しくなる。
ま、これは友達の中に親が入ったらどうなるか?っていう、子どもの頃の経験を思い出してみたらいい。

いや、まあ元々一人じゃ出かけられない、ってのもある。
友達関係が作りにくい、というのも、障害の特性だなんだかんだ、わからなくはない。


ま、だからこそ、そこを必死になって、ムキになってなんとかしないと始まらないって俺は思うのです。

だって、友達が人生で一番重要なわけじゃないですか。
もちろん、学校の先生も重要ですよ。
先生や親によって人生って変わっちゃう、ってのもわかります。
でもやっぱ、友達がそれをもっと変えてくれる、ってところもあって。


なんか今の状況は、「知的障害の子には友達ができなくてあたりまえ」ってなっちゃってる。
それ、ホントに正しいのかどうかもわからないし、しかもホントにそれでいいのか?って。

確かに、友達はうざい。
うざい時もある。
でも、うざい時があるから、いい時もあるんじゃん…。


井上やノブが、次の休みにどこに行こうかって、事務所の隅で話してるのを見てると、なんか俺は楽しくなる。
もちろん、その中で、ケンカもあるし、「あいつは連れて行きたくない」とか、「連れて行きたい」とかってコトにもなったりする。

けど、それでいいじゃん、って思うし、そういうもんだと思うし。


「職員と話がしたい」なんてのはさ、やっぱ友達がいたら、そうならないんだと思うんだ。
「職員と話ができないから独り言で代用」なんてのも、友達がいたら、独り言を言う必要はない。

いや、独り言言ったっていいんだけどさ。
そうじゃなくて。


なんかね、施設の職員を増やそう、って行動も大事だと思うけど、一方で、「この子に友達なんか…本人、必要だとも思ってないと思いますし」っていう親御さん、職員のみなさん、ちょっとどうでしょう、そこ、考え直してみては?って俺は思うんです。
そこが、「もっと豊かな生活の入り口」って気がするんですよ。




(BGM:ザ・シロップ「ハダカになっちゃおうかな」fromYOUTUBE)
→これ、かっこいいわ。
クラリネット大熊さん?2本吹きしてる。
昭和歌謡路線は、すごく好きなので、どんどんしていただきたい。

人生で一番大事なのは友達です、とよく言います(その1)


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オグラが時々頓珍漢なことを言うことがあります。
「わざと」うそをつく、とか。
「わざと」同じことを繰り返す、とか。
「わざと」質問に答えないで質問で返す、とか。

ま、本気でそう言ってる、本気で「答えたくない」とかって時もあるんだけど、そういうのじゃなく、どこか「ふざけて」それをやることがある。
というか、それ、けっこう多い。

無駄だな、と思うんだわ、それ。

簡単なこと、例えば「昨日何食べた?」とかの質問に、「何食べたって、食べませんでした」とか笑って言ったり。
「そのタオル、どうしたの?」という質問に、「どうしたんでしょう」とか。
どれもまあ、笑いながら繰り出してくる。

こういうのは、ちょっとした質問であって、その答えによって次の展開があって、その展開のほうが重要だったりするわけで、さっさとその質問はうっちゃりたい、わけです。

そこで止まるんじゃないよ。
そこはさっさとちゃんと答えてほしい。
こっちも忙しい。

…と思ったときに、ちょっと思いついたんだけど。

これ、けっこうカブキにもあって、ほかの作業所から来た人によくある。
オグラは入所施設にいたわけだけど。

つまり、もしかして、これって「職員と話をしたい」っていうムーブなのではないだろうか。


そう考えると、他にも例えばシャツのボタンを掛け違える、というのがあって、それを一度指摘して、直しなよ、と。
そうすると、一回外してやるなおすんだけど、もう一度同じように掛け違える、という。
わざとではないんだとは思ってたんだけど、つまり「不注意なヤツなんだろうな」くらいの。
でも、よくよく考えたら、もう一度掛け違える必要はあまりなく。

というか、掛け違えることを指摘されたんだから、次は掛け違わないようにするわけですよね。
にもかかわらず、かけちがえる、ってのは、もう「何も考えてない」んだけど、その方向がつまりは「掛け違っちゃっていい」という方向に「何も考えてない」ということであって。

例えば、「掛け違ってるから直せ!」というのが、もし「掛け違っちゃいけない」という、ヒヤヒヤ感、強制感が伴うこととオグラがとらえれば、それは「掛け違わない」と思うんだよね。
でも、掛け違い続ける、って俺の印象は、まあ掛け違うか違わないか、半々の確率だとしてもそれ以上にかなりの確率で掛け違い続けてる、という状況なわけで、つまりそれは「掛け違うことによってのメリット」がなければそうならないと思うんだよね。

たいがい、掛け違っていたりしたら、みっともないから直す。
直すことに関してのメリットが大きいし、というか、直さないことはデメリットでしかない。

だから、言われれば、直すんです、誰でも。
でも、そのデメリット、が彼にとってメリットになるとしたら、直さない、ということも多い、それが無意識だとしても、ってコトになるんじゃないか?と。


掛け違いを「(施設の)職員が話しかけてくれるきっかけ」ととらえると、冒頭の「頓珍漢なやりとり」ってのと、構造的に似てる気がします。


今の施設がどうなってるのかよくわからないし、実際に入所している人の肌感覚がどういうモノなのか?というのは、いくらまあ見に行ったところで理解できるモノではないとは思います。
が、単純に人数の問題だけ取り出しても、職員数が少なすぎるのは誰にでもわかる。
これでは、例えば朝の時間に、一人と3分も話してられないな、って感じ。

それでは、話をしたい連中はなんとかして職員の顔を自分に向けさせなきゃいけなくなるよな。
オグラやカブキなんかは基本話好きだから、そうなるか。


で、そしてこの二人、この他に共通するのは「独り言」。
時々、一人で誰かに?いや、誰にでもなく?独り言を言っている。
正直、気持ち悪い。
夜道でこんな人が後ろを歩いてきたら、そりゃ逃げる、ってレベル。

これ、この話を延長して考えると、「それでも(職員が)相手にしてくれなかった場合、独り言を言わなければやってられなかった」ということなんじゃないか?と推測ができちゃいます。


ただ、この論というか、話の流れには欠落していることがあって。


続きます





(BGM:草間ルミ「時計をとめて」fromYOUTUBE)
→これはスタンダート曲ですね。
これがカバーになるのか。
名曲。
そして、草間ルミさんってイイ声してる。
このかすれ具合、それでいてしっかりした音程。

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