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スーパーちんどん・さとう

Author:スーパーちんどん・さとう
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志村けんさんといえば、東村山が産んだ、いや、日本が産んだ、偉大なるスーパーコメディアンであります。
なにせ、ウチで「志村魂、志村けん一座を見に行きたい人!」と聞けば、全員手を上げます。
20代のコウヘイであろうと、30代であろうと、40代であろうと、いや、50代の俺ですら見たい。
チケット取れたのなら、行きたい。

おそらく、みなさんもそうだと思う。
いや、あなたが何歳かはわからないが、もし60代であろうと、やっぱ見たいはずである。
実際、たまたま俺の隣だった二人組のおそらく60代、70代かもしれないおじさん2人組は、「去年はあの辺の席だったよな」とか言っていたので、毎年来ているようであった。

このおじさんたち、志村を見なきゃ夏が終わらないのであろう。

客席を見渡せば、確かに子どもも多い。
いや、ドリフが放送終了してから何年も経つ今日この頃、それでも小学生がバカ殿カチューシャ(テッペンにちょんまげがついている)をして熱狂するのである。
そして、俺くらいの世代のカップル、ちょっと上くらいのご夫婦と思われるカップルというのも多い。

つまり、「志村デート」である。

先に書いたように、おじさん2人組、みたいなカップルも多い。
それについては、デートかどうかはそれはわからない。

世代を超え、時代を超える存在。
もしかして、志村けんとは実在しないのかもしれない、我々の願望と想像力が産んだ幻想なのかもしれない、と思うほどの浸透力。
日本人に染みついている。

それが志村けんなのである。

もし、このまま歳をとったとして、俺が70歳くらいになったとする。
その時に、アキと志村デートをしたい、と思うわけで、それはみなさんも同じだろう。
つまり、志村はどっかロマンチックでもある。
笑いだけではない。
特大のウンコ模型が出ようが、ひ~ちゃんがお茶をこぼそうが、永遠のデートコースとなり得るという意味で、どこかそれはロマンチックなのである。

こんなコメディアンが他にいるか?というと、日本にはこれまったく見当たらない。
志村の前に志村なし、志村のあとに志村なし、なのである。


というわけで、何枚かしかないチケットを取り合って、「俺も俺も」となるウチのみなさん。
だってみんな行きたいんだもん。
でも、まあ人気チケットなのでそんなに枚数が取れるわけでもない。
そんなわけで、今回は5枚の席を争って、志村選手権を開催する運びとなったわけです。

志村選手権と言っても、まあ誰もが知ってるアレをやるわけです。
あい~ん、ができるかどうか。
その時のアゴ、そして手の角度、などを審査することになります。

「何だ君は?」と聞かれれば、まず「何だチミわってか?」と答えて後、「そうでさ(さとすの間)、わたす(しとすの間)が変なオジサンです」とカメラ目線で言った後、変なオジサンを踊る、という流れですね。
まず、この段取りをしっかりできるかどうか、そのへんですね。

普段の仕事の中でも、「大丈夫か?」と聞かれれば、当然「だいじょぶだぁ~ん」と答えなければならないし、日本酒を飲んだ場合、「やっぱりニッポン酒はいいよなあぁ」と、いいよなおじさんをやらなければならない。

ま、こうした普段の志村姿勢も問われたこの一ヶ月。
熾烈な闘いを経て、メンバーを選出。
まあ、その席につけたヨウコなどはもう大喜びしておりました。
小躍りです。


ま、そんなわけで。
こういうの、どうでもいいっちゃあ、どうでもいいんですけど、面白いですね。
こういう「だいじょぶだぁ~ん」とかが出来ない人っているじゃないですか。
苦手、というか。

こういうのがサッとデキる人、出来ない人、ってのは確かに分かれます。
ウチで言うと、俺とかアキ、市丸とかはすぐできますね。
むしろ普段から面白い顔をするタイプ。
これは、おちゃらけている、ととられても仕方がないタイプですね。

けど、やっぱ「恥ずかしい」が先に出ちゃう人がいます。
ま、冷静に考えれば、そっちが普通の大人だと思います。

ヨウコは、まあどっちかというと後者かと思いますが、今回、「だっふんだ」を思いっきりやっていたのが印象的。
もうその「タイプ」すら志村は越えさせてくれるのであります。

ま、ウチの場合、恥ずかしくはなくても「だっふんだ」の構造がよくわかってない、表情は見てわかっても、その表情の作り方がわからない、変なオジサン、の段取りをすっ飛ばしてとにかく変なオジサンダンスをしたがる、ということもあり、なかなかリアル変なオジサン大集合で面白いんですが。
まあ、そこで一回みんなで爆笑できる、という、まだ舞台を見に行ってないのに志村ワールドに我々は引き込まれているのである。

というわけで、まあ堪能してきました。

ありがとう志村。
志村ありがとう。
ありがとう夏。





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(BGM:Ska★rokets「さらば恋人」from「This is Cover !」)
→これを聞いて思ったのは、この前奏のママ「北~のぉ~酒場通りにはぁ~」としてもまったく違和感がない、という驚き。

敵は職員?


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ウチの機関紙7月号に副会長名義で書いたモノを転載します。
市の監査ということでウチが出した内容の公表と共に、監査に端を発した我々の考える問題点をシリーズでカズミを中心に執筆・連載しています。
これは三回目。
「敵は職員?」と題されたものです。

虹の会機関紙はにじ屋で配布しています。
また来れない方には郵送もしています。
会員になってもらえると毎月届けます。
コメント欄などで詳細おたずねください。



「敵は職員?」

職員とは何か?という定義ですが、我々のようなところのいわゆる「指導員」とか「職員」といった側の、いわゆる世の中から「専門の方ですね」と言われる人たち、ということにして話を進めたいと思います。


*対社会という存在としての職員

一般に職員といえば、彼らを指導する人、守る人、といったイメージでしょうか。
確かにそういうことになりますかね。
その前提には、彼ら、例えば市丸なんかは「指導する人」「守る人」がいなければ存在できない、という社会の共通認識があると考えていいかと思います。

ま、その前提がそれでいいのか?という疑問はまずあります。

今の福祉の流れはノーマライゼーション、「誰がどんな状況におかれても社会の中で共に生きる」という方向に進んでいるということになっています表向き。
でも、市丸たちについては、「指導が必要」「守る人がいなければ存在できない」というのは、構造的には矛盾しています。
本来、彼らを受け入れるために、どのように社会を作っていくか?というのがノーマライゼーションの形でしょうが(例えば駅の階段にエレベーターをつける、みたいなことと同じように)、なかなかそのために「何をしたらいいのか?」というのが、社会の中に確固たるものがありません。

これは、例えば車いすだったらエレベーターをつければいい、目の不自由な人には点字ブロックをつけるとか、そういう最低限の共通認識があるわけですが(もちろん、それだけでは足らない人だっているから、それでいいわけではないが、最低限、という意味で)、それすら見つからないといった感じじゃないでしょうか。

それは必要としてる応援が、どんなモノなのか、市丸とカイでも違うし、千差万別だから、なかなか「最低限何をしたらいいのまず?」というのが、見えづらい。

そこで、こうした職員が、それをくみ取って、社会の中に彼らが存在できるよう、なんかしらしてください、という感じがあるように思います。
職員の方がちゃんとやってくれることによって、社会の中に彼らも存在するんです、という「形」が求められていると思います。

意地悪い言い方をすると、社会参加できるよう、ノーマライゼーションの推進のため、「めんどう見て下さい」、という感じでしょうか。


*市丸たちに対する職員

確かに、毎日の中で、市丸たちに「指導」「教える」みたいな場面はあります。
それは、文字や計算、といったことだけじゃなく、「社会のルール」みたいなこともあります。
例えば、道路で裸になってはいけない、知らない人を噛んではいけない(知ってる人でもダメですが)、など。

同時に、社会に参加したい、という意欲を育てていかなければなりません。
それがなければ、そもそも社会のルールを教える必要はありません。
何かしらの建物に閉じ込めておくのなら、別にそこの中だけで通用するルールを作ってしまえばいいわけですから。

つまり、その団体でやっている作業所だったり、いろいろな施設で、意識を常に外に向けてやらなければなりません。
そもそも、社会参加を促すため、誰もが共に生きる社会、そういう福祉の理想実現のため、雇われているわけですから。


*施設という場がどうあるべきか

家庭の中で、基本的には子どもは守られます。
しかし、年を経て成人を経て、親や家庭という守られた存在としてだけではなく、一歩社会の枠を広げてやる必要があります。
そして、社会に羽ばたいていけるチカラを、意欲を育てる必要があります。

そのために、まず施設が家庭と同じ機能をしていたのではよろしくありません。
それは家庭から外に出ていけない、ということになりますから。
社会が広がっていくための、家庭の外の「第一社会」としての存在にならなければなりません。
そして、そこが居心地がよく、そこにいたい、と感じられることが大事です。
そこから、もっと広い世界に目が向くように、職員は努力すべきだと思います。

つまり、職員が、冒頭に書いた「守る存在」であるが故に、親と同じ目線に立ってしまうとそれはそれで意味がない、ということです。
それを越えた、家庭から一つ枠を越えた「社会」の形成が必要だと思います。

つまり、「守る」というのは、確かに守るんだけれど、同時に家庭の外の第一歩目の社会を存在させてやる、という作業が必要なのではないか。(※)
社会から孤立せず、彼らに自信をつけさせてやる、まず社会に出るための仲間を作ってやる、という目線が必要なのではないか。

ここを見失ってしまうと、ただの「保護」になってしまい、「収容しておけばいい」という考えに発展してしまう気がします。
それは意地悪く言うと、「障害者は社会から隔離しておきますから、あなた方でめんどう見てください。出てこないようにしてください」「親が一生めんどう見てください」という流れに荷担してしまうことになります。
これは現在の福祉の理念を逆行させるモノです。


*社会への橋渡し

ウチのライブに来たい、という「利用者」がいて話をしていたら、そこの職員が「お母さんに聞きましょうね」とかいう場面が何度もあります。
夜に、酒を出す、飲むライブハウスでやる我々のライブに、お母さんはなかなかイエスとは言わないでしょう。
ウチのように、普段からそういうところに出入りしてるのなら別ですが、そうじゃない限り(というか、ほとんどそういうところはない気がします)、これは実現しません。
その職員の人が「わかった、お母さんには私が話しておくよ、一緒に行こう」と言ってくれればいいんですけど、そういうことになったことはありません。

こうして、「親の意向」を第一にしてしまうことは、彼らの「大人としてのメンツ」も潰してしまいます。
大人としてのメンツ、とは、「自分で好きなことを好きなように社会で実現できる可能性」という意味です。
あくまで可能性、ですが。

我々は、よく「青春を取り戻す」という言い方をします。
青春の間違い、勘違いも含めて、そういうことをもっとやっていこう、という意味です。
それが、社会への橋渡しになると思っているからです。

いや、そしてなにより、青春とは大事な人生の一ページです。
誰しもそれは同じでしょう。
親に隠れて、仲間とストリップに行く、エロ本を見る、タバコを吸ってみる、そうした行動を、我々はどんどんやっていきたいのです。

親とは青春の中で異物になっていく存在なのです。
つまり、「親に聞いてみよう」と言われてしまう環境は、「青春を取り戻せない」ということであり、本人にとっては絶望しかないのではないかと思うのです。
その手助けを、(裏では親と協力して、ということもあるかもしれません)職員はすべきじゃないのか、と思っています。


*職員の専門性

守る存在、指導する存在、という側面と、この「外に向けて行く存在」「親じゃない存在」という、いろいろな側面を職員は持っていなければならない。
だから、専門性が必要ではあると思います。

ただ、今の職員養成するための専門性を教える講座などの方向を見ると、どうも、この「外に向けて行く存在」「親じゃない存在」という部分が抜け落ちていると思わざるをえないことが多いのではないでしょうか。
自閉症とは何か、ダウン症とは染色体の異常である、そうしたことを学ぶことは必要ないとは言いませんが、逆に言うと、彼らを型に填めてしまう危険性もあるように思います。

「ダウン症はガンコ」などと言われますが、それを「ああ、ダウン症だから●○しちゃうのはしょうがない」としてしまえば、おそらくモトミはいまだに同じ服を着ていたかもしれません。
「自閉症の人はこだわりが強い」というのも同じで、それを真に受けてしまえば、いまだに市丸は実家でテレビの操作に夢中だったかもしれません。

でも、モトミも市丸も、今では同じ服にこだわることもなく、市丸に至っては「この服かっこ悪いかな?」と考えるようになったし、いやいや、そもそもこだわりが強く実家など出ることがないと思われていたんだから、それはそれら専門書に書いてあることを一部否定するような感じにすらなっています。
いや、市丸はそもそも「遅くなったから井上のウチに泊まる」ということすらできなかったんだった。
そんな話をしている最中に走り出して電車に乗っちゃって家に帰ったりもしていた。
それがどうだろう、今や毎週のようにどっかに出かけ、親から離れて生活をしている。
手伝いに来てくれた人と電話番号を交換して飲みに連れて行ってもらったり、私が知らないところでそういうことも多々あるようだ。

つまり、専門性とは、絶対ではなく、既成の専門性自体を疑うことが専門家なのではないか?と。

もちろん、当てはまることはたくさんあるし、専門的な勉強をすることは理解をすすめてはくれます。
でも、同時に、市丸を相手にした時に、「自閉症」と当てはめるのではなく、市丸として付き合っていく。
そして、市丸という人間の可能性を外に広げてやる、という視点を忘れてしまってはいけないと思います。

つまり、専門性を知り、それを疑うことが専門家なのだ、と思います。


*専門性の落とし穴

今は資格の時代になっていて、例えばヘルパーでもそうですが、2級を取ったら1級に、みたいに「階段をのぼる」ように準備がされています。
これは、資格ビジネス利権の問題ではありますが、それは又の機会にするとして、一方で「職員のモチベーションを維持する」ためにあるようにも思います。

本来、市丸が、井上が、モトミが何か社会に小さな一歩を踏み出したことにモチベーションを維持していかなきゃ行けないと思うのです。

どこかの作業所では「外食実習」というのがあって、ファミレスに行ったりするようですが、いやいや、そんなの実習しなくても、恐らく家族と一緒に普段行ってるんですね。
しかも、事前にメニューを配って、「親に」メニューも決めさせて、という、まったく意味のないことをやっている。
そうした実践をすることが職員である、作業所である、施設である、というようなことが「専門性」であるかのような誤解は、やっぱりよくない。

そうじゃなくて、単純にこのことをとっても、「それはオカシイし、意味がない」と、異を唱えていくことが専門家なのである、と思います。


*まとめとして、我々のこと

大事なことは、作業所や施設は、井上やカイにとって、家庭と社会をつなぐ「第一社会」にならなければならないということ。
その中で、職員は仲間を作り、外に目を向けさせていくことを常に考えなければならない。
同時に、彼らを守り、そのチカラを作って行かなければならない。

なにより、職員が彼らに信頼されなければならない。
「この人といたら、俺の世界が広がる気がする」
「この人といたら、俺の人生変わる気がする」
「この人といたら、俺は大人になれる気がする」
「この人といたら、仲間が増える気がする」
そんな職員がいる場所だったら、彼らは必ず「帰りたくない」と言ってくれるようになると信じています。

ウチの場合、「もう帰ったら?」といっても、「帰りたくない!」と必死に食い下がってくれるので、そもそも、冒頭に書いた「社会のルールを教える」とかについても、比較的楽に実行することが、ありがたいことに出来ています。

そして、自分の居場所に彼らは誇りを持っている。
誇りを持っているが故に、ケンカもありますが、それも第一社会としての役割だと思います。
誰に従う、ということじゃなく、「俺はこう思ってたのに、お前は何だ!」みたいなことですね。

我々は、彼らの青春を取り戻すために、それは社会の中で、ごく当たり前に人生を謳歌できるように、職員のこともしっかり育てていなければならない、と思っています。


*※補足

「親だって社会に送り出す力にはなり得る」と思いますが、経験上、やはり「一人(二人)のチカラ」というのと、職員数人の「チームとしてのチカラ」は違うように思います。
「親には出来なかったことが出来るようになった」というのはよく聞きます。

また、親と職員、つまり親と他人とでは、同じコトをしたとしても、意味が違うようにも思います。
それは、「家庭」ではなく、「社会」で起こったことになるからです。
そして、それは彼らに「大人としての」自信を格段につけてやることのような気がします。






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(BGM:BACKGAMMON「GUERRILLA GROWING」from「this is REAL STYLE」)
→こういう曲がメジャーにのっていくというのは、つまりはゼンゼングローイングしてないよな、という気がしてならんところもある。
ギャングとゲリラは違う。

色気のある人


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色気ってなんでしょう。
なかなかにこれ、難しい問題で。

まあなんでこんなことを急に考えたかというと、ドラゴンゲートの後楽園大会を見てきまして、まあプロレスですね。
男子ですけど、なんかね、色気のある選手が多い。

プロレスラーに必要なのは強さであって、色気ではなかろう、というご意見はごもっともなわけですが、やはりそこは人に見せるエンターテイメントですから。
やっぱ魅力的なことは条件の一つにあります。

とはいえ、魅力をどこに求めるか、って問題ではあるわけです。
そこを「色気」と断じてイイかというと、それはきっと違う。
ので、まあ俺としてはそこ「色気ですね」ということで話を進めようかと思います。


以下、ちょっと下世話な感じになる気がします。

まずもって、色気といった場合、いわゆる女の人が方を出した服を着ていたりしたら、いい年のおじさんは「色っぽいねえ」とか言います。
ま、俺の世代以下だと言わないと思いますが、そういう。

その感じ、「色気」というのを間違ってるんではないかと俺は思ってますね。
それは「裸に近い」コトを言ってるんであって、色気ではない。
色気というのは、服を着ていても色気なのである、と俺は思うわけです。
単純が過ぎるんですよ、色気=裸、という概念が。
裸だって色気があるとは限らない、と主張したい。

で、そこで次に問題になってくるのは、例えば「潤んだ瞳をしている」とかね。
そういうのも、まあ俺としては「目の病気じゃないの?」という話になってきます。
それに、なんか「媚びてる」感じがしてあまりそれには色気を感じない。

つまりそれはセックスの相手になります、みたいなことなわけです。
「抱かれてもイイですよ」という合図ですね。
そういうのは、どうでしょう。
あまりに直情すぎて笑えないというか、色気というより性に貪欲、みたいな。
逆に色気を感じなくなってしまう部分がありますね。

セックスと切り離さないと色気というのは成り立たないと、二つ目の主張をしたい。
とはいえ、色気を感じた場合に、「抱かれてもイイ」というのはなくはないわけで、切り離す、というのも正確に言うと違うのかもしれない。
ふむ。
セックスが前面に感じられるモノは色気と相容れない、という主張に変更します。

正直な話、「この子はゆるそうだな」という子はいますね。
実際そうなのかどうかはわからないが、なんとなくそう思われちゃう感じの人はいて。
これはもう本人の実際とあまり関係ないンだと思います故、何とも言えないんですが、そういう子に「色っぽいね」というのは「やりたい」からであって、本気で色気を感じている、というのとは違う気がする。

とはいえですね、例えばですよ、大好きな人がいたとする。
その人は、私のことを恋愛感情で思ってはいないけど、でもいい人で、その人と飲みに行くコトになった、なんていう場合。
一生懸命オシャレしたりしますよね、やっぱ。
しかもあまりやり過ぎてしまって、先の「潤んだ瞳」とかまで行ってしまうのは相手に引かれるかもしれない。
なんで、自分はそもそもオシャレじゃないけど、それでも精一杯オシャレしました、みたいな場合。
…ま、これ、抱かれてもイイ、というのもありますよねたぶん。
でも、この場合、「あ、この子今日はとてもかわいくしてきてくれたんだ」という感じで、その相手の人は色気を感じるかもしれない。

いや、これは「色気」ではなくて、その後ろにある「気持ち」に好感を抱いている、ということになるか。
そういう風に一生懸命にオシャレしてきたというストーリーに好感を持つ、という。
愛おしく思う、というか。

ちょっと話変わりますけど、よくあるのが、転校生の男の子がとても粗暴で好きになれない。
普段はケンカばっかりしてしまう。
けれども、その転校生が時折見せる横顔が何か物悲しそう…。
それに気づいた放課後、彼が道に捨てられた子犬を嬉しそうに抱き上げているところを見かけてしまう。
王道ですが、つまりこれも、すでにその時点で彼のバックにある何かに惹かれているわけです。

つまり最後の主張として何を言いたいかというとデスね、色気、というのを自分なりに定義してみると、このアタリなんですね。
一言で言ってしまうと「哀愁」ですか。
何か自分が知らない彼の本当の姿、みたいな。
それがほの見えた時に、グッと色気が増すような気がするわけです。

飲み会でも、楽しく盛り上げる人がいたとして、まあ楽しいだけで終われば色気もなく、「楽しい人」で終わってしまうんですが、その中で、ふと見せる表情に哀愁が漂ったりしていると「グッとくる」と。
ま、それを色気と定義したい。

つまり、チャラチャラカッコイイだけ、チャラチャラ楽しいし顔もイイ、みたいなものには色気は無縁なのではないか、と。
それは、性の貪欲さという人のサガに従えば、それに惹かれてしまうのもわかります。
けど、まあそれはやってしまったら、もう終わりですし。

ただまあ、それを狙って、あまりにできすぎた哀愁を醸し出すのもどうかと思います。
むしろそれは滑稽、となります。
あくまで「にじみ出なければならない」。


そう考えた場合、プロレスってのは、そもそもトレーニングあっての肉体芸術ですし、まあ喋りも重要な要素だったりしますから、その訓練というかな、そういうのがあるわけでしょ。
つまり、そこを感じさせる選手にグッと色気を感じているのではないか、と。
というか、そういうものを想像させやすいスポーツとは言えるような気がします。


というわけで、色気を出すには普段。
いくらカッコイイ服を着ても、露出を増やしても、やっぱうまくいかないというね。

そういう、なんかまあ、どうでもいい話ですけども。







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(BGM:ジャックス「忘れ得ぬ君」from「腹貸し女(若松孝二傑作選3)」)
→これはサウンドトラックということなんだな。
映画自体を見ていないのであれですが、これ、サントラになるんだとしたらすげえ映画だな…、と思う。
見てみたい。

悔しい話 ② (ラスト)


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http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-4896.htmlのつづきとして


たいがいの場合、中学で部活が始まったりすると夏休みも忙しくなって、「ばあちゃんちはいかないよ」ということになっていきます。

小学校までの家族の「慣例」というのは、確かに市丸たちと普通学級に通っていた子も同じだと思います。
それに縛られる感覚も同じだと思います。

ただ、そこに半強制的な「部活」というのが入ってくることによって、多くの学校の仲間の意識、というか雰囲気が、「親や家族との行動」よりも、「(学校の)仲間との行動」の方が重要だ、という風に動いていきます。
確かに、ブラック部活という言葉があるように、先生方の勤務とかのことに関しては問題だと思います。
が、ここではそれは置いておいて、具体的にこの「半強制的」なモノがはいってくることによって、「意識が変わりやすい状況になった」というのは、現実的にあると思います。


よく俺は市丸たちをして「彼らにはクソババア!というタイミングがなかなかない」という話をします。
これは、いわゆる「親離れのタイミング」ということなんですが。

よくまあ「親離れ」と言いますけど、単に「離れる」だけじゃなくて、親以外の友だちや仲間の方に「くっつく」ということなわけです。
単純に親から離れ、仲間とも幼稚園の時のママ、というわけじゃない。
つまり、彼らの「付き合いの範囲」「付き合いの比重」が変わる、ということなわけです。
それを「親離れ」という言葉で言ってるわけです。

で、この「クソババア!」を出すタイミングとして、部活が大きなトリガーになっているというのは俺は事実だな、と思います。

もちろん、動物は親から生まれ、親になっていく過程が人間の成長、いや、動物の成長なわけですが、DNAの指示といってもいいかな、その中で、子が親から離れて独立する、という時は必ず来ます。
来るには来るんだけど、その時って、簡単に言うと子どもの方でも勇気が要るわけです。

子どもが大人になる、というのは、「守られない」ということでもあって、そこに踏み出すのはとても勇気が要る。
これは市丸たちだけじゃなくて、誰しもそうだと思います。
だからこそ、この部活という「半強制的なモノ」は、ある程度の勇気の「後ろ盾」となり得るんじゃないかな、と。


蛇足①
あ、いや、なにも部活至上主義とか言うコトを言いたいんじゃないですよ。
現実的にそうだ、ということを言ってるだけで。
俺自身も高2以降部活やってませんし。
そんなに部活至上主義な人ではありません。
サッカーもマジメにやってたわけでもない。

蛇足②
先に、親離れとは、親よりも仲間の比重が高くなること、と書きましたが、つまり親子の関係は一生変わらないわけですよね。
親は子がどんなに大きくなっても心配だし、何かあれば世話を焼きます。
そういうことを否定するモノのように「親離れ」という言葉を理解する人がいますが、そうじゃなくて、比重が変わる、と捕らえたらいいんじゃないか、ということを言いたい。


話戻しまして。
先に書いたように、しかし、親から離れていく、すなわち仲間との比重が大きくなっていくのは、動物のDNAとしては、まあ仕組まれているプログラムではあるわけです。
けれども、それをするためには先に書いたように勇気が要る。

同時に、子が知的障害者だったりすると、親の方にも勇気が要る。

これまで、子どもが付き合ってる人のことはだいたいわかっていた。
いや、全てわかっていた、といっていいと思います、彼らの親御さんの場合。
しかも、その親まで知っていた、ということが多いでしょう。
けど、親の知らない人と付き合うようになる、という過程がここに入ってきます。
そちらの比重が高くなっていく、ということですね。

そのことに対する不安、みたいなモノもたくさんあるんだと思います。
平易な言葉で言うと「悪い人にだまされてるんじゃないか」とか。
ま、それだけじゃないですけど。
「ご迷惑かけてるんじゃないか」みたいな。

でもまあ、ご迷惑も含めて「仲間」なわけですね。
悪い人にだまされるという経験もあって悪いわけじゃない。
いや、ない方がイイし、取り返しがつかないこともあるのでその辺は難しいですが、しかし、そこを怖がっていたら、やっぱ親の範囲から子どもを出さないことが一番簡単な方法になってしまい、動物としての本能がくじけます。

そうなると、おそらく無気力にもなるでしょうし、希望も持てない。
そうなれば、学びたいという欲求もなくなるし、知ろうという気持ちも持てなくなる。

二次障害、なんて言葉がありますけど、色々な文献を読んでみると、「そもそもこの子自信が人生に希望を持ててないんじゃないか?」という例もたくさんあって、つまり、それを「障害」という機能的なモノに帰してしまうのはあまりにかわいそうじゃないか?という気持ちになることも多いんですね。

つまり先の論理で言えば、動物としての本能が削がれている状態、というか。


確かに、色々な状況で、親も子も「勇気が出ない」。
その状況が、また「この子は知的障害だからしょうがない」という風に言われてしまう一因だとしたら、それはなんかちょっと変えていくことができるんじゃないかな、と思うワケです。







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(BGM:加藤賢崇「宇宙フーテン旅行」from「若さ、ひとりじめ +10」)
→凄味がない人。
でもそれがウリなのよね、なんてったって「若さひとりじめ!」。
テクノなのかしら、この曲はなんか最も彼にフィットしてる感じがする。

ポップコーンセットのような副題 ★ 映画 「ワイルドスピード ワイルドコンボ」


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「ワイルドスピード・スーパーコンボ」をお一人で見てきましたよ。
ちょうど時間が合ったのがこの映画。
なんでしょう、「ちょうど時間があった時に見る映画」としては最高のチョイスじゃないでしょうか。
とにかくアタマ空っぽで見てられますから。

しかもロック様が出ている。
俺がわざわざアメリカにまで見に行ったプロレス団体WWEのトップだったレスラー。
今はもうドウェイン・ジョンソンと言った方が通じるのか。
ハリウッドの超大物となりました。
プロレスもエンターテイメントですから、エンターテイメント界のトップと言ってイイ。

その辺りも「ちょうどいい」。


ちょうどいいといえば、この映画の最中、地震がありまして。
ちょうどいいなんて言ったら不謹慎ですが、けっこう揺れましてね。
長かった。
横揺れ。
でも、その時はあまりよくわからなくて。
というのも、映画館というのは、そもそも「おしゃべりはやめましょう」みたいなことになってますから、「え!地震じゃないの!」とか言う人がいない。
静か~に座席が揺れている、と。

しかも画面はワイルドなスピードに溢れているわけです。
ガンガン街中の車がたくさんいるところでのカーチェイス。
もう息もつかせぬ攻防の連続。
ま、そんなの見てますから、…4DXか?と。
いや、俺が画面に酔ったのではないか?と。

ま、地震も不幸中の幸い、特に大きな被害があったわけではなさそうだったのでよかったですが、そんなわけで、ワイルドスピードを堪能しました。


この映画、シリーズモノなわけですけど、原題は「Fast & Furious」というらしい。
今回は、副題というかで「Hobbs & Shaw」。
ホブスに扮するロック様とショウに扮するジェイソン・ステイサムさんの二人しか出てきません。
ヴィン・ディーゼルさんは出てこない。
スピンオフみたいな感じなのかしら。
でもまあ、充分見応えはありましたけども。

で、ショウの妹役としてバネッサ・カービーさんが出てまして、「ミッションインポッシブル・フォールアウト」に出てた人ですね。
彼女がイイ。
格闘ができるスパイとしてはちょっと細すぎるきらいはあるが、目線や立ち振る舞いがシャープで引き込まれる。

ハリウッド映画は、出てくる女性のかっこよさ(かわいさ、ではない)に比例して面白くなると思ってるんだけど、そういう意味ではこれはひじょうに俺の中での点数が高い。


スジはねえ、まあどうでもいいんです。
とにかくワイルドにスピードしてればいいわけですから。
その理由だけが必要、ということなわけでして。
今回はこの妹がカギ。
妹もエージェントなんだけど、敵の、つまり悪者の策略によって裏切り者の烙印を押されてしまう。
同時に、悪者が狙う新種のウィルスが体内に!

というわけで、発症する数十時間後までにそのウィルスを体外に出さなきゃいけないし、悪者も倒さなきゃならないし、ということになるわけね。
ただ、今回はそんなわけで、悪者もその妹は殺せないわけです。
なにせ、そのウィルスを巡って闘ってるわけですから。
そこがまあ、設定の妙ですね。
よくできてる。


ただね、なんか惜しいのはデカイ闘いが2回あるんです。
だから、どうなんだろな。
ちょっと散漫な感じはあります。
最初の大詰めは敵のアジトからの脱出、からのカーチェイス、みたいな感じ。
でも、敵のボスはまだ生きてて。
そして最後の闘いは、ロック様の故郷、サモア?で、兄弟を巻き込んでの「原始的な」感じで繰り広げられる。
これがまあ、確かに出来過ぎなんだろうが、なかなかおもしろい。
正義の味方が素手で(素手じゃないけど、いわゆる斧みたいなのとか、トラップとか)そういうので巨大な悪に闘いを挑むというのは、見ている側はやっぱ不変に燃える。

最後勝つのはわかって見てるし、まあ安心安定。
ハラハラというより、ロック様のヒーローッぷりにしびれる、と。
まさに「If you smell what The Rock is cookin’!」であります。


なかなか面白かったと思います。
そして、やっぱこれは大画面で見た方がいいよね。





baka.jpg

(BGM:FOOLS「となりの誰かに」from「憎まれっ子世に憚る」)
→このファンク調なリフの繰り返し、好きなんだなあ。
カッコイイ。
うねるベース、時にチョッパー、踊るギター、最高じゃないか。

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