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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
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グローバルに対抗する手段は?


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録りためてあった映画を見たシリーズ。
ネタバレします。


「WELCOME TO JAPAN 日の丸ランチボックス」

まあ、どうなんですかね。
「おもてなし」「2020年大東亜世界体育大会を日本で開催」といったような言葉がちりばめられた、まあ映画でしか成立しない物語、というより映像。
こういう発想は面白いとは思うし、コスチュームやメイクも悪くない。
が、正直どうかな…。
ちょっとマスターベーション・ムービーかな…。


「ズーム 見えない参加者」

コロナだから外に出れない。
ズームで降霊会をやろう、という。

いや、もう苦言の嵐となりますが、まずですね、「降霊会をやろう」というのは、もうホラーのとっかかりとしては0点なんですよ。
もう絶対何かが起きるわけでしょう。
なんなら、参加してる人たちも、「何かが起こると期待している」ということでもあるんだよね。
ホラーは、霊が出てくること、霊障を受けることを待ち望んだらダメなんですよ。
それって、「バカじゃん!」ということになる。
そうなると、登場人物に感情移入できないんですよ。

そしてそもそもね、このズームの参加者がふざけすぎ!
そりゃ、もう、霊だって怒ります。
俺が霊でも怒るよ。
…って、霊に感情移入させてどうすんだ…。


「ノンストップ」

韓流映画。
しがない揚げパン屋の一家がハワイ旅行に当選する。
しかし、その飛行機が北朝鮮のエージェントにハイジャックされる…。
さてさてどうなる…。

これね、もうサイコウに面白いです。
なんと、その揚げパン屋のおばさんが元北朝鮮のエージェントだったのである…。
そして強い。
しかも、旦那さんも元エージェント、数年前、その奧さんを見張るために送り込まれていたのである。
でも、愛情がわき、エージェントとしての職を捨て、二人で揚げパン屋をやっていたんだよね。
ま、最終的にはこの二人と、そして乗客だったり、乗務員だったりのチカラでなんとかハイジャックは阻止。

いや、その通り。
あり得ないよ。
あり得ないけど、とにかく引き込まれた。
いい映画じゃないか。
映画ならでは!。

なにせテンポがいい。
コメディとしてのテンポもいい。
乗客のキャラも説明を省き省き、それでもはっきりキャラが出ていて面白い。

なにより、旦那さんが何者であっても、どんなときでもお前が大好きだよ!という気持ちを隠さない。
これがなんだかとにかく見ていて気持ちがいいのだ。
最後の、「もう飛行機はこりごりだよ!」というセリフにすら泣けてしまった。

これはぜひ見てほしい一作。


「クローゼット」

韓流ホラーということになりますか。
クローゼットの中に何かが潜んでいる。
そのものによって娘が行方不明に。

その娘はちょっと前に交通事故で母親を亡くし、父親と二人暮らし。
しかし、トラウマから抜け出せない上に、仕事にも早く復帰したい父親との間にミゾが大きい。
そもそも母親の生前から娘のことにはほとんど関わってこなかったのだ。
そんな時に娘が行方不明になるので、世の中は彼を犯人と言いたげな感じに…。
けっこう八方塞がりの状況…。

とまあ、設定はいいのだが、そこに祈祷師を親に持つ青年がやってきて、いきなり話はダークファンタジーになってしまう。
霊が出てきて、祈祷師らしき人が「その霊と闘うんだ!」とかってなってしまうと、もうそれはあまりに非日常過ぎて入り込めないのであった。
ホラーと祈祷師は一見近いように思われるが、ホラーに祈祷師はけっこう鬼門だということがよくわかった一作。


「バクラウ 地図から消された村」

南米?のまあ、「ど田舎」の村。
なぜかその村を狙う連中がいる。
皆殺しを企んでいるようで、その連中は「人を殺したい」みたいなイカれた連中。
統率が取れているとはまったく思えない、ただの烏合の衆といった感じ。
最初は何のことかわからない村人も、数人が殺されて立ち上がる。
敵を殲滅させるために。

この村を攻めてる連中、最終的には政治家の差し金なんだけれど、つまりはこの村を消し去って、政治的に優位に立とうというようなことらしい?というか、その辺はよくわからない。
ただ邪魔だったのかもしれない。
しかし、最終的には村人の圧勝。

これね、グローバル化、欧米化、みたいなモノに対する村人の抵抗、という設定なのだろう。
この村はミニマムに、そのまま、世界の中で存在したい。
最後に捕まった敵側のボスが言う、「これは始まりに過ぎない」という言葉が象徴的である。
どこまでも世界はグローバル企業に席巻され、欧米化という均一化が止まらない。
けど、こういう村があってもいいじゃないか。
むしろ彼らの選択がオレにとっては希望に見えた。






(BGM:藤圭子「女のブルース(MONO)」from「HOTWAX TRAXコンポーザー・シリーズ 新宿の女/盛り場仁義」)
→藤圭子さんって、独特の感じがあって。
すごく好きなんだけれど。
HOTWAXシリーズ、けっこう揃えたくなる。

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小さき自分で


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(BGM:増田貴光「夜の虫」from「~昭和プレミア歌謡~ 喉から手が出る歌謡曲」)
→「パパンパッパ~」という入りから、歌が始まりますが、とにかくまあその後の時代なら「5時から男」なんだが、加えてこちらにはエロっぽい響きもあったりなかったり。
エロっぽいというか、恋の話なのね。
女泣かせる夜の虫、とにかくモテるらしい。
夜の虫ってすごい。

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2006年の「熱さ」 その1


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2006年5月にその時までの虹の会の歴史的なことを書いている文章があって、俺が前半2000年まで、故藤井がその後を書いていて、まあ今読むと「なんでここまでケンカする?」くらいの感じで「ちょっと冷静になれ」とも思うが、あえてそういう歴史があったなあ、ということで掲載しようと思う。
ファイルが見つからなかったので、グーグルなんチャラで写真に撮ってテキスト化してみた。
あまりに長いのでちょっとちょっと分けて。

この頃の障害者運動の熱さをちょっと思い出して欲しいと思っています。


2000年くらいまでの介助保障運動関係の部分をまとめてほしいということなので、当時の機関紙を読み直して、思い出しながら書いてみたい。それにしても機関紙を読み直してみると勢いのある団体ですね、虹は。よく、虹は過激だ、と言われてたけど、まあ、「浦和市は要介助者に死ねと言っている」というようなタイトルもあったり。
まあ、「ヘルバーが全く×」って言う時代だから、その通りなんで、なにも反省すべき点は全くもって見あたらないし過激でも何でもなく事実なのだけれど。 市との交渉で夜中まで市役所から帰らなかったこととかも思い出しましたね。。
これからも基本はきっと変わらないんだろうけど、今の根っこになってる部分というか、その辺が見えてきたらいいかな、という感じで書いていきます。(副会長・佐藤&ぶ組インターナショナル記)

【1虹の会発足から、あき江さんが死ぬまで】

87年に虹の会の初代会長のあき江さんが死んで、 その当時は「あき江さんを囲む学生ボランティアの会」だった虹は、そのままツブれるはず?だったんだけど、いろいろあって、かおるさん、佐竹、俺と三原、当時事務局だったMさんやTさんと続けることになる(今の俺注*俺は虹の会を解散する派だった)。
筋ジスだったあき江さんは病院を出て、生保の他人介護料(県基準)で昼間に主婦的な人に来てもらい、夜は泊まりのボランティア(ほぼ学生)で生活をしていた。
あき江さんは、市との話し合いでやっと手に入れた 吸引器を「こんな大仰なモノを出しといたら、学生が来なくなっちゃうよ」 と、まあ、「まだ大丈夫」というのもあったんだろうけど、天袋に入れたままにしていて、結局痰が詰まって死んでしまった。
もちろん、出しておいたところで、それが介助者に使えたかどうかはわからない。
今、呼吸器をつけて生活している工藤さんとかの介助のことを考えると、「学生ボランティアに頼る生活」というのがどれだけ生命を縮めるモノなのかがわかる。当時はヘルパーは市職、夜間休日は来ない、週3回3時間計18時間などとい実質的には「上限」があった時代だ。しかも実際は18時間も来ることはとてもじゃないがなかった。
その中で、ボランティアという「善意」に、生命の基盤である介助をやらせてヨシとする当時の行政の在り方に問題があったのである。誤解してはいけないのは、その「ボランティア」が彼女の地域での生活を支えていたのは事実で、そのことはその当時のボランティアのみなさんにも誇りに思ってほしいし思ってくれていると思う。
つまり、これは当時の介助ボランティア個人の問題では当然なく、「介助とは何か」という当時の社会の認識の問題だと思う。
あき江さんの地域での生活を実現するために82年、ほぼ四半世紀前に発足した虹は、当初は、そうした「障害者は施設にいるのが当たり前」から一歩も抜け出していない社会の中で産まれたのである。
ま、「障害者は施設にいるのが当たり前」という認識は今でもあるかと思うけど、公共交通機関の対応や行政の対応は、冷静に考えると当時に比べ、まだまだとは言っても、そこから見たらかなり前進している。
彼女や、当時全国各所で施設を出てひとり暮らしをはじめた障害者は、自分がリーダーとなり、その地域障害者運動を引っ張っていた。
当時よく言われた言葉であるが、「障害者運動のリーダーでなければ自立ができ「ない」という時代だったのである。というか、「リーダーでなければ」ではなく、みんな、次代のために、「リーダーになった」のだ。
誰もが、自分の仲間が次に施設を出られるように、自分が出たのだ。そのためにはリーダーにならなければならなかった。それだけのことだ。
同じく筋ジスの工藤現会長が、気切(今の俺注*気管切開)しても地域で生きる、と言って介助者に理解を求めた一番の理由は、「もちろん生命という意味では、病院より(ここの方)が危険も多いかもしれな い。でも、ここで俺が病院に戻ったら、これから気切するみんなも戻らなきゃならなくなる。それに俺はここにいたい」ということだった。
現在に続く歴史とは、そうした先人の切り拓いた道の上にあるのである。そうした、死んでいった、 いや、社会と格闘して「戦死」した人は、あき江さんだけではなく、全国に数知れまい。
我々は、その死をムダにしてはならない。
そして、我々も命をかけて、この道を次代に拓き続けていく心意気を、多くの仲間と軽やかに持ち続けてやったろうかい、と、思う。(今の俺注*恥ずかしい)

【2.「生活ホー ム事業」という 「戦術」】

89年には工藤さんと松沢がひとり暮らしするということで、浦和に出てきたが、当時、ヘルパー制度などはさっき書いたように全く使い物にならず(そもそもいないし)、24時間の介助を必要とする工藤さんらの介助は、何の保障もな かった。
生活保護の中の項目で他人介護料というのがあったが(いまもあるが)、そもそもこれは介助保障の制度ではない。障害者=生保という意味で使っているのか、「全国に介助保障制度がある」というようなことを言っている団体もあるようだが、 実際は、生保の一部門の話で、金があれば生保は受け 取るべきモノではないだろう。
「(行政からの) 介助料を正当に使う」(あたりまえだけど)ことを主張するのなら、生保の調査のために郵便貯金を全額おろして、というようなことも、どちらかといえばあまり勧められる方法ではないはずだ(今の俺注*当時、そうしたら他人介護料が入るからそうしたらいい、と言っていた団体があったのでこういう書き方になっている)。
どちらにせよ、当時工藤さんには幼少時からの十数年に渡る入院生活で、金はなかったわけではなかった。使う場所がなかったから。だから、その金が切れるまで (っていうか、ひとり暮らしをはじめるわけだからすぐなくなっちゃうわけだけど)、それを始めっからアテにするのも違う。
で、我々は生活ホームという県単の事業を使うことにした。
これは4人以上の障害者が集まって暮らしていたら補助金を出すというモノで、当時、県としては多分、作業所に対する通勤寮的なモノを始めていた与野市の団体などのために作ったモノである。それはグループホームよりも基準のハードルは低かったことと、県としては88年から始まった目玉制度で、まだ数も少なく、取りやすかった。
とはいえ、そもそも我々は一戸にみんなで住む「集団生活」を目指したわけではないから、アパートの隣接した部屋を借りるという形で、90年の4月から5人の人が風見鶏(というアパート?マンション?)に住むことにして、この制度の補助を受けることになった。
このことでは浪花節の大家さんにはずいぶん世話になった。1階が空くごとに声をかけてくれて貸してもらっていた(現在合計5部借りてる)。障害者というだけで貸してくれなかった時代に、ありがたかった。
名前は「●●荘」とか言うのはイヤだったので、「虹の会生活ホーム」とした。っていうか、名前はいらなかったわけですね。 そもそも「虹の会生活ホーム・ ●●」って、その●●に入る名前を考えろって事でしょうから。
その後の機関紙(91年6月号に大々的に)なんかにも出てくるけど、我々がほしかったのは「枠」では当然ないから、そもそも生 活ホームに思い入れはない。利用した(というか、今も利用しているけど)という感覚かな。
でも、今になって思うとコバが家出をしてきたときとか、頭の手術で記憶が曖味になってしまった故・武藤さんのこととかも考えると、とてもこの事業は役に立ってはいる。
このことで昼の介助者として俺とM(女性)を専従で雇い(翌年にMは辞め、今でも「お世話になった」という人が多いNが (今は辞めたけど)専従になる。夜をボランティア、という形で新生虹がスタートするカッコとなった。

【3. 介助派遣システムスタート】

91年には浦和市でも県単の全身性介護人派遣事業 (以降「全身性」)がスタート。(1回4時間、月16時 間上限の690円/時)
とはいえ、当時市は「生活ホームがあるからヘルパーや全身性は出さない」などと言っていて、この件ではかなりもめた(今現在の俺が注*そもそも生活ホームの補助は「世話人」に対する補助で、金銭的には障害者一人あたり5万円くらいで始まっており、その人が24時間数人の介助をやるというのは現実的ではないものだった。いわば「アパートの管理人」という位置づけだったと言っていい)。
そもそもヘルパーは外出は病院のみ、などといっていた時代で、「障害者運動のリーダーでなくてはならなかった」人にとって、そもそも介助保障制度の要となるべきヘルパー事業は使えるモノではなかった。そしてなにより男がいない。 だったら、生活ホームやめるから、それをなんとかしろ、と言っても、いや、そこをなんとか・・・、てな具合で、なかなか話は前に進まなかった。 そもそも、当時の専従やボランティアと同じ介助を ヘルパーができるわけがないのはわかっていた。
外出で必要なら車でどこまでも行く、夜間の寝返り介助のためにベタで介助に入る、そんなことが当時のヘルパーにできるわけがなかった。(ヘルパーの力量という意味ではなく、制度的に。この時はまだ例の「目安」が「上限」であった時代だ)
今では考えられないが、「じゃあ施設に」などということを市の職員が言ったこともある。まだ当時は力なき虹、であり、市もそんなもんだった、っていうか、世の中がまだそんな感じだった。
で、交渉を続け、結果、92年に市はヘルパー・全身性を認め、生活ホームそのものの論議はここで終わる。
ここからはそのヘルパー、全身性を伸ばしていく、ということに的が絞られたわけだ。
時同じくして、佐竹がア メリカから帰国。生活ホー ム外で生活することになり、 全身性を根拠に、92年に 佐竹を中心に介助派遣シス テム試行。とりあえず仲間内でやっていということになった。
学生時代に工藤さんの介助に入っていたYちゃんを専従として雇う形で、夜、各所にヤナちゃんが回ることになった。
介助者をバイトで入れるようになるのはもう少し先のことだ。
つまり、そもそも、虹に於いて専従とは「専従介助者」の略であり、特にシステムの運営に係わるわけでもなかった。
三原ら、本職を持った職員じゃない人たちと同じように、バザーがあれば主力としてがんばってやったりもしたが、そういうことである。それも当時の専従に とってはやりたかったこと であったろうし。
今、専従の仕事が増えて、色々やってるけれど、そもそもは「やらなくていいこと」だと思う。だからこそ今の専従にも「やりたいこと」だけやって欲しいと思う。
まして、専従が虹の事務を回すようなことはこれからもあり得てはならない。
逆に、専従は虹を使う、べきであって、虹に使われたら終わりだ(今の俺注*この部分は何を言いたくて書いたのかちょっと不明。なんか今の考えとはちょっと違うと思う反面、基本はそうなんだけどさ的なところもある)。

二三日後に続きます。

全体的に今の俺注*
結局、ヘルパーが派遣されないから介助者がいなかったわけで、だからってあきらめることなくまあやってきたということで、その間、本当に金がなかった。
給料として出てきたのは月に5万。
なんでそんなことをしでかしたのかわからないが、専従皆がそうだったし、多くの無償のボランティアを集めてなんとか地域で暮らすために介助をやっていた。
カッコよく言えば、「先駆的な取り組み」だが、先駆的過ぎた、ということになろうか。







(BGM:鏑木創「野良猫ロック・セックスハンター MVP-2(MONO)」from「日活編 PART1 野良猫ロック セックス・ハンター/不良少女魔子」)
→これは挿入歌とかを集めた一作なんですが、こういうのに映画の雰囲気がコンパイルされているので見逃さないようにしています。
とにかくこのラインのやさぐれ系はとにかく好きです。
これは英語で何かを語りかけてくるけど、そんなに多分意味がないんだろう。
おーらい!えびばで!みたいな。
そこがいい。

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感謝


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ちょっと目まいがしましてね。
ま、これを書いているのは7/23ですが、7月の中盤ですね。
目まい、というのはあまり感じたことがなかったので、なんかもう、やばい、と。
もう立っていられない。
梗塞だとかって言葉が浮かぶ。
やばい。

が、ろれつが回らないとか、どっかがしびれるとかいうことはない。
寝転んでスマホを駆使してみると、どうも症状は耳がどうしたこうしたに当てはまる気がする。
もう全く起きれない感じだった日はかかり付けの病院が休みの日だったので、翌日の朝に予約をして行ってきましたけど。
そしたらやっぱり耳だと。

う~む。
耳ってすごい。

一時はね、血圧も考えたんですよ。
けっこう低いので。
でもそういうことでもなく、これは耳です、と。
なんなら耳鼻科に行ってもいいが、一週間か10日くらいでおさまるでしょうと薬をもらいまして。

で、今10日目くらいなわけです。

確かに復活はしてきましたよね。
この間、機関紙の編集作業とかもありまして、夜中までやらなければならない場面もあったりして。
でもまあ、やりきれましたからね。
かなりノロノロでしたけど。

ただね、やっぱ夜中になると目が回る感じがあるんですね。
これ、疲労ではないのか。
またはストレス。
確かにストレスについては思い当たるフシがあったので、まあアレなんですが、まあしょうがない。


で、こっからは26日に書いてますが、そんな中、まあ誕生会をやることになって。
これに関しては書いたけど(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-6334.html)、サプライズとかを毎年やってくれるので、今回ばかりは先に俺からやる、と言うのもありかな、という思いつきからだったんです。
毎年、いろいろみんなに気を遣わせちゃうのも心苦しく、ちょっと今年くらいは方向変えてみようかな、という。
ま、その時点では一ヶ月以上前だったので、まだ時間あるからなんか考えればいいか、くらいの感じでその時点ではいたんだけど、この耳の具合が悪くなっちゃって、ほぼほぼ何も考えない状況のママ、誕生会前日まで来ちゃいまして。
ああ、どうしよう、とは思っていたんだけれど、考えることが出来ず。

ついに前日か、どうしよう、と思っていたら、当日来れないというヨシヲ(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-5031.html)からビールが届いちゃったりして、かなり焦ってきまして。
その晩にアキと飲んでいて、いろいろ考えた結果、やっぱもうこれは金八2でいくしかない、と(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4803.html)。
最近はちょっと怪しくなってきたけれど、ほぼほぼセリフを完コピ出来る俺としては、これしかない、と。
開会のあいさつを珠子さんの手紙、閉会を加藤君の答辞、で、ブリッジごとに「人として」の合唱を挟む、という。
ま、恐らくはここで井上が出しゃばってくるだろうという目論見もあったりして。
それは当日ビンゴだったんですけど。
市丸も出しゃばってきましたが。
趣味があう犬猿でした(http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-6327.html)。

かなり追い詰められた形の誕生会となってしまいましたが、まあ遠方からも来てくれた人もいてありがたい限りです。
自分で誕生会をやるというのは西田ひかるさんくらいの感じかと思っていましたが、それがやれる、とりあえず「やります」って言えるのは幸せなんだろうな、と思いました。
最初は思いつき、毎年のサプライズをしてくれるみんなに対して心苦しい、というだけのスタートだったんだけど、逆にね、なかなかできないよね、と始まってから思いました。
始まるまではそこまで考える余裕はなかったんだけど、準備が終わって始まって、やっと座って、みたいな感じの時にみんなの顔を見てそう思いました。

そっか、こんなことができる、少なくとも言い出せるってのは幸せなんだなあ、と。
多少、耳の具合も完治とまではいえない状況で、準備も大変だったが、それもこうやってみんなが協力もしてくれて開催までこぎ着けられてありがたいな、と。

人数が多い飲み会、みたいな感じだったので、なかなか全員とキチンと喋ることも出来なかったんだけど、しかも途中で記憶無くなっちゃうし。
でもまあ、みんなそれぞれ楽しくやってくれたのであったら幸いです。

来年どうするかはわからないけど、またまあ、誕生日じゃなくてもなんかの機会にはみなさんよろしくお願いします。
ありがとう。
感謝!


【開会のあいさつ】
荒川の川風も名物の空っ風と相まって本当に一番寒い季節になって参りましたが、
坂本先生には、その後いかがお過ごしでございましょうか。
私は、おかげ様にて元気に暮らしておりますので何とぞご安心下さいませ。
さて、あいつのお袋に出す例の手紙の事ですが、昨夜は徹夜して書き上げました。
一生懸命に書きました。そして先生に読んで頂いてからお清書しようと読み直したところで
私の気が変わったのでございます。
自分で読んでいる内におかしくなって来たのでございます。
そして、何だか分からないけれど涙が出て参りました。
愛は自分で築くもの、真実は自分で突きとめるもの、書物は自分で探して巡りあうもの
先生が教えてくれたむのたけじの言葉だけれど、私、大好きです。
それで、何度も何度もお経みたいに口の中で唱えるのですが、それで私、分かったのです。
ほんとうの意味は違うのでしょうが、今さら私がちょっかい出さなくても
あいつは新しいかみさんと愛ってものを築いていけばいいんだわよね。
そして私は自分で自分の本当の相棒を探してめぐりあえばいいのだと思っています。
それからもう一つ
より高く、より遠くへ跳躍しようとする者は、それだけ助走距離を長くする
という言葉も好きです。私との事は、あいつにとっても私にとっても、本物と会うための
助走期間だったのだと思います。中学の時、陸上をやっていたからそんなふうに考えました。
翻りましてどうぞ笑わないでくださいませ。
私は今でもあいつの事が好きなんです。横取りしようとかいうのではなく、うまくやってくれるといいなあ
という、そんな気持ちです。
だからわざわざ波風を立てるような手紙を出すのをやめたのです。
以上、終わりです。間違ってる字や変なところがあったら、バッテンをつけて秀坊に持たせて下さい。
後は自習します。
先生が受験の事で忙しいの、わかっておりましたが、あいつの結婚式が迫っていたので
我儘をして申し訳ありませんでした。
それから、本当にありがとうございました。
それから、墨東工業の口、ぜひ加藤くんに世話をしてやってください。
社長はスケベですがいい人ですから。
では季節柄、御身大切に。

かしこ
坂本先生 土屋珠子 拝


【閉会のあいさつ】

俺は、この桜中学に来てまだ半年も経っていない。けどその俺が卒業生代表となったのは、この中学で、この俺ほどいろんなことを叩き込まれた奴はいないからだと思っている。
俺はミカンなんかじゃない。俺は人間だ。それを教えてくれたのが、ここの先生方や、お前らなんだ!
だから、一年生二年生の諸君に言っておく。この俺を手本にしろ。勝手にすねるな!
この学校には、お前らがぶつかっていけば体ごと受け止めてくれる先生がいるんだぞ! こんな学校他にはなかなかないんだぞ! この桜中学の生徒であることを誇りにしろ! てめえの中学に誇りを持て!
俺たちも、この桜中学の生徒であったことを誇りとし、頑張ることを誓います! 桜中学は、俺の母校です!








(BGM:THE EXECUTE「Next Door」from「SAVE THE VOICE II [Disc 2]」)
→アグレッシブドックスの方の治療のためのチャリティー盤ということになるのかな。
これはいつの録音かがちょっとわからないけど、ライブですね。
こういうのが聞けるのは嬉しい。

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国家資格を超えた資格が必要


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昔の機関紙を読んでいたら、2011年の8月号に、市に意見書を出したというのがありました。
基本、故藤井が書いたモノですが、けっこうわかりやすくまとまっているな、と思うので、スキャンしてテキストに戻してみましたので掲載します。

長文なんで、アレですが、補足のところが面白いかと思うので、そこだけでも。



「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」(平成23年法律第37号)の施行に伴う条例制定に係る意見書

日頃より、障害者福祉の充実及び、独自の施策展開等による障害者福祉の向上にご尽力いただき、ありがとうございます。

表題にあります通り、条例制定に係る、特に、対象省令「障害者自立支援法に基づく指 障害福祉サービス事業の事業等の人員、設備及び運営に関する基準」(平成18年9月29日厚生労働省令第171号)及び、「障害者 自立支援法第四十三条第一項」で定められている内容のうち、「指定居宅介護等の提供に当たる者として厚生労働大臣が定めるもの」(平成18年9月29日厚生労働省告示第538号)を筆頭に、障害者施策に関わる全ての資格制度について、意見を述べさせていただきます。
私たち障害者団体虹の会は、1982年に発足し、障害者がその一生において、施設や親元で様々な制限を受けた生活を余儀なくされている状況に対し、障害があっても一人の市民として、地域であたりまえに暮らすこと の出来る社会の実現を目指し、活動を続けて 参りました。特に重度身体障害者が地域で暮らしていくために必要な介助保障(ヘルパー派遣)の問題について重点的に取り組み、貴市との長年の関わりにおいても、幾度となく話し合いを続けてきたところであります。
今回述べさせていただく意見は、その介助保障に関わる「ヘルパー資格問題」が中心となります。 論点を明確にしていくうえで、まず、私たち虹の会と貴市との関わりにおける 経緯を簡単に説明します。


Ⅰ経緯

①ホームヘルプ事業発足まで

虹の会が発足した1982年当時、現在で言う、ヘルパー(居宅介護従業者)や介助(介護)に関係する施策や制度は全国的に皆無で当時の浦和市も例外なく、障害者に対する介助制度は、週に1~2時間程度の家庭奉仕員派遣事業しかありませんでした。そのような中、虹の会初代会長、故・福嶋あき江が、施設からの脱却を志し、地域でのひとり暮らしを始めました。
重度筋ジストロフィーの障害を持つ福嶋あき江は、24時間の介助を必要としていましたが(24時間の介助の必要性については、今回は省きます)、先述した通り、公的な保障としての介助を得ることは難しく、介助はすべてボランティアによるもので、生活の大半 は、そのボランティア探しの電話がけに費やされ、やがて生活は限界を迎えます。
そして、1980年代中頃、浦和市に対し、公的な介助派遣を要求し始めました。当時は 介助保障という概念が無く、門前払いの状態が続きましたが、全国的な障害者運動にも関わる中で、生活保護他人介護料加算や全身性障害者介護人派遣事業などの発展があり、浦和市においても、話し合いを繰り返し、それらが制度が導入されていきました。
福嶋あき江が亡くなった以後も、24時間の介助が必要な障害者を中心とし、浦和市と話し合いを続け、1990年代、全国的にホームヘルプ事業が発足し、浦和市でも運用が始まりました。 ホームヘルプ事業は障害者に対する中心的な介助制度と明確に位置づけられ、話し合いにおいても、その充実が課題とされていきました。

②松沢方式(自薦、推薦登録方式) 実現まで

1990年代中期から後期にかけては、ホームヘルプ事業の運用における、様々な問題 (補足)が次々と明らかになり、それら、問題解決のための話し合いを繰り返していました。中でも、派遣されてくるホームヘルパーの「質の問題」が大きく取り沙汰され、ヘル バー資格による弊害としても捉えられる事例がいくつもありました。
虹の会では当時、ホームヘルパーの派遣時間(当時はまだ、多くても1日3時間程度でした。以外はボランティア、パート職員、専従介助職員で24時間の介助体制を築いていました。それら無資格の介助者は、障害者が必要としている介助が、確実に出来る人として、障害者自らが募集し、選任した人たちでした。
そして、障害者自らが選任するため、資格があるというだけで、無条件でやってくるホームヘルパーよりも、確実な介助が可能で、介助内容の指示も確実に聞く理解があり(差別のない介助)、障害者が求める自分の意思に基づいた生活を営むための介助として、何ら不足はありませんでした。
しかし、無償のボランティアや、少ない給料しか得られない介助職員、専従介助職員を使い続けることは難しい(ボランティアはいつまでも続けられない。生活が成り立たないレベルの安い給料しか得られないパート職員や専従介助職員はいずれ辞めざるを得ない) 状況でした。一方、浦和市は、ホームヘルパーの質の改善に取り組もうと試みましたが、ヘルパー業者との調整がうまくいかず(業者側 が拒否するなど)、話し合いは飽和状態に陥りました。
そこで、浦和市は、公的保障である有資格ホームヘルパーの質の向上を前提としつつも、事実として無資格の介助者の方が障害者の必要としている介助に適していると判断し(認め)、無資格の介助者を公的に位置づける方法を検討し始めました。
そして、現虹の会副会長の松沢に対し、推登録方式(障害者自らが選任した、無資格の介助者を、既に委託を受けている他ヘルパー派遣業者に従業員登録し、給料を支払う仕組みを適用しました。 当初は市内で24時間の介助を必要とする障害者のうち、松沢のみに適用されたため、松沢方式と呼ばれていました。その後、数年の間に、他の障害者に適用され、浦和市における推薦登録方式は、障害者の介助保障、ホームヘルプ事業を運用するうえで、主流の方法となりました。

③委託を受けるまで

推薦登録方式の運用がされる中、介助者を他ヘルパー業者に登録する仕組みは、税制上の課題などが多く、その維持に困難が生じましたが、浦和市は推薦登録方式の続行を決め、 直接、虹の会に事業を委託する方法を模索していきました(他ヘルパー業者への登録は、 最初から苦肉の策であり、浦和市としては推薦登録方式を何としても進めたかったようです)。事業委託するには、前提として法人格が必要とされていました。そこで浦和市は、 1998年頃、全国的に特定非営利活動促進法 (NPO)が成立していたことに着目し、虹の会に対して法人格を取得するように要請しました。 1
2000年、虹の会は、既に内部で事業として実施していた、介助派遣システム (24時間の介助体制を維持するための総合的な事業)をNPO法人化し、推薦登録方式の運用を前提とした、ホームヘルプ事業の完全委託を受けることになりました。

④支援費制度施行まで

2001年、浦和市は与野市、大宮市と合 さいたま市となり、以後も、虹の会とさいたま市は介助保障の課題(当時はまだ、24時間介助保障には到達していませんでした)について、話し合いを続けていきました。
そして、2003年、全国的に支援費制度が開始されようとする中、様々な問題が生じました。 中でも一番大きな問題は、事業につ いて、委託ではなく指定に変えることでした。それに伴い、指定基準が定められ、その基準 は、完全資格化(委託であっても、資格があることが優先されることに変わりありません 自治体としての運用が柔軟におこなえるものでした)が明示されているものでした。
そして、さいたま市は虹の会に対し、ヘルバー資格を取ること、推薦登録方式(無資格者の排除を要求してきました。浦和市時代 からの関係においては、推薦登録方式による運用が優先的に考えられていたため(その事業の運用を要請されたわけですから)、当然、虹の会もその運用に全力をあげていましたから、介助体制は無資格者によって維持されており、指定基準を満たせるはずもありませんでした。
その要求は、委託を取り消し、数年前の問題のある状態(また他のヘルパー業者を使う) に戻すという、正直、例えそれが国からの強い圧力であったとしても、ほんの数年前まで、あれほどヘルパー業者やヘルパー資格の件で揉めていたことを考えると、信じがたいものでありました。
話し合いは、その介助体制の維持、つまり 障害者の生活の維持が焦点となり、簡単に言えば、虹の会が事業を続けていくためには、 推薦登録方式の続行が必要であり、それ以外に、24時間の介助を必要としている障害者に対する介助保障の手段は無く(明確な事実として、他のヘルパー業者では対応出来ないという実態が既にあるのですから)、さいたま市として介助保障をするのか、しないのか、という議論にまで達しました。
ただ、さいたま市も、推薦登録方式を維持することでしか、介助保障が出来ないことは、最初からわかっていたことで(何度も述べま すが、既に認めていたことですから)、結果的に、埼玉県が資格証明書 (みなし資格と呼ば れて、ヘルパー3級相当でした)を発行し、そして事業所指定するので、事業を続けて欲 しいという、妥協案を提示してきました。
無資格者を認めるのではなく、無資格者を有資格者にするというこの案は、ある意味、浦和市が自ら率先しておこなってきた、推薦登録方式(無資格者)を否定するものであり、簡単に受け入れられるものではありませんでした。しかし、さいたま市は、国との間で折り合いをつけられず、この方法を強く要請してきました。

本来、介助保障は憲法第二十五条に基づき、自治体が責任を持って執り行うものでありますから、虹の会に介助派遣を代行する義務はありません。従い、断るつもりでした。 さいたま市として、推薦登録方式を導入し、無資格の介助者を認め(集めさせ)、事業を進めてきたのにも関わらず、ここにきて、法律が変 わったからやめてくださいというのは、あまりにも無責任でした。この事業のために尽力してきた人たち(無資格の介助者たちだけではありません。多くの市民の方々がバザーなどの協力により、介助者を雇う費用を補填するなど、何十年もの間、市が出来なかった部分を支えてきたわけです)を蔑ろにする行為だったのです。

最終的に、さいたま市は、推薦登録方式の続行、今後も無資格者による運用を検討、維持することを約束したため、妥協案を受け入れることにしました。 そして支援費制度が施行されました(当時は激変緩和措置と言って、 今に比べれば多少柔軟性がありました)。
その後、さいたま市は、独自の資格がいら ない介助保障制度として、全身性障害者介助派遣事業を始めるなど、市として推薦登録方式を進めていきました。

⑤障害者自立支援法施行まで

2006年、障害者自立支援法が制定し、新たな仕組みによる運用が10月に施行されようとしていた頃、再び、同じ問題が生じました。支援費制度施行のそれより、完全資格化の動向が強くありました。
もはや国からの圧力は相当強く、特に資格関係については、その運用段階において、さいたま市独自の要素を入れていくのは、困難な状況でした。話し合いでは、支援費制度施行時と同様に、推薦登録方式の維持が焦点となりました。 結果的には、やはりさいたま市 独自の資格証明書を発行する形で、推薦登録方式は継続されることになりましたが、それは経過措置であり、いずれヘルパー資格を取得することが条件とされました(さいたま市その条件を提示したわけではなく、あくまでも国の動向に合わせるためであり、意識的には推薦登録方式を認める方向で考えていただきました)。
ただし、当時の移動支援、全身性介助人派事業については、資格を要件としないことをさいたま市は決定し、 推薦登録方式の必要性を認めました。これは全国的にも無いことで、さいたま市の強い姿勢を感じることが出来ました。

⑥現在に至るまで

障害者自立支援法施行後、国からの圧力は 強さを増す一方でした(介護保険に統合するとか、介護福祉士に一本化するとか、海外からヘルパーを補充するとか、混迷を極めてはいましたが、やはりどれも資格化に向けた動きでした)。
2010年には、虹の会に対して事業所監査がおこなわれました。当然、さいたま市との関係において意識的に、推薦登録方式、つまり、無資格者も肯定(表向きは経過措置) されている中で監査をすれば、基準を満たしているわけもなく、通常は、指定の取り消しに至るものでした。
話し合いの結果、さいたま市から、給付体系を比較的資格要件の軽い重度訪問介護に切り替え、何とか乗り越えるのでどうかと、提案がありました。その提案を受け入れることにはしましたが、何ら問題解決にはならず、その後、自立支援法の廃止が決定され、何故かつなぎ法案が制定されるなど、国の動向にも混乱が生じる中、資格の問題は未だ解決の糸口さえ見えない状態のまま、現在に至ります。

⑦経緯のまとめ

経緯において重要なことは、さいたま市と 虹の会との関係の中では、常に推薦登録方式の維持や推進が目的とされていることです。 つまり、現時点においては、推薦登録方式は意識的にも論理的にもベストな方法であり、その理解がさいたま市にあるにも関わらず、国の施策や周りの状況によって、困難が生じているということです。
これは、国の施策と、自治体の実態とが、完全にズレているということです。しかし国は、そういった自治体の実態について把握し ているにも関わらず、縛りを強めているのです。それは、金銭的な意図(例えば介助者をより取得が難しい介護福祉士などの有資格者に限定し、介助者を減らすことで、制度利用者の抑制に繋がり、自治体や障害者にお金を 使わなくて済むわけです)があるかもしれま せんし、一方で、自治体ごとに格差の大きい障害者施策に対しての、苦渋の判断なのかもしれません。
いずれにせよ、資格制度の動向によって、いまなお、障害者の生活の維持に不安 (完全資格化されれば、介助者の数、そして質を確保することが相当困難になります)があることは事実で、実態に則していないことは明らかです。
現時点では、推薦登録方式や無資格の介助者を認めるなど(他にも方法があるかもしれません)の仕組みを築いていかない限り、障害者が求める差別の無い介助保障の実現や発展は無いと考えています。

Ⅱ 本題の意見について

①前提

まず、勘違いをされないよう、お願いしたいことがあります。それは、必ずしも有資格者より無資格者の方が良いわけではない、ということです。経緯で述べているように、推登録方式が始まった頃、多くは障害者が選任することが出来ない有資格ヘルパーに問題 があって、障害者自らが選任した無資格の介助者、あるいは有資格の介助者(無資格にこだわっていたわけではありません)には問題が無かっただけのこと(それ以上の事実や理屈はありません)で、どちらが優れているとかいないとか、そういう議論では、一切ありません。
障害者にとって必要なのは、確実に介助が出来る人であって、その人にヘルパー資格があるとかないとかは全く関係が無いのです。資格があるというだけで介助が出来るという定義では困るのです。障害者自身が選任することが出来なければ意味が無いのです。資格があるからといって障害者が必要としている介助が出来るとは限りませんし、当然、無資格だからといって、介助が出来るわけでもありません。
つまり言い方を変えれば、現状のヘルパー資格という根拠だけでは、障害者の介助が出来るとは限らないわけですから、ヘルパー資格以上の資格(確実な介助が出来る) が求められていると言えるのです。そして介助が出来るかどうかは、その介助を使う障害者自身でしか判断出来ないのです(障害者の数だけ それぞれ生活内容が違うわけですから、資格という、ある意味ひとつの生活方法を全ての 障害者に適用させることは不可能です)。
現在虹の会に所属している介助者たちの中には、ヘルパー資格を持った人もいますし、資格を持たない人もいます。双方とも、障害者が自ら選任した介助者ですから、当然、確実に介助が出来る、ヘルパー資格以上の資格を持っている介助者である、ということです。

以下に述べていく意見には、資格の否定に繋がる部分もありますが、あくまでも、これを前提を踏まえたものであり、資格の内容の是正を求めるものではありません。ただ、資格に頼らない仕組みを作らない限り、障害者が求めている、特に「差別のない」介助保障を実現することは出来ません。今後、資格の是非についても議論をしなければならないと考えています。 従い、今回は参考として述べ させていただくつもりです。

②人員、設備及び運営に関する基準について

現状のように、事業所を指定していく仕組みの中では、事務的な意味でも、一定の基準が必要であること自体は理解が出来ます(いい加減な事業所に介助派遣を委ねることは出来ない、ということには同意します)。 本来、自治体が、直接介助派遣の機能を持ち、果たしていくことが理想的ですが、それには解決しなければならない課題が多く、現時点では現実的ではありません。
そのうえで、基準に柔軟性を持たせることが必要かと思います。例えば、事務や経理の管理者は必要ですが、サービス提供責任者は必要ありません(ただし、一方で、不正を防ぐなどの手段としては必要かもしれません)。
まず、言葉通り捉えるならば、そもそも介助保障はサービスではありません。介助はあくまでも最低限の生活をする権利として得られるものであり、何らかの有益(サービス)なものではありません。例えば、トイレに行くという生活上最低限の行為は、その障害者にとって「益」では無いと言い切れます(お金を払ってションベンやウンコをする人はいません)。
そして介助は、その介助を使う当事者(障害者の責任に基づいた形でおこなわれるべきです。介助は生活のために必要であり、生活は誰かが責任を取ってくれるものではありません。障害者だけがそれら生活の責任を免れる、あるいは障害者に責任は取れないなどという考えは、差別です。
また、介助者(ヘルパー)たちが果たさなければならない責任は、主に約束(契約)した日、時間に介助に来るということだけです。事実として、それだけで24時間の介助体制が維持出来ている現状も理解いただきたいところです(もし成り立っていなければ、この意見は述べません)。
ただ、これらは、事業所を運営する者、介助する者、そして障害者自身の理解があって初めて成り立つものですから、基準だけをいきなり変えても、あまり意味がありません。ですからまずは、例えばサービス提供責任者の基準は残さざるを得ないとしても、介助を使う障害当事者自身がサービス提供責任者でも構わない、といったような解釈を導入してはいかがでしょうか。
しかし、サービス提供責任者の要件自体を削除していただきたいことに変わりありません。誰かが責任を取らないと、障害者は生活をすることが出来ない、というのは、やはり差別的過ぎます。それが言葉尻だけの問題だったとしても、その性質上(障害者に接するもの)、その障害者以外に責任者がいるということは、世間の人に対して、「障害者には責任者や保護者が必要なんだ(つまり責任の取れ ない幼児と同じなんだ)」という差別意識(イメージ)を与えるだけであって、ノーマライゼーションを目指すうえでは、決して妥当とは言えません(言葉として良くありません)。
要するに、サービス提供責任者の存在は、明確な障害者差別ですから、基準に柔軟性を持たせるなどの方法によって、少なくとも、その差別の解消に向けた取り組みが必要だと思います。障害者自身が差別であると感じている以上、それを超える根拠はありません。人員の基準だけでなく、設備や運営の基準に関しても同様に、その内容を評価し、そこに障害者差別が含まれていたとすれば、解消に向けた取り組みが必要だと思います。

③居宅介護等の従業者の要件について

人員の基準における、そもそもの資格要件についても、改善の必要があります。経緯でも述べているように、ヘルパー資格という根拠だけに頼った事業には問題があります。
まず、資格を持ってさえいれば介助が出来るかと言えば、否です。虹の会の活動に参加 する障害者の中で、現在でも他のヘルパー業者を使用している人(必要な介助が短時間などの理由で)もいるのですが、実態として、派遣されてきたはいいが、入浴介助が出来ない、ベッドと車いす間の移乗が出来ない、といった人は特に多く、資格があるというだけで、障害者が必要としている介助が得られな い、といった問題が、既に何回も起きています。これは、経緯で述べてきた十数年前の問題が、いまだ何の解決もなされないまま残っているということです。
また、資格に含まれる、障害者差別 (性質) についても無視することは出来ません。虹の会が求めている介助は、障害者が自分の意思に基づいた、自分らしい生活の実現を見据えたもので、介助者はその意思(指示)に従い、障害者の手足として様々な介助をすることが理想であると考えています。
例えば、ヘルパー資格に定められているような生活様式をそのまま障害者に適用させることは出来ません。講習で教わったであろう、掃除の仕方やトイレの仕方、お風呂の入り方は、殆ど無駄になってしまうのです。障害の無い人と同様に、障害者にも、それぞれ生活の仕方が違うのです。
もしも、それら多様な生活の仕方を認めず、資格で定められたような生活を強いるようなことがあれば、それは重大な障害者差別です。そしてこれは、揺るがないことです。
他にも、障害者差別は物理的なことや常に明確なものであるとは限らず、思想的な意味合いにおいても引き起こされる場合があります。 資格について言えば、その専門性や特殊性の強調が、差別に繋がることがあります。
資格がある、ということは、少なからず何らかの技能や技術がある、ということですから障害者の介助をするためには、何か特殊なものが必要である、という発想(明示的に) に繋がります。すなわちこれは、世間の人にしてみれば、障害者は何やら特殊なのではないか、資格がある人が関わらないと生きていけないのではないか、あるいは保護されているのではないか、という意識になりやすいのです。そうなれば、障害者の主体性は薄れ、同じ市民として同等かと言えば、甚だ疑問です。
といったように、資格は、ノーマライゼー ション社会を目指すうえでも、障害者差別の要素を十分含むものですから、注意が必要です。 資格が無くて済む方法があれば、優先的選択していく必要があると思います。
さて、肝心の資格要件についてですが、当然さいたま市として、障害者の介助保障をしていくうえで、その介助を担う介助者を確保していくために、資格要件や一定の基準を作り(質の無い者が増えれば制度は衰退するという意味で)、事業所を拡大していくことへ大変な尽力をされていることは、十分理解しています。しかし、その資格要件という基準が機能していないということなのです。
事業所を増やしていけば、介助者が増え、介助を得られる障害者も増えていきますが、一方で、自治体として、その管理が行き届かないための資格要件であると思います。ですが、根本の目的はなんでしょうか。障害者が 必要としている介助が得られることではないでしょうか。既に資格という基準だけでは、その必要としている介助を得ることが難しい状況なのです。
介助者の確保において、その選任(確実な介助が出来る人) 基準が破綻しているということです。もっと簡単に言えば、資格があっても介助が出来るとは限らないわけで、その判断は最終的に、その介助者を使う障害者自身がするわけで、つまり、結局最後は障害者が選任することになるのに、資格要件のクリアという、余計な手順を踏んでいる、ということです。
ですから、資格要件や基準の見直しというよりも、そもそも介助者の確保や、選任する方法自体を、一から考え直す必要があると思います。障害者が必要としている介助を確保する、という元来の目的、原点に戻って、新選任基準を設ける必要があります。現時点では、やはり推薦登録方式のように、障害者自身が介助者を選任していける方法が必要です。

④事業所の指定やそれら基準について

さいたま市においては特に、国や埼玉県との関係が曖昧な点に疑問があります。 基準についても、根拠も無く埼玉県にならう、といった部分があるように感じています。
この国における障害者施策は、様々な点において、不備や不足する部分があることは常識的な認識です。そして、どの自治体においても、それら施策は、地域における障害者運 (障害者自身の声、市民運動)によって培われてきたもので、地域の成長と共にあります。それは介助保障制度についても同様です (例えば、市民の障害者への理解が、あるのと無いのとでは、介助者を確保するうえでも集まり方が違います)。
障害者の介助保障制度は、まだまだ未熟なものです。ご存じの通り、全国的に、自治体によって格差も大きく、例えば、24時間の介助保障が得られる自治体もあれば、1日1時間の介助を得ることすら難しい自治体もあります。事業所についても同様で、整備が充実している自治体もあれば、不足している自治体もあります。
それは経緯でも述べてきた通り、紛れもなく、地域による障害者運動の表れ(差)なのです。つまり現状を作っているのは、障害者運動と、それに応えてきた、さいたま市による結果でしかないのです。そして、そういった自治体ごとの独自性が、全国的な障害者施策を引っ張ってきたと言えるのです。
それら独自性や自主性を鑑みず、一定の基準だけを先行させて、それ以上の方法を認めないということは、障害者施策の発展を封じていることになります。ノーマライゼーション理念の普及などによって現状の枠にとらわれない、新たな取り組みを積極的におこない、障害者福祉の充実を図ろうとしているさいたま市にとって、それで良いはずがありません。
そういった独自性を保つために、やはり、さいたま市のことは、さいたま市がやる、という姿勢が必要なのではないでしょうか。事業所の指定や基準についても、今よりも明確に、さいたま市独自で検討し、判断するべきです。そして、決して基準(確実に介助が出来る介助者を確保するための)を緩めるのではなく、実態に則した形で、それこそ厳しい目で判断していただきたいと思います(資格があっても介助が出来ない人ばかりを集めていては、意味がありません)。
ある意味、さいたま市における、介助保障制度は、全国的にも先進的で、より取り組みに力を入れているわけですから、例えば、さいたま市がモデルとなり、それが全国的に波及し、それが基準になっていくことも、十分考えられます。是非、そういった可能性や方向性についても、視野に入れ、検討いただきたいと思います。

⑤総合的に

これら意見は、今後の条例制定にあたってはやや飛躍し過ぎているかもしれません。しかし、障害者の必要としている介助が、確実に得られるような整備をしていくうえでは これら経緯や事実を検証し、基準の根本的な見直しが必要とされています。中でも人員の資格要件については「資格があること」だけが優先され介助が出来ること」という本来の目的が欠落しています。
また、何度も述べてきましたが、「無資格であれば良い」というわけではありません。障害者にとっては「確実に介助が出来ること」が絶対的な条件であり、資格の有無は関係がありません。まずこのことを正確に理解してください。そのうえで、資格が差別的であることを考えるべきです。
現行の基準(資格要件)において整備を進めてきたこともまた事実であり、その基準以外の方法が確立されていない今、資格が差別だからと言って、突如無くすことは出来ません。しかし、現行の基準では問題があることが明らかである以上、新たな取り組みとし、ある程度、試行的な基準を作っていかなければ、本当に必要な基準は作ることは出来ません。
ですから、まず、事業所整備に係る資格要件の妥当性と、資格が差別的であるという、この2点については、分けて考える必要があると思います。 事業所整備に関しては、現実的に現状の資格要件では、確実な介助者の確保には至っていないことを認識し、改善してください。資格に含まれる差別に関しては、障害福祉サービス事業所(ヘルパー資格)に限ったことではありませんから、その価値や位置づけについて、慎重に議論を重ねていただければと思います。

意見は以上となります。 これら意見を参考にしていただき、全体的な障害者施策に活かしていただけますよう、よろしくお願い申し上げます。 長文失礼しました。

(※補足・ホームヘルプ事業の問題)
●当時のホームヘルパーのほとんどは女性であり、男性の障害者はホームヘルプ事業を利用することが出来なかった(同姓介助が当然 であることは議論に値しないので省きます)。
●当時のヘルバー業者は、高齢者の介護を主たる目的として設置(現在でも)されていたためか、派遣されてくるホームヘルパー自身のお世話意識が強く、同時に、大げさではなく、強烈な差別意識によって障害者が日本語を喋ることが出来るとは想定していないため介助内容の説明(トイレに行く、であるとか、 洗濯物を干す、といった単純なもの)に耳を貸すヘルパーが少なく、障害者が本当に必要 としている介助が得られなかった(トイレに行きたいと伝えても、食器の片付けを勝手に始めるなど)。
●言語障害の強い障害当事者と意思の疎通が出来ない(慣れているボランティアなら簡単に出来るレベル)、もしくは意思の疎通を図ろ とせず、ホームヘルパーがいくつかの家事を勝手にこなし、必要な介助をせず、そのまま帰ってしまう。障害者が話しかけても無視したり、赤ちゃん言葉で返答したりと、必要な介助を得られない。中には、介助内容(生活動作)に対して、こうした方が良いと、教え諭そうとし、具合が悪く寝ていても無理矢理起こすなど、生活態度に口を出すホームへルバーもいた。
●毎回違うホームヘルパーが派遣され、介助内容を一から説明しなければならず、それだけで派遣時間が終わってしまう。 同時に、介助に不慣れであればあるほど、ひとつひとつの動作に時間がかかるため必要としている介助を滞りなく得ることが難しかった。トイレ介助、風呂介助が体力的に不可能なホームへルバーも多かった。
●ヘルパー資格に絡む問題として、例えば、手足を揉むのは医療行為だから出来ない、風呂は危険だから出来ない、薬を塗布したり飲ませたり出来ない、外出は危険だから近所だけ、といったように、ヘルパー資格の制約に よって、障害者の生活の制限に繋がっていた (現在でも同様の事例があります)。
●ホームヘルパーが介助中の障害当事者の生話の内容を他人の家に行って、ベラベラ喋る (守秘義務の問題)、会社に持ち帰って障害当事者の生活について、第3者がああでもない こうでもないと相談しあうといったように障害者を物や対象としてしか考えていないホームヘルパーも多くいた。つまり、信頼出来な ホームヘルパーを強制的に介助者として使わなければならなかった。
●派遣時間自体も、以前に比べれば若干増えたとは言え、多くて週に3回、30分単位で1、2時間という水準であり、ヘルパー業者が土日祝日に絶対派遣しないとは言わないが 現実的に土日祝日盆正月に働けるホームヘルパーがいないため、実質は平日のみの派遣だった。
●ホームヘルパーでは出来ないことがあり、その派遣時間内に他のボランティア (当然無償)を呼び、介助をしてもらう、といった支離滅裂な状況も多くあった。

以上








(BGM:あぶらだこ「スカ」from「ADK」)
→あぶらだこの未発表曲と言うことだけれど、どっかその後の曲の原曲になったような感じがするけど、どうなんだろうかしら…。
とにかくあぶらだこは当時のインディーパンクにおいて唯一無二だったな、と思う。
パンクかどうかもわからんけど。

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