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スーパーちんどん・さとう

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あき江さんが死んだ ①

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おそらく今現在、このブログが更新されている時間、虹の会大忘年会が行われている予定であります。
つまり、これは事前に埋め込んだ更新プログラムによって更新されているというわけなんですが。
今年は虹の会が始まって30年とかなんとか、そんなことで、30年を振り返る企画を任されていて、きっと楽しく終わっていることかと思うんですが、どうでしょう。

で、ついでに、振り返ってみましょう。
1996年に自分が機関紙に書いた原稿を何回かに渡って載せてみます。
これ、大きな虹の会のターニングポイントを書いたモノで、つまり、もっと前に載せてもよかったはずなんだけど、忘れてましたね。
つまり、今となってはそのくらいのことなんですが、まあ16年前はそうではありませんでした。
てなことで。



1996年5月20日発行機関紙掲載分

「あき江さんが死んだ①」

 あくまで個人的な思いであることをあらかじめ断っておくが、虹の会の流れとして昨年度はひとつの区切りがついた年だと思っている。あき江さんが死んだときを一つの区切りとするなら、そこをスタートとした時代が終わったということである。(なぜそう思うのかについては、おいおい書いていく)
 これからはあき江さんの死をスタートとした時代とはまったく別の次元で活動に対する考え方を作っていかなければ、やってはゆけない。個人的にはそう思っている。自分にもケリがつかないし。

 今回から数回に渡って書こうと思っている内容は、三年前にこの連載を始めたきっかけでもある。つまりこの内容を書くために連載を始めたということだ。いや、連載のみならず、「これをいくつか書く」と思って活動をしてきた。
 だから、これを書くということは、自分にとっては、一つの終わりと言うことになる。
 それは、あき江さんの死んだ直後から一年位の間に起きた様々な出来事のことだ。あき江さんとは、虹の会の創始者で、もちろん死ぬまで虹の会の会長であった。彼女が死んだのは、九年前の一九八七年の7月のことであった。
 (ってすげえ大袈裟に、かつ、かっこよく始まっていることに赤面している。皆様におかれましては、気楽に読んでください)


 そもそも、僕があき江さんと出会ったのは大学一年の時だった。
 当時つきあっていた彼女が、あき江さんの介助ボランティアをすると言うので、ノコノコとついて行ったのだ。
 当時、自分は周囲から「変わった人である」という見方をされていたようで、イイ意味でも悪い意味でも目立っていたらしい(自分ではわからないけど)。「噂には聞いていたけど、あなたが佐藤君か」といったようなことを言われたと思う。
 その時は、介助といえばほぼ全てが(昼間のパートを除いて)女子学生のボランティア(泊まり込み)であった。自分の母校である埼玉大学や衛生短期大学の学生が中心になって介助をしていた。
 そして、そのボランティアの集まりが、すなわち虹の会、といった感じであったと思う。
 障害者の地域での生活を進めるための運動をやる、といった崇高な理念とは裏腹に、あき江さんとその介助をするボランティア、という循環の中で、それを維持しようと言う印象である。

 といっても、今となってそう思うというだけで、その当時はそれでも「偉いことする人もいるんだな」と自分は思っていた。僕は大学では障害児教育のエキスパートとなるためのコースに在籍していたのだが、ボランティアと名のつくような、またはそれに類する活動は、大学一年の時は何もしなかった。
 多くの級友は、やっていたようであったがそもそも大学に行っていなかったせいもあり、どうしたらやれるかもわからないし、そもそも興味がなく、やる気がなかった。「ボランティアなんて偽善じゃんけ」とか思ってたし。(今でも思ってるけどさ)大学に入ったら遊ぼうと思ってたし。
 それがなんの因果か今こうして偉そうに機関紙に物を書いているんだから、人生どこでどうなるかわからないもんだとつくづく思う。それほど自分と虹の会の距離は遠かった。言ってみれば、宜保愛子と大槻教授、もしくは新進党と共産党、小林よしのりと宅八郎、くらい相容れないといった感じであった。

 とはいえ、そうこうしているうちに、だんだんと虹の会との距離(すなわちあき江さんとの距離)は縮まっていくわけではあるが、そのあたりの事については後々触れるとして、今回は先を急ぐ。
 今考えるに、自分が虹の会に関わることになったターニングポイントは、あき江さんが倒れる2~3日前に彼女と数時間に渡って、二人きりで話をしたことにある。その時はすでに虹の会の会議などににも顔を出しているような立場でもあったが、彼女とじっくりと二人で(なにしろ介助者が側にいることが多かったということもあって)話したのはそれが最初で最後であり、悲しいかな最後になってしまった。
 その当時に虹の会に出入りしていた人で、現在も会の第一線で活躍中という健体者は他に三原・竹脇がいるが、偶然にも三原も私が話したその次の日あたりに彼女とじっくり話し込んでいるという。それも、大学を卒業し職員になってしばらく足が遠のいていた彼は、急に顔を出したくなって彼女の家を訪ねたのだという。そういう事ってあるんだな。何かしら彼とは運命的な物を感じて今でも仲良くしてもらっているが、あき江さんが引き合わせてくれたのかな、とも思ったりもする。

 さて、ともかくその2~3日後に彼女が自宅で意識を失い救急車で運ばれ、入院先で一週間後に意識を戻さないままに亡くなる。
 当時の会は、あき江さんとボランティアいった形の集団であったから、当然、虹の会は上へしたへの大騒ぎとなった。まあ、客観的に言えば 潰れる状態であった。
 今年健康上の理由などから会長を辞任した戸塚や長期の療養入院生活にピリオドを打ちひとり暮らしを始めることになる工藤を中心として会が形をつくる、というより会が「続けていこう」と声を上げるまでにそれから1~2年かかる。
 とにかくその1~2年と言うのは混沌の時であった。まさにカオスですよカオス。何がなにやら分からないといった風情。
 まあその当時の虹の会といえば、戸塚や故佐竹といった障害者を中心に、健体者である学生がそれを取り巻くといった状態。他とのつながりもあき江さんにしか分からないし、(窓口は全てあき江さんであった)学生に運動の「ウ」の字がわかろうハズもない。
 今後について集まって話し合うといっても「どうする?どうする?」という感じで、逆に「もうやめてしまおう」という発想ですら出ないといった状況であったように思う。(半年くらい経った時点では自分と当時の副会長のTとで、「会は解散すべきだ」という提案を会議にするに至るが、逆に腹が座ったから提案できたとも思う。この提案の件についても後で書くつもりでいる)

 会は、こうした舵取りのいない船のような状況であったのだ。そういう状況の中で、あき江さんの積年の願いであった本の出版とそのテレビドラマ化が現実化する。

 彼女は、僕が出会ったときから、「原稿」と呼ばれるものを、裏が白い広告を小さく切ったものに鉛筆で書き付けていた。本を出したいという話は聞いていた。それがなかなか進まず、延び延びになっているという話も聞いたように思う。が、それが「どのような原稿で」で「なぜ彼女が書くのか」といったことはわからなかった。が、とにかく彼女は書いていた。

 しかし、その原稿は今、一部しか残っていない。いや、正確に言えばどこかにはある。が、我々が目を通すことができない状況にある。

 はっきり言う。あの本は虹の会結成前で終わっているが、彼女はそれを望んではいなかった。それは当時彼女と時間を共にしていた者なら誰にでもわかっていたことだ。
 そもそも結成までの本を作るのであれば彼女はとっくに実現していたはずである。
 死ぬまで、彼女の思いは先に先に向いていた。少なくともそのための「本の原稿」を書いていた。

 それをあのような形で出版することになったこと、テレビドラマにまでなってしまったこと、については死ぬ間際まで彼女と共に時間を過ごし、かつ、彼女の亡き後に虹の会関わっていた者として不甲斐なく、申し訳なかったと痛烈に思う。

続きます




にじ屋ブログが最近なかなか面白いぞ!みんながんばって書いておるようだ。虹の会本体HP「NIJIROCK.COM」からどうぞ!

親から独立した生活をしたいと思っている障害者の方、親の元気なウチになんとか障害を持つ子どもと離れて暮らす方向に持って行きたいという親御さん、親亡き後の不安、などなど、その辺の相談にのっています。お気軽にどうぞ。
まずはコメントください。非公開で対応します。


(BGM:Blankey Jet City「綺麗な首飾り」from「Metal Moon」)
→こうやって聞いてみると、ブランキーの魅力ってベースラインだったという気がする。
肉体的なドラムとベースラインに、どっか突き放したギターリフと、冷たいボーカル。
なにか毛皮が似合うような、鋭角的なサウンド…、改めてこのバンドはカッコイイ。
スターリンに蝶メイクで登場したタツヤさんがイカ天に出てきたときは驚いたが、ここまですごいバンドになるとはちょっとそのときは思わなかったかな。
どのアルバムも印象的で、俺はとても好きだ。
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