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スーパーちんどん・さとう

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タブーにしてはならない ★ 映画 「月」


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相模原の事件はなぜタブーっぽくなってしまうのか。
もちろん、殺された人達に配慮して、というのもあるだろう。
しかし、だとしても積極的な検証がされないというのは第二の悲劇を生むことにはならないだろうか。
これだけの人数が亡くなっていて、積極的な検証がない、というのは、どこか「くさい物に蓋」という感じすら受けてしまう。

てなことで、「月」という映画を見てきたわけですが。
こちら、その相模原の事件をモチーフに描かれた辺見庸さんの原作を映画化したモノ。
あの事件をモチーフにした映画というのは見たことがない。
ま、あったのかもしれないが、俺は見ていなかった。

この映画、もちろんフィクションなのだが、かなりキチンとディテールが書き込まれている。
そもそもこの施設が森の奥にある、という設定。
そして、入所者を部屋に入れ、その後外からカギをかける、という場面がこれでもか、と繰り返し出てくる。
虐待めいたこともきっちり描かれる。
「この森の奥ではそういうの隠蔽されるじゃないですか」というセリフ。
職員がどこか投げやりで、彼らに寄り添う気持ちがない。
まるで動物園にいるような錯覚すら覚える。
閉じ込めて、そのままにして、糞便をまき散らした部屋も出てくる。

パンフレットには、この映画を作るにあたっての取材の過程で、糞便をまき散らしたままの部屋は現実に存在しないわけではない、というような記述もあった。
かなりきちんと取材した後に描かれたんだな、と思った。

登場人物は宮沢りえさん演じる主人公の新人職員。
そして、ベテランになるのか二階堂ふみさん、そして「さとくん」。
宮沢りえさんの旦那さんの四人が軸になる。
入所者でキーポイントになるのは「きーちゃん」と「高城さん」。

新人の宮沢りえさんにはこの施設の日常は「異様」にうつる。
ま、正常な感覚だと思う。
単純に彼らを閉じ込めているだけなのだから。
しかし、ベテランにしてみれば「この異常を隠すためにここはある」と言い放つ。
世の中はこの異常にフタをするためにここを作ったのだ、と。
だから森の中にあるのだ、と。

障害者は隠される。
森の奥に施設を作って、「生きているか死んでいるかもわからない」状態でも、とりあえず外の社会はそれで平穏が保たれる。
そもそも外からカギをかけている時点で、施設は入所者を外に出すことを想定していない。
社会から隔絶されている。
そうやって、社会は「くさい物に蓋」をしているのではないか、とこの映画は語りかけてくる。

同時に主人公の妊娠が発覚。
第一子を心臓の病気で早くに亡くしている彼女は、高齢出産と言うこともあって生むことを躊躇する。
またあんな思いをしたくない、と。
そして出生前診断ということが頭をよぎる。

そう、ここで出生前診断と施設はつながっていく。
根の部分では同じ問題をはらんでいると我々に突きつける。
自分の子のことになったら障害者を排除しているではないか、森の中に追いやっていることとどう違うのか?と。

この映画は、犯人である「さとちゃん」に焦点を合わせてはいない。
彼はこの中で「社会は障害者を排除している」という「現実」を見、排除を実行しようとするだけの存在である。
もちろん、殺していいわけではない。
でも、社会は殺さないまでも彼らを排除しているではないか、森の奥に隠しているではないか、と。
皆、排除したいのに、いや、排除しているのに、「皆平等だ」などといいことばっかり言っているだけ。
その矛盾の「るつぼ」がここなのだ、と。
だから、皆がやらないのなら自分がやる、という使命感に彼は取り憑かれていく。

彼にも挫折の過去があり、一生懸命さが他の職員からいじめられる対象にもなっていて。
そして二階堂ふみさん演じるベテランも「芽が出ない作家」「作家を目指す」がどうにもならない、同時に家庭の問題も抱えている。
主人公の旦那も、アニメーション作家として全く芽が出ない。
殺してしまう彼は絵も上手なのだが、つまりはこの4人は全て「表現者」であって(主人公は昔売れた作家で今は書けなくなっている、という設定)、しかも芽が出てない。
つまり、表現者としては社会からはじき出されている、とも言える。
世に出ない表現など、そもそも表現ではないのだから。
そのギリギリの線で、それぞれが耐えて、この施設で働いている。
その社会からの隔絶と施設の入所者の姿も重なってくる。

そう考えると、これはこの4人のうち、誰が犯人になってもおかしくない。
そういう状況の中、一線を越えるのが彼であった、ということだ。
世の中は表現者である彼らを排除している。
社会からの抹殺だ。
同じように、入所者も抹殺されているのだが、それをきれい事で隠している。
森の奥に。
そんな社会に、使命感を持って「抹殺を実行」するのが彼である。

もちろん、それは身勝手な論理だ。

それを身勝手と証明するかのように出てくるのが「聞こえない声を聞く」という考えというか、思想というか。
誰もが一生懸命生きているのだ、生きてきたからには生きなければならない。
それがどういう状況であれ、生きていくべきなんだ、と。
それは主人公の第一子が心臓の病気で、話すこともできず、ベットの上だけの生活で早くに亡くなっていることなども関わってくる。
そして主人公が表現者であることが、そもそも文学とは「聞こえない声」をこそ文章にするモノなのだ、という思いと絡み合っていく。
同時に、入所者きーちゃんのお母さんの登場で、それは明瞭な形となって我々にも届く。
彼らは「喋れない」のではなく、それはこちらが「聞けてないだけなのだ」と、強くこちらに語りかけてくる。

長尺で犯人と主人公が犯行前に対峙する場面がある。
そこで犯人はとうとうと自分の使命を話すのだが、主人公はそれにどっか引っかかりそうになりながらも、「でも、それでも、私はあなたを認めない」と涙ながらに繰り返す。

ま、ここがこの映画のキモなのだと思った。
問題が社会にあるのなら、社会を糾すべきである。
排除がおかしいと思うのなら、排除している側を攻撃すべきである。
ましてや、抹殺するなどというのは間違っている。
だから、どう理屈をこねて合成の誤謬のようなことをやって自分の使命感を肯定して見せたって、それはまったくそもそも論で成り立ってない。
一部は理解する、などという生やさしい言葉はここで言ったら負けだ。
徹底して、「それは認めない」と突っぱねる宮沢りえさんの鬼気迫る演技がいい。

この映画、ぜひ見て下さい。







(BGM:布袋寅泰「やるだけやっちまえ!」from「DOBERMAN」)
→布袋さんって、いつからこの無頼的な感じになっていったんだろうか。
ギタリズムの頃はまだ繊細な、かつワイルドなギターサウンドを追求していたような気がするけど。
なんかいつの間にかワイルド分量が増えたような。
ま、嫌いじゃないです。

kabukiboshuuu.jpg
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