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スーパーちんどん・さとう

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社会的弱者であることを固定化しない★明日の集会、来てね!


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例えばライブをやってて思うのは、本質的なところで、我々が下に出ちゃダメだと思ってるんですね。
「ありがとう」はまあ普通の言葉としては言うけど、「こんな障害をもった人たちのライブを聴いてくれてありがとうございます」みたいな意味合いでは絶対に言っちゃいけないし、そう聞こえてしまうことについてはものすごく気をつけなきゃいけないと思ってる。

弱者が弱者であることをウチのバンドが描いてしまったら、やっぱりそれは失敗だと思うんだよね。

おそらく、今回の越谷のライブでも、「自分たちは障害者である」みたいなこととか、いや、そもそも「障害者」ってワードは誰も言ってないと思う。
それは自然にそうなっただけで、意図があってそうしてるわけではないんだけど、そうなっていた、というか。

ま、障害者だと言うことが「弱者である」ことを表現してることにはならないので、時と場合にはよると思う。
注意して使わないとならないな、とは思っている。


なぜ24TVが醜悪だと思うか、というのは、つまりはあれは「弱者ががんばっている」ということを描き出しているからだ。
「弱者」を、弱者のママエンタメとして、TVとして表現してしまうのは、それはつまりは、チャリティを強要することであって、それは為政者としては都合がいい。

そもそも人は、弱者ががんばる物語は好きなのだ。
それを見て涙したい。
けれども、それはあくまで自分の人生の外の物語であって、内なる問題ではない。
それだからこそ、チャリティの対象となり得るのである。

弱者は弱者でいるからこそ、階層が成り立つ。
階層が成り立たなければ、富裕層は存在できない。
だから、弱者を弱者として固定する物語は、俺は生理的に受け付けない。

けれども、その弱者が力を持つ物語、簡単に言うと、反撃の何かを感じさせてくれる表現だと、俺は一気に好きになる。

世の中が、為政者が一番困るのは、一番イヤなのは、「弱者が力を持つ」という図式だろう。
そういうことは彼らは避けたい。
だから逆に言えば、24TVなどは安心してみていられるのだろう。
そういう人が危機感を持つような、眉をひそめるようなことを「しでかさないと」意味がないんじゃないか、と俺は思っている。


簡単に、例えばバンドで言えば、「とにかく一般の人、24TVを安心して感動できる人」、つまりは多くの、8割方のみなさんが、どっかに眉をひそめてもらいたい、と思っている。
それは音楽のデキとかではなく、衣装や小芝居含め、表現全体の話だ。
眉をひそめるというと大げさだけど、「こんなの見たことない」みたいなことは思ってもらえるようなことをしなきゃならないと思っている。

それがうまくいかなければ、やっぱり我々も24TVと同じモノになってしまう。
それは弱者の固定化になってしまうのだから、我々の望むところではない。


つまり、市丸たちが力を持つ、というのが、もっとも大事なコトなのである。
というか、「集団になる」というか。
一人一人にはチカラはなくてもいいんだけど、それがまとまる、みたいな感じか。
それをどう表現するか、ってコトだと思う。
そこを例えばお客さんを巻き込んで、みたいなことができれば、素晴らしい、というか。

そこには難しいことが必要なわけじゃなくて、とにかくなんでもいい。
デモでもストでも、暴動でも、為政者がイヤがることの発端は、なにも難しい話から始まるわけじゃない。
社会問題、障害者問題、貧困の問題、そんなことがわかっていようがいなかろうが、暴動は起きる。

なにも暴動を起こすのが目的ではないが、弱者が為政者の脅威になる、という意味で、例えば、ということであるということを念頭に置いて書いている。

市丸や井上達、そしてそれを取り巻く俺たちが、この弱者を固定化する社会を脅かさなければ意味がない。
バンドにしても、なんかのイベントにしても、そもそものにじ屋だって、「すいません」「おありがとうございます」と言っていたのではやっぱりそれは弱者としての自身の固定化にしかならない。


道を車いすでも堂々と歩く。
歩くだけのことで、すいません、とアタマを下げなきゃいけないという必要はどこにもない。
少なくとも、車いすを使っていない俺は歩くだけで「すいません」とは言わない。

今回の、JRに関するイベントについても、「車いすだから前日に電話するくらいいいじゃないか」という意見もあろう。
つまりそれは「弱者の固定化」の流れの中にある思想なのだけれど、それを許してしまえば、世の中は何もかわらない。

社会的弱者、という自身を、その存在に貶めたままにしておかない。
それは、「みんなで協力すればいい」みたいなチャリティ、という「優しい仮面」をかぶってくる世の中を拒否することでもあって、なかなかに難しいことではある。
善意を否定するのは難しい。

けれども、それをしなければ、いつまで経っても自由に外を歩くこと、移動することは難しいままである。

それでは何も解決はしないのである。




駅無人化小

駅無人化大

バレンタインSNS用画像

(BGM:青ジャージ「われちゃったもの」from「夜間徘徊助長演奏会 Vol.2」)
→このオルガンは好き。
キーボードってなかなか難しいというか、アレンジの問題というか、すごいセンスが出ちゃうと思うんだけど、これはカッコイイ。
ジャージというより、ジャジーか。
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