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スーパーちんどん・さとう

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敵は職員?


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kaijosha.jpg



ウチの機関紙7月号に副会長名義で書いたモノを転載します。
市の監査ということでウチが出した内容の公表と共に、監査に端を発した我々の考える問題点をシリーズでカズミを中心に執筆・連載しています。
これは三回目。
「敵は職員?」と題されたものです。

虹の会機関紙はにじ屋で配布しています。
また来れない方には郵送もしています。
会員になってもらえると毎月届けます。
コメント欄などで詳細おたずねください。



「敵は職員?」

職員とは何か?という定義ですが、我々のようなところのいわゆる「指導員」とか「職員」といった側の、いわゆる世の中から「専門の方ですね」と言われる人たち、ということにして話を進めたいと思います。


*対社会という存在としての職員

一般に職員といえば、彼らを指導する人、守る人、といったイメージでしょうか。
確かにそういうことになりますかね。
その前提には、彼ら、例えば市丸なんかは「指導する人」「守る人」がいなければ存在できない、という社会の共通認識があると考えていいかと思います。

ま、その前提がそれでいいのか?という疑問はまずあります。

今の福祉の流れはノーマライゼーション、「誰がどんな状況におかれても社会の中で共に生きる」という方向に進んでいるということになっています表向き。
でも、市丸たちについては、「指導が必要」「守る人がいなければ存在できない」というのは、構造的には矛盾しています。
本来、彼らを受け入れるために、どのように社会を作っていくか?というのがノーマライゼーションの形でしょうが(例えば駅の階段にエレベーターをつける、みたいなことと同じように)、なかなかそのために「何をしたらいいのか?」というのが、社会の中に確固たるものがありません。

これは、例えば車いすだったらエレベーターをつければいい、目の不自由な人には点字ブロックをつけるとか、そういう最低限の共通認識があるわけですが(もちろん、それだけでは足らない人だっているから、それでいいわけではないが、最低限、という意味で)、それすら見つからないといった感じじゃないでしょうか。

それは必要としてる応援が、どんなモノなのか、市丸とカイでも違うし、千差万別だから、なかなか「最低限何をしたらいいのまず?」というのが、見えづらい。

そこで、こうした職員が、それをくみ取って、社会の中に彼らが存在できるよう、なんかしらしてください、という感じがあるように思います。
職員の方がちゃんとやってくれることによって、社会の中に彼らも存在するんです、という「形」が求められていると思います。

意地悪い言い方をすると、社会参加できるよう、ノーマライゼーションの推進のため、「めんどう見て下さい」、という感じでしょうか。


*市丸たちに対する職員

確かに、毎日の中で、市丸たちに「指導」「教える」みたいな場面はあります。
それは、文字や計算、といったことだけじゃなく、「社会のルール」みたいなこともあります。
例えば、道路で裸になってはいけない、知らない人を噛んではいけない(知ってる人でもダメですが)、など。

同時に、社会に参加したい、という意欲を育てていかなければなりません。
それがなければ、そもそも社会のルールを教える必要はありません。
何かしらの建物に閉じ込めておくのなら、別にそこの中だけで通用するルールを作ってしまえばいいわけですから。

つまり、その団体でやっている作業所だったり、いろいろな施設で、意識を常に外に向けてやらなければなりません。
そもそも、社会参加を促すため、誰もが共に生きる社会、そういう福祉の理想実現のため、雇われているわけですから。


*施設という場がどうあるべきか

家庭の中で、基本的には子どもは守られます。
しかし、年を経て成人を経て、親や家庭という守られた存在としてだけではなく、一歩社会の枠を広げてやる必要があります。
そして、社会に羽ばたいていけるチカラを、意欲を育てる必要があります。

そのために、まず施設が家庭と同じ機能をしていたのではよろしくありません。
それは家庭から外に出ていけない、ということになりますから。
社会が広がっていくための、家庭の外の「第一社会」としての存在にならなければなりません。
そして、そこが居心地がよく、そこにいたい、と感じられることが大事です。
そこから、もっと広い世界に目が向くように、職員は努力すべきだと思います。

つまり、職員が、冒頭に書いた「守る存在」であるが故に、親と同じ目線に立ってしまうとそれはそれで意味がない、ということです。
それを越えた、家庭から一つ枠を越えた「社会」の形成が必要だと思います。

つまり、「守る」というのは、確かに守るんだけれど、同時に家庭の外の第一歩目の社会を存在させてやる、という作業が必要なのではないか。(※)
社会から孤立せず、彼らに自信をつけさせてやる、まず社会に出るための仲間を作ってやる、という目線が必要なのではないか。

ここを見失ってしまうと、ただの「保護」になってしまい、「収容しておけばいい」という考えに発展してしまう気がします。
それは意地悪く言うと、「障害者は社会から隔離しておきますから、あなた方でめんどう見てください。出てこないようにしてください」「親が一生めんどう見てください」という流れに荷担してしまうことになります。
これは現在の福祉の理念を逆行させるモノです。


*社会への橋渡し

ウチのライブに来たい、という「利用者」がいて話をしていたら、そこの職員が「お母さんに聞きましょうね」とかいう場面が何度もあります。
夜に、酒を出す、飲むライブハウスでやる我々のライブに、お母さんはなかなかイエスとは言わないでしょう。
ウチのように、普段からそういうところに出入りしてるのなら別ですが、そうじゃない限り(というか、ほとんどそういうところはない気がします)、これは実現しません。
その職員の人が「わかった、お母さんには私が話しておくよ、一緒に行こう」と言ってくれればいいんですけど、そういうことになったことはありません。

こうして、「親の意向」を第一にしてしまうことは、彼らの「大人としてのメンツ」も潰してしまいます。
大人としてのメンツ、とは、「自分で好きなことを好きなように社会で実現できる可能性」という意味です。
あくまで可能性、ですが。

我々は、よく「青春を取り戻す」という言い方をします。
青春の間違い、勘違いも含めて、そういうことをもっとやっていこう、という意味です。
それが、社会への橋渡しになると思っているからです。

いや、そしてなにより、青春とは大事な人生の一ページです。
誰しもそれは同じでしょう。
親に隠れて、仲間とストリップに行く、エロ本を見る、タバコを吸ってみる、そうした行動を、我々はどんどんやっていきたいのです。

親とは青春の中で異物になっていく存在なのです。
つまり、「親に聞いてみよう」と言われてしまう環境は、「青春を取り戻せない」ということであり、本人にとっては絶望しかないのではないかと思うのです。
その手助けを、(裏では親と協力して、ということもあるかもしれません)職員はすべきじゃないのか、と思っています。


*職員の専門性

守る存在、指導する存在、という側面と、この「外に向けて行く存在」「親じゃない存在」という、いろいろな側面を職員は持っていなければならない。
だから、専門性が必要ではあると思います。

ただ、今の職員養成するための専門性を教える講座などの方向を見ると、どうも、この「外に向けて行く存在」「親じゃない存在」という部分が抜け落ちていると思わざるをえないことが多いのではないでしょうか。
自閉症とは何か、ダウン症とは染色体の異常である、そうしたことを学ぶことは必要ないとは言いませんが、逆に言うと、彼らを型に填めてしまう危険性もあるように思います。

「ダウン症はガンコ」などと言われますが、それを「ああ、ダウン症だから●○しちゃうのはしょうがない」としてしまえば、おそらくモトミはいまだに同じ服を着ていたかもしれません。
「自閉症の人はこだわりが強い」というのも同じで、それを真に受けてしまえば、いまだに市丸は実家でテレビの操作に夢中だったかもしれません。

でも、モトミも市丸も、今では同じ服にこだわることもなく、市丸に至っては「この服かっこ悪いかな?」と考えるようになったし、いやいや、そもそもこだわりが強く実家など出ることがないと思われていたんだから、それはそれら専門書に書いてあることを一部否定するような感じにすらなっています。
いや、市丸はそもそも「遅くなったから井上のウチに泊まる」ということすらできなかったんだった。
そんな話をしている最中に走り出して電車に乗っちゃって家に帰ったりもしていた。
それがどうだろう、今や毎週のようにどっかに出かけ、親から離れて生活をしている。
手伝いに来てくれた人と電話番号を交換して飲みに連れて行ってもらったり、私が知らないところでそういうことも多々あるようだ。

つまり、専門性とは、絶対ではなく、既成の専門性自体を疑うことが専門家なのではないか?と。

もちろん、当てはまることはたくさんあるし、専門的な勉強をすることは理解をすすめてはくれます。
でも、同時に、市丸を相手にした時に、「自閉症」と当てはめるのではなく、市丸として付き合っていく。
そして、市丸という人間の可能性を外に広げてやる、という視点を忘れてしまってはいけないと思います。

つまり、専門性を知り、それを疑うことが専門家なのだ、と思います。


*専門性の落とし穴

今は資格の時代になっていて、例えばヘルパーでもそうですが、2級を取ったら1級に、みたいに「階段をのぼる」ように準備がされています。
これは、資格ビジネス利権の問題ではありますが、それは又の機会にするとして、一方で「職員のモチベーションを維持する」ためにあるようにも思います。

本来、市丸が、井上が、モトミが何か社会に小さな一歩を踏み出したことにモチベーションを維持していかなきゃ行けないと思うのです。

どこかの作業所では「外食実習」というのがあって、ファミレスに行ったりするようですが、いやいや、そんなの実習しなくても、恐らく家族と一緒に普段行ってるんですね。
しかも、事前にメニューを配って、「親に」メニューも決めさせて、という、まったく意味のないことをやっている。
そうした実践をすることが職員である、作業所である、施設である、というようなことが「専門性」であるかのような誤解は、やっぱりよくない。

そうじゃなくて、単純にこのことをとっても、「それはオカシイし、意味がない」と、異を唱えていくことが専門家なのである、と思います。


*まとめとして、我々のこと

大事なことは、作業所や施設は、井上やカイにとって、家庭と社会をつなぐ「第一社会」にならなければならないということ。
その中で、職員は仲間を作り、外に目を向けさせていくことを常に考えなければならない。
同時に、彼らを守り、そのチカラを作って行かなければならない。

なにより、職員が彼らに信頼されなければならない。
「この人といたら、俺の世界が広がる気がする」
「この人といたら、俺の人生変わる気がする」
「この人といたら、俺は大人になれる気がする」
「この人といたら、仲間が増える気がする」
そんな職員がいる場所だったら、彼らは必ず「帰りたくない」と言ってくれるようになると信じています。

ウチの場合、「もう帰ったら?」といっても、「帰りたくない!」と必死に食い下がってくれるので、そもそも、冒頭に書いた「社会のルールを教える」とかについても、比較的楽に実行することが、ありがたいことに出来ています。

そして、自分の居場所に彼らは誇りを持っている。
誇りを持っているが故に、ケンカもありますが、それも第一社会としての役割だと思います。
誰に従う、ということじゃなく、「俺はこう思ってたのに、お前は何だ!」みたいなことですね。

我々は、彼らの青春を取り戻すために、それは社会の中で、ごく当たり前に人生を謳歌できるように、職員のこともしっかり育てていなければならない、と思っています。


*※補足

「親だって社会に送り出す力にはなり得る」と思いますが、経験上、やはり「一人(二人)のチカラ」というのと、職員数人の「チームとしてのチカラ」は違うように思います。
「親には出来なかったことが出来るようになった」というのはよく聞きます。

また、親と職員、つまり親と他人とでは、同じコトをしたとしても、意味が違うようにも思います。
それは、「家庭」ではなく、「社会」で起こったことになるからです。
そして、それは彼らに「大人としての」自信を格段につけてやることのような気がします。






baka.jpg

(BGM:BACKGAMMON「GUERRILLA GROWING」from「this is REAL STYLE」)
→こういう曲がメジャーにのっていくというのは、つまりはゼンゼングローイングしてないよな、という気がしてならんところもある。
ギャングとゲリラは違う。
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